第213話 あんたがレニか。
12.
橇を操るイズルの腕は確かで、三人は予定よりもかなり早く、大陸の西側にある村スノウピークにたどり着いた。
ここからさらに北西に進めば、イルクードの居住区である入江がある。
コウマの顔馴染みであるスノウピークの宿の主人は、「イルクード」について聞かれると、ひどく複雑な表情になり、周りを伺いながら声を潜めた。
「しばらくはイルクードに行くのは止めたほうがいい」
「何でだよ?」
コウマは主人の様子から何事かを察して、声を小さくする。
首を振って話を打ち切ろうとする主人に向かって、レニが身を乗り出す。
「待って! 何か知っているなら教えて下さい。イルクードに知り合いがいるんです……!」
「ちょ、ちょっと、困るよ」
主人が慌てたようにレニを押しとどめようとした瞬間、鋭い女の声が室内に響いた。
「何だい? イルクードが何だって?」
しなる鞭のように声を叩きつけられて、三人はいっせいに振り返った。
「ア、アストウ」
赤い髪をなびかせて傲然とした様子で立つアストウを見て、宿の主人は半ば困惑したように、中ば怯えたように声を上げる。
主人が何か言うよりも早く、アストウは三人の顔を順繰りと睨みつけた。
「あんたら、見ない顔だね。余所者かい。あんたらが見たがっているイルクードが来てやったよ」
尤も、とアストウの表情が自虐的に歪む。
「仲間に裏切られて群れから追い出された、はぐれ者だけどねえ」
だいぶ酒が入っているのか、アストウは呟いてから自棄になったように笑い声を上げた。後ろから仲間らしき二人の若い男が、慌ててふらついているその体を支える。
「追い出されたって、あんた」
「ああ? 何か文句でもあるっていうのかい?」
怒りと鬱憤が内部で煮えたぎっているのか、コウマが口を開いた瞬間、アストウはそちらへ食ってかかる。
襟元を掴まれた瞬間、コウマは慌てて言った。
「お、おい、止めろ! アストウ、俺だよ、俺。行商人のコウマだ」
「コウマ?」
アストウは酔った瞳で、ジッとコウマの顔を観察する。
疑わしげに眉をひそめたアストウに向かって、コウマはさらに言い募る。
「一昨年の夏に、東から香辛料を持ってきただろ! 魚の香草焼きにかけたじゃねえか」
「ちょっ、ちょっと! お姉さん、手を離して!」
アストウはぼんやりとした眼差しで考え込んでいたが、不意に「ああ」と言って手を放した。
大きく咳き込んでいるコウマをしばらく観察してから、アストウは言った。
「あんた……行商の兄さんじゃないか。今年も来てくれたのかい、こんな時期に」
「ったく、何なんだよ。相変わらず喧嘩っぱやいな」
横目で睨まれて、アストウは肩をすくめる。
「悪かったよ。ちょっと面白くないことがあったもんだから」
「群れから追い出された、と言ったな?」
イズルが低い声で問いかけた。
「北の人間が、冬に追放するなどありえない。よほどのことをしない限りは、な」
アストウは、分厚い毛皮の防寒具を羽織ったイズルの大柄な体をジロジロと眺める。
「何だい、あんた? 藪から棒に」
「俺の連れだよ。ユグっていう、東の部族の奴なんだ」
「ユグ?」
アストウは鼻を鳴らした。
「聞いたこともない。どこの田舎者だい?」
「おい、イズル。よせよ」
剣呑な眼差しでアストウのほうへ歩み寄ろうとするイズルを、コウマが慌てて押し留める。
アストウは薄い笑いを浮かべて、ヒラヒラと手を振った。
「何だい、やるなら相手になるよ。あたしはあんたみたいなうすらデカイ木偶の坊を、いくらでものしたことがあるからね」
その時、レニが二人のあいだに割って入った。胡乱そうなアストウの顔は、小柄で童顔なレニの姿を見た瞬間、虚を突かれたように僅かに和らぐ。
レニはその顔を見つめて口を開いた。
「お姉さん、イルクードの人なんでしょう? リオっていう女の人を知らない?」
「リオ……?」
アストウの瞳が大きく見開かれたのを見て、レニは身を乗り出した。
「知っているの?!」
「う、うん」
アストウは気圧されたように呟き、必死の形相をしているレニを凝視する。
そうして何かに操られたかのように、不意に口を動かした。
「レニ!」
アストウは、レニの赤い髪、ハシバミ色の大きな瞳を驚愕の眼差しで見つめる。
「あんたが……レニ、レニか!」
レニは呆気に取られて、アストウの顔を見た。
「私を知っているの?」
「知っているも何も……」
勢い良く話し出そうとしたアストウを、コウマが制止する。
「おいおい、ちょっと待てよ。立ち話も何だし、俺たちの部屋で話そうぜ。イルクードのほうでも色々あるみてえだしな」
アストウの体を揺さぶらんばかりでいたレニを宥めると、四人は宿の二階の部屋に上がった。
★次回
第214話「何を言っているんだ」