第201話 手に入れたくなる。
3.
部屋の扉を波に揺れる通路に出た瞬間、アストウは赤茶色の瞳に鋭い光を浮かべ、通路の先を見る。
誰何の声を上げるよりも早く、薄暗い通路の先から人影が現れた。
「ランス」
その姿を見て、アストウは半ば安堵し半ば不審な思いを込めてホッと息を吐く。
「何をしているんだい、こんなところで」
アストウは部下の姿をジロジロと眺める。
ランスはアストウと同い年で、幼い頃から一緒に育ってきた仲間の一人だ。弓に剣術、泳ぎや潜り、狩りや操舵術と部族の中で覚えるべきことの全てを、学び競い合ってきた。
子供の時は族長の娘であること、女であることから何かと目の敵にされたが、大人になった今はむしろ率先して下の者を束ね、アストウを支えてくれている。
大柄な人間が多いイルクードの中では細身で、一見すると優男のように見える。だが、剣や弓の腕前は一族の誰にも引けを取らない。
イルクードは元来、過酷な極北の地で他部族と争い生きてきたため、理屈抜きで部族の中で最も強く、生き抜く知恵のある者に従う。
男社会であるイルクードで女のアストウが族長でいられるのも、前族長の娘であったという血縁以上に、自分の部族を守るための力があることを誇示出来ていることが大きい。
ランスは、黒に近い褐色の長い髪をひとつに束ね、アストウと同じ様に短衣の上にベストを羽織る船乗りの姿をしている。
時折黒い瞳の中に宿る鋭く物騒な光によって、理知的で落ち着いた雰囲気とは裏腹に、他のイルクードと同じ様に血生臭い荒事をかいくぐってきた人間であることがわかる。
ランスは部族の他の人間とは違い、腕に物を言わせることは少ない。それは流血を好まないからではなく、暴力というものは大抵の場合、最も効率が悪い手段だと考えているだけだ。それが最も効果的であると判断すれば、部族のどの人間よりも残酷になりうる男だった。
ランスは、アストウが出てきたばかりの扉に目を向ける。
「あのお嬢さんは良くなったのか?」
「ああ、さっき目を覚ましたよ。熱も下がったみたいだ。もう大丈夫だろう」
ランスは扉に視線を固定したまま言った。
「身元はわかったか? 娼館かどこかからか逃げ出してきたのか?」
「そこまでは聞かなかったけれど。帰る場所はないって言っていたよ」
「どうする気だ?」
「そりゃあ、行くところがないって言う若い娘をそこら辺りに放り出すわけにもいかないだろ。連れて行くさ。食い扶持が一人増えたくらいで困るわけでもないし」
アストウは、部下の顔を眺めて言った。
「反対なのかい?」
なぜ? とアストウが問うより早く、ランスははっきりとした口調で答える。
「争いの種になる」
「争い?」
「アストウ、あの娘は危険だ」
「危険……?」
一体、なんの話をしているんだ、と言いかけて、アストウは口をつぐんだ。
ランスの顔つきは、嵐の前の海を見ているかのように油断なく鋭く、よもやま話をしている表情ではなかった。
「ああいう女は、男はひと目見ただけで手に入れたくなる。北に連れ帰れば、あの娘を巡って男たちは争いを起こす。誰かがはっきりと自分の物にするまでは、その争いは続く。そしてあの娘は、誰の物にもならない。手に入りそうで、決して手に入らないもの。そういう物は、男を狂わせる。それを手に入れることができる唯一の人間になるために、殺し合いを続けることになる」
「何をそんな……。そりゃあの娘は、北では見ないような女だし、滅多にいないくらい綺麗ではあるけれど……」
ランスは首を振る。
「外見の問題じゃない。あの娘の本態は、どこか別の場所にいる。月の娘が、罪人としてこの地に落とされ、月に帰りたがるように。だから決して手に入らない。そういう女が目の前にいることに、男は耐えられない」
「失礼だね。別にあの娘じゃなくとも、お前たちの物にならない女なんていくらでもいるだろうよ」
アストウは半ば冗談めかして肩をすくめる。
ランスは眉をしかめた。自分の真意が伝わらず苛立っていることが、はっきりと伝わってきた。
普段は常に合理的で、アストウのやり方に真っ向から反対することは極めて稀なランスが、これほど頑強に反対することは今までになかった。
その焦燥に圧されたように、アストウは言った。
「じゃあ、どうすりゃあいいんだ。金を持たせて船から下ろせって言うのかい? あんなひ弱そうな娘、金品を巻き上げられて、またどこかに売り飛ばされるのが目に見えているよ。どんな目に遭うかわかっていて、そんなことをするのは寝覚めが悪いね」
しばらくの沈黙のあと、ランスは口を開いた。
「この船にいる間に、誰かに娶らせる。正式な夫婦として北に連れ帰れば、他の奴らも諦めるだろう」
アストウは呆気に取られてランスの顔を見た。しばらくして苦笑を浮かべる。
「その相手っていうのは誰にするんだ? そこでまた揉めるんじゃないかい?」
ランスは間を置かずに答える。
「族長であるあんたが認めるなら、俺の妻にする」
アストウはぽかんとしてランスの、平素と変わらない顔を眺め、次いで思わずと言った風に噴き出した。
「何だ、結局はあんたはあの娘に惚れた、それだけの話じゃないか」
「違う」
「何が違う? 違わないさ」
話の内容はすべて呑み込めた、そう考えるアストウの前で、ランスは半ば諦めたように半ば義務的な調子で口を開く。
「アストウ、あんたがあくまであの娘を北へ連れ帰る、と言うなら、俺はこれが一番あんたのためにも部族のためにもいいと思うことを話している。あの娘に帰る場所がないならば放り出すわけにはいかない、面倒を見るしかない。それは、あんたの言う通りだ。俺はそのために自分が犠牲になる、そういう話をしている」
「犠牲?」
アストウは、思わずランスの顔を見つめ直した。何かの冗談を言っているのかと思ったが、ランスの顔はどこまでも真面目だった。
★次回
第202話「ここではない、どこか」