第197話 どこにもない。
20.
リオは部屋から庭に出て通用門を通り、再びエリュアの街中に出た。街の白い石畳は激しい雨が打ちつけられ、視界も曇って悪くなっていた。
天候の急変に慣れているのか、街中からはほとんど人はいなくなり、時折通りがかる人々も脇目もふらず早足でどこかへ向かっていく。
リオはその中を外套もつけずに、ふらふらと歩き続けた。
どこに行くか自分でも分からなかった。
どこまで行けばこの世界から出られるのか、自分という牢獄から出られるのかがわからなかった。
上流階層の居住地から店が立ち並ぶ市場、歓楽街を抜けると、周りの風景は次第に薄汚れ殺風景になってくる。
リオはおぼつかない足取りで、港が程近い、港湾で働く日雇いの労働者や流れ者が多い地区に入っていった。
「おい、お嬢ちゃん。どこへ行くんだ?」
「一人か? 危ねえなあ」
「暇ならちょっと付き合えよ」
路地裏の軒先でたむろっていた男たちから声をかけられる。
リオはまるで耳に入っていない風に、何ひとつ反応せず歩き去ろうとした。
「おい、待てよ。耳がねえのか」
「気取ってんじゃねえよ」
無視された男たちはリオの行く手を遮る。
「うわっ、何だこいつ。ずぶ濡れじゃねえか」
相手にしても無駄、そう言いかけた男の一人は、リオの顔を覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。
雨に濡れたことでむしろ凄惨さを増した美しい容貌に、男たちは一瞬、気圧されたような顔つきになる。
「……貴族の娘じゃねえか?」
男の一人は、リオが着ているいかにも上質な衣服を眺めて言った。声にわずかに警戒と恐れがこもる。
だがすぐに仲間が小馬鹿にしたように反論した。
「いいとこの娘が、こんなところを一人でうろついているかよ。貴族や商人に買われた奴隷か、さらわれて手篭めにされそうになった田舎娘か何かだろ」
「……触るな」
顔を上げさせようと男が肩を掴んだ瞬間、リオは唇の間から低い声をもらす。
男たちは一瞬、自分の聴覚の正常さを疑うような表情をし……次いで、俯いているリオをマジマジと眺めた。
「……こいつ、女じゃねえのか……?」
三人の男は顔を見合わせる。驚きの表情を浮かべていたその顔は、徐々に陰鬱な欲望によって支配されていく。
「……確かめてみねえとな」
男たちは雨に濡れたリオの体に手をかけた。手近な場所にある、荒れ果て無人になった家の中の前まで引きずっていく。
「ちょっと付き合えよ」
「なあに、優しく扱ってやるから怖がるこたあねえよ」
「大人しくしてりゃあな」
ほとんど抗う素振りも見せないリオが、家の中へ連れこまれそうになったその時。
「その娘から手を離しな」
不意に雨音を切り裂くような鋭い声が響き、男たちは振り返った。
雨によって霞む視界の中に、人影が見えた。長い豊かな赤い髪が、暗い灰色の街角の景色の中ではひときわ映える。
リオは、青い瞳を大きく見開いた。
(レ……)
「何だあ? お前は? 引っ込んでろ!」
男の一人がリオから手を離し、赤い髪の人影のほうへ近付く。
そうしてその姿を見てニヤリと下卑た笑いを浮かべた。
「何だ、女じゃねえか。一緒に可愛がってもいいぜえ?」
男がそう言った瞬間、人影に伸ばされた手首から血が吹き出る。
「なっ……なっ……!」
驚く男の股間に、女は硬い靴の爪先で痛打を与えた。男は声にならない叫びを上げ、雨が打ちつける石畳の上でのたうち回る。
「舐めんじゃないよ、一人じゃ何も出来ないチンピラが」
「て、てめ……!」
仲間をのされた男たちは、いきり立ち女に詰め寄ろうとした。
だが、その動きはすぐに止まる。
女の背後の路地の奥から、二十人近い集団が現れた。
「こいつを連れて消えちまいな」
一瞬にして怯えた小動物のように身をすくませた男たちに向かって、女は乱暴に顎をしゃくる。
男たちは声も上げられず地面に転がっている仲間を抱き起こすと、そそくさとその場から立ち去った。
「大丈夫かい?」
赤い髪の女は一人、取り残され、糸が切れたように地べたにうずくまったリオに声をかける。
膝をついてその体に触れた瞬間、口の中で呟いた。
「熱がある……」
「アストウ」
連れの男の一人が赤い髪の女に近寄り、声をかける。
「取り戻した女たちは、もう街の外へ向かわせた。早く戻ろう。この雨なら追手も巻きやすい」
それから女の腕の中で意識を朦朧とさせているリオを見て、怪訝そうに言った。
「その娘は?」
「男らに絡まれていたんだよ。困ったね。お嬢さん、家はどこだい?」
男は雨に濡れそぼったリオの姿を見て言った。
「訳あり、だな」
格好は良家の女性の物だが、一人で雨の中、街で最も治安が悪い地域をうろついている。
どこからか逃げてきたのではないか。
男は言外にそういう意味を含ませて、アストウと呼ばれた赤毛の女を見る。
さらわれて、もしくは借金で自由を奪われた女が逃げ出す。
そんな話は、この街には掃いて捨てるほどある。
「ねえあんた、帰る場所がないの?」
アストウの問いは、リオの耳には幻聴のように響いた。リオは次第に閉じていく意識の中で、小さな声で呟く。
そんなもの……ない。……どこにも。
力尽きたように力が抜けたリオの細い体を、アストウは何とか支える。
それから振り返り、仲間の男に言った。
「ランス、この娘も連れていく」
ランス、と呼ばれた男は、黒い目を丸く見開いた。
「いや……でも」
「この娘も、あたしらが取り返しに来た子たちと一緒だよ。きっと、どこからかさらわれて来たんだ」
なおも躊躇っているランスの顔に、女は真っすぐな視線を向ける。
「時間がないんだろ」
ランスはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「イルクードの長はあんただ、アストウ。命令なら従うさ」
ランスは後ろを振り返り、雨を避けるように軒先に身を固めている他の男たちに声をかけた。
「おい、誰か。手を貸せ!」
特に躊躇う風もなく雨の降りしきる路地に出てきた男たちに、アストウはリオの体を預けようとする。
その寸前、リオが微かに薄眼を開けて、呟いた。
……レニ。
「え?」
アストウは男の腕の中に収まったリオに声をかける。
「誰か……家族の名前なの? ねえ?」
だがその時には。
リオの意識は、既に暗闇の中に飲み込まれていた。
★次回
第十章「極北の部族(イルクード編)」
第198話「イルクードの女族長」