第196話 俺じゃないものに。
(自分の父親とも夫とも叔父とも関係を持ったモノ。あなたを見るたびにレニさまは、自分の父親が誰で、その父親を殺すために育てられ、自分がどういう生い立ちかを思い出させられる。それがどれほど辛く苦しいか、なぜわからないのです?)
(あなたはその体で、今までどれだけの人間に仕えたのですか?)
(まさか……その汚らわしい体でレニさまに触れることができるとでも?)
(あのかたの父親にさんざん弄ばれた体で? あのかたの夫にさんざん愛でられた体で?)
(『男』になったら、それが本来の自分の姿だから……だから、あのかたに触れてもいい。そう思っているのですか?)
(自分が何もかも捨てるのだから、レニさまも忘れてくれるはず。ただの『男』として見てくれるはず、そんなに都合のいいことを、なぜ信じることが出来るのです?)
(外の世界には、あのかたにふさわしい男がいくらでもいる。あのかたの父親が誰かも、あのかたの生い立ちも、あのかたが忘れたいことは何も知らない……ただのレニとして出会い、あの人を愛し愛することが出来る男がたくさんいるのに)
(それなのに……お前は、その卑しい欲望であのかたを縛りつけ、その汚れた体に閉じ込めようとしている)
リオは空いている片手を喉に当てた。その指の先は痺れたように冷たく、震えていた。
何か声を出したいのに、どれだけ叫ぼうとしても声を出すことが出来なかった。
レニさま……。
リオは声にならない声で、目の前の赤い髪が流れる小さな背中に呼びかける。
レニさま、レニさま。
レニはリオの声にならない声に気付く様子はなく、ただひたすら真っすぐに歩き続けている。
リオの白い頬に、小さな雨粒が一滴降り注いだ。
19.
イリアスに紹介された宿に着くと、レニはすぐにリオのために部屋を用意してもらった。
「イリアスの寵姫がオルムターナに招かれていたが、オルムターナとイリアスが揉めたために無理に引き留められていた。政局に利用されると厄介なので、こっそり王都へ連れ戻したい」
そう説明すると、支配人は慌てたようにすぐに手配を始めた。
「リオ、休んでいて。私は支配人さんと少し話をしてくるから」
部屋に通されると、レニは先ほどからほとんど口をきかずに黙り込んでいるリオに、安心させるように笑いかける。
「何も心配しなくて大丈夫だよ。私が何とかするから」
「何とか……する?」
リオは俯いたまま、微かな声で呟いた。
ようやくリオが反応したことで、レニはホッとする。寝台に腰かけているリオの顔を覗き込んだ。
「うん。ちゃんと支配人さんと話して、リオが安全に王都に戻れるようにするからね。大丈夫だから」
リオはそのままの姿勢で、口を動かした。聞こえるか聞こえないかくらいの言葉を、「はい」と言ったと解釈し、レニはもう一度安心させるようにリオの手を握ると部屋から出た。
リオはしばらくそのままの姿勢でジッとしていた。
生暖かい風でカーテンがひるがえったのを感じ、ふと顔を上げると、テラスにつながる窓が半分ほど開かれ、そこから湿っぽい空気が流れこんできていた。
空は先程よりも暗くなり、雨が間隔を開けながら一滴一滴落ち、窓を不規則に叩いている。激しい本降りになる前触れだ。
リオはしばらく窓の外をぼんやりと眺めていたが、やがて何かに操られているかのように、ふらりと立ち上がる。
そのまま魂が抜けた人形のように窓の外へ歩み寄り、空から雫が落ちてくる雨の中に入っていく。
(全部、洗い流して)
(俺を)
(俺じゃないものに)
次第に激しくなっていく雨を見上げながら、リオは歩き続けた。
※※※
支配人との話は思ったよりも長くなり、ようやくすべての手筈が整い話を終えた時には、時刻は昼近くになっていた。
部屋まで送る、という支配人の申し出を断ると、レニは廊下を歩き出す。
外は昼間とは思えないほど暗くなり、空からは激しい雨が降り注いでいた。
レニは空にちらりと目を向けた後、先ほど支配人と打ち合わせたことを思い返す。
エリュアは貿易と観光……つまり外部からの出入りによって成り立つ街だ。
エリカやオズオンの立場でも、街を封鎖するためには各所への調整は不可欠だ。
これからすぐに馬車と通行書、護衛を手配し、上流階級の夫人がお忍びで街の外に出る態を装えば、外へ出られるだろう。
支配人は話の途中で決まったことをその都度指示を出し、手早く手配してくれた。あと半刻もすれば馬車に乗り込み、王都に迎えるはずだ。
一刻も早く、リオを安全な王都へ送り届けなければ。
レニの頭の中はその思いでいっぱいだった。
「リオ」
部屋の扉を開けた瞬間、湿気を帯びた南国特有の温かい空気が流れてくる。
部屋の奥でカーテンが激しくひるがえり、雨が室内の床を叩いている。
レニはハッとして、すぐに部屋の中に飛び込んだ。
広い部屋の中を隅々まで探し回り、いくつかついている寝室や書斎、サンルームや浴室、すべてを覗いて回る。
「リオ? リオっ?!」
レニは顔を青ざめさせ、辺りを見回し必死に捜し人の名前を呼ぶ。
「リオ! リオ?!」
その言葉しか知らないように、叫び続ける。
しかし、レニの呼びかけに答える声はなかった。
★次回
第197話「どこにもない」