第209話 逃亡
9.
夜が更け部屋の外に人気がなくなったのを確認すると、リオは扉から滑るように通路に出た。
厚手の服を着込み、頭からは毛皮の外套をすっぽりと被る。冷えた空気を吸い込まないために、布で口元から首を覆う。最低限の荷物を入れた背嚢を持ち、灯りをつけず、薄暗い通路を息を潜めて進んだ。
見つかればおしまいだ、と思うと、口の中が乾き背筋が冷たくなる。
外を見ると、村に近い場所でいくつもの松明の灯り暗闇の中を行き来しているのが見えた。
夜闇の中でも、部屋から一番近い橋桁を通れば見つかるだろう。リオは船尾に向かって、足音を立てないように通路を進んだ。
普段であれば深夜まで酒盛りが続き騒がしいが、今日はシンと静まり返っている。
時折、どこか遠くで人が走り回る音が響く以外は、波が寄せる音が聞こえるだけだ。
「おい」
不意に声が響いてリオは、体を緊張で強張らせる。
暗がりの中で動かないようにして、辺りを見回すと少し先の部屋の扉が開き、誰かが中へ入っていくのが見えた。
「あいつら、戻って来たか?」
「いやあ、まだ来ねえ」
三人の男たちが酒を飲みながら仲間を待っているようだ。
扉が完全に閉まり、男たちが話に戻るのをジッと待つ。
大声で話し始めるのを確認すると、リオは暗くなった通路をソロソロと歩き出した。
焦る心を押さえつけ、音を立てないようにゆっくりと部屋の前を通る。
男たちが騒ぐ声を聞きながら扉の前を通過し、ホッとひと息つく。
再び歩き出そうとした瞬間、
「酒が足りねえな」
「ちょいと倉庫に行ってくるわ」
言葉と共に背後で扉が開いた。
リオは咄嗟に顔を背け、暗がりの中で身を強張らせる。
奇跡的に男が自分のことを気に止めないという幸運にすがりながら。
だが願いは空しく、男は怪訝そうに足を止めた。
「あっ? 何だ、お前……」
男は身を縮めているリオの顔を覗き込む。
「女……?」
男は、よく状況が呑み込めないといった風に、困惑したように呟いた。
その瞬間、リオは勢いよく駆け出した。
「おいっ、待て!」
「何だ? どうしたんだよ」
「女だ、船に女がいる!」
後ろから追いかけてくる声を振り切るように、リオは必死に通路を駆ける。
だが鍛えられた体を持ち、船の中を一から十まで知り尽くしている男たちを振り切ることは出来なかった。
追いつかれそうな気配を感じると、リオは懐に手を入れる。
「待てよ」
男たちが腕を伸ばしてきた瞬間、リオは身をひるがえした。その手には短刀が握られていた。
「さわるな!」
強く鋭い響きの声に、三人の男は、一瞬困惑したような顔つきで立ち止まった。
だがすぐに、酒で赤くなった顔に弛緩した笑いを浮かべる。
「んなもの振り回したら危ねえぞ」
「自分の腕を切っちまいそうだ」
まったく恐れる様子がなく、揶揄を口にしながら近寄ってくる男たちに、リオは刃先を向ける。
「近寄るな! あなたたちを傷つけたくない」
「おうおう、ずいぶん優しいな」
男たちは酔った顔を見合せて、笑みを大きくした。
「おらあ、優しい女が好きだ」
「俺もだよ」
脅すように振りかざされた刃先を、男たちはまったく気にしない。何とか自分たちを追い払おうとするリオの抵抗を、楽しんですらいるようだった。
男の一人が短刀を持つリオの手を掴み、捻り上げる。
リオは小さく呻いた。叫び声は何とか噛み殺したが、短刀は暗闇の中に落ちて見えなくなった。
「気丈だな。声を立てやがらねえ」
「おめえの髭面が怖すぎて、怯えちまってるんじゃねえの?」
「ちげえねえ」
男たちはゲラゲラと笑いながら、リオを取り囲む。
「よう、別嬪さん。ちょっと付き合えよ」
男の一人はいきなりリオのことを抱きすくめ、外套をはいだ。
「放せ!」
「暴れるなよ、俺は女には優しいぜえ」
リオの抗いを楽しみながら、男は服の中に手を入れ、細身の体を撫でまわす。酒臭い息が首筋にかかり、リオは身を震わせた。
「震えているぜ」
「大丈夫だ、すぐにあっためてやるよ」
「おいおい、何する気だよ」
仲間たちと冗談を言い合いながら下卑た笑いを浮かべる、男の顔に不意に奇妙な表情が浮かぶ。
「あ? あれ……? 何だあ?」
「ああ? どうした?」
「久しぶりすぎて女の扱いかたを忘れちまったのか?」
しかしリオを捕らえている男は、仲間たちのからかいが聞こえてもいないようだった。
困惑が焦りに変わり、酔いから醒めたような表情でリオの体を必死に撫でまわす。
「こいつ……。こいつ……」
「何だ、お前、必死すぎだろ」
笑い合う仲間の前で、男は不意にリオの体を突き飛ばすようにして放した。壁際にまで後退し、大きく目を見開いて反対の壁にすがりついているリオを凝視する。
「こいつ……男だ!」
★次回
第210話「女に見える男」