第198話 イルクードの女族長
1.
まどろみの中で、体を大きくうねらす波の揺れを感じる。
その揺らぎは一年ほど前、レニと一緒に船に乗った時のことを思い出させた。
レニは、盗賊にさらわれたリオを助けるために無理をして、船の中で倒れた。
自分の身もろくに守れずレニに負担をかけることが、情けなかった。だから船長に自分の身を差し出すことで、レニの療養のための部屋や薬を手に入れられたことが嬉しかった。
ただの役立たずの足手まといではない。
自分も旅の中で、レニを守ることが出来る。
船は港町に着き、キャラバンに乗り北へ。そこでソフィスとコウマに会い、ソフィスとは別れ、ゲインズゲートへ。
ユグのために舞を奉納し、学府にたどり着いた。
旅の間、辛いこともあった。悩んだこともあった。
たがそれも、レニと一緒に旅をする喜びに比べれば些細なことだった。
レニの側にいつもいる。
ずっと夢見ていたことがかなった。
その幸福を、最初のうちはにわかには信じることが出来なかった。
でも旅を続けるうちに、いつしかこの夢はずっと続くものだと、当たり前のように思うようになっていた……。
2.
意識が覚醒する感覚があり、リオはゆっくり目を開く。
まだはっきりとしない視界に、古いが頑丈そうに組まれた木の天井が映し出される。見覚えのない場所だ。
既に体が馴染んだ波の揺れが、寝台の下から伝わってくる。
「気が付いたかい?」
聞き慣れない声で言われ、リオは寝台の脇に顔を向けた。
赤い長い髪を布でひとつに束ねた女が、枕元に座っていた。
布の短衣の上に皮をなめして作られたベストを羽織る、一般的な船乗りの格好をしている。
年齢は二十代後半くらいだろうか。女性にしては背が高く、細身でしなやかそうな体つきをしている。やや気性が荒そうなキツイ顔立ちには、野生の獣のような美しさがある。
だが何よりもリオが惹きつけられたのは、女の瞳だった。安堵と労りが浮かんだ赤みがかった茶色の瞳は、レニのそれとよく似ていた。
「水はいるかい? あんた、ここ三日くらい凄い熱だったんだよ。ずっと震えていたし」
吸い寄せられたように女の目を見つめていたリオは、そう言われて辺りを見回した。
「ここは……?」
「船の中だよ」
「船?」
女が言った。
「あたしと仲間の船だよ」
リオは寝台の中から、女の姿を観察しながら尋ねた。
「あなたは?」
「アストウ」
「アストウ……?」
ぼんやりとした口調で呟いたリオの顔を、アストウはしばらく見つめる。その視線が悩むように辺りをさ迷う。ややあって、ためらいがちに口を開いた。
「あんたさ、エリュアの街中で倒れたんだよ。覚えていないのかい? 男たちにからまれて」
倒れる直前の記憶が頭の中によみがえってくる。
雨の中、宿を出て行くあてもなく歩き続けて、男たちに捕まった。空き家に連れ込まれそうになる直前、男たちの前に立ちふさがる鮮やかな赤い髪が見えた……。
レニ……。
黙って目を伏せたリオを見て、アストウは思いきったように言った。
「ずぶ濡れだったから、あたしが着替えさせたんだ。てっきり、女だとばかり思ったから」
リオは体を起こし、自分の着ているものに目を向けた。宿を出てきた時に着ていた上質な女物の長衣ではなく、ごく質素な室内着を身にまとっていた。
「オルムターナじゃあ、男が女の格好をしたり女が男の格好をすることも珍しくないって言うよね。あたしらみたいな北の人間からすりゃあ、けったいなことだなと思うけど」
アストウは少し黙ってから探るような口調で言った。
「ただ、あんたは自分の好きでそうしていたわけじゃないみたいだね」
しばらく沈黙が流れたあと、アストウはごくさりげなく付け加える。
「どこかからか、逃げてきたのかい?」
アストウは安心させるように言った。
「心配しなくていいよ。だからってあんたを引き渡そうだなんて思っちゃいない。エリュアの奴隷商人は大嫌いだからね」
リオは顔を上げて、アストウのほうを見た。賛嘆のためか軽く息を吐いたアストウを見て、リオは口を開いた。
「あなたは誰ですか? 何のためにエリュアに?」
リオは揺れる室内を見回して言った。
「この船は、どこへ向かっているのですか?」
「この船は、あたしらの家に帰るところなんだ」
「家?」
怪訝そうなリオの言葉に、アストウは頷く。
「そう。北の海に、ね」
「北の?」
アストウは木製の椅子の上で足を組み替えて、心持ち顎をそらした。
「あたしたちはイルクードだよ」
「イルクード……」
★次回
第199話「あの人に似ている」