第195話 二人でいるのに。
18.
レニはリオの手を引いて涙玉宮を出ると、昼の活気にあふれるエリュアの街を真っすぐに歩き続けた。
空には灰色の雲が集まり出しており、遠くでは微かに雷が鳴る音がしていた。
「レニさま」
頑なに自分のほうを向かず、ただ前に歩き続けるレニの姿に不安を覚え、リオは呼びかける。
レニは前を向いたまま、どこか上の空な口調で言った。
「この先にイリアス様が手配してくれた宿があるんだ。そこに行けばきっと匿ってもらえるよ」
「レニさま!」
リオは足を止めて、強引にレニを立ち止まらせる。つないだ手をリオに引かれると、レニは逆らわずその場で立ち止まった。
上流階層の人間の居住区らしく、白い石畳で綺麗に舗装された道の片隅で、レニは昼の日の光を避けるように俯いている。
リオの目からは、今にも空気の中に溶けて消えてしまいそうに見えた。
何と声をかけていいか迷うリオの前で、レニが呟いた。
「リオ……」
レニの肩が小刻みに震え出したことに気付き、リオはハッとする。
「レニさま……」
「ごめん……リオ。私のせいで……」
リオは驚いて、俯いて体を震わせているレニの姿を見つめた。
赤い髪に隠れた頬に、光るものが伝わっている。
リオがレニの身体に触れようとした瞬間、レニは不意に顔を上げた。
「私のせいで……リオはひどい目にあっていたのに……。それなのに、私、気付かなかった! あの人の言うことを信じて……リオが言ったことを全然聞かなかった! リオがあんなに一生懸命、言っていたのに……」
レニのハシバミ色の瞳からは次から次へと涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちる。
「ごめん、リオ……。ごめん」
うわ言のように繰り返すレニの心を引き戻そうと、リオはその肩に手をかけレニの顔を覗き込んだ。
「レニさま、それはレニさまのせいではございません。私が勝手にここに来たのです」
レニの目からこぼれる涙を拭いたいと思いながら、どうしてもその勇気が出なかった。
自分が少しでも触れたら、レニはその場で壊れてしまいそうに見えた。
どうか、泣かないで下さい……レニさま。
リオは祈るような思いで、レニの顔を見つめる。
私は自分に加えられたどんな仕打ちよりも、あなたがそのことで自分を責められるほうが身を切られるように辛い。
しかしリオの言葉も思いも、レニの心に届いている様子はなかった。リオの視線から逃れるようにレニは顔を横に向け呟く。
「あの宿に行けば、ちゃんとリオを王都に送ってくれるから……。イリアス様のところに」
リオは思わずレニの顔を見つめ直す。
自分が耳にした言葉を信じることが出来なかった。
レニは相変わらずリオの言葉など耳に入っていないように、自分の思いに心を囚われるままリオの顔を仰ぐ。
「リオ、心配しないで。大丈夫だからね。私がちゃんと……リオが王都に帰れるようにするから。もう誰にも指一本触れさせたりしないから」
「何を……何を言っているのですか!」
リオは懸命にレニの顔を自分のほうへ向かせようと、肩を揺さぶる。
しかし涙に濡れるレニの瞳は虚ろで、決してリオの姿を映し出そうとはしなかった。そうしてどこか別の場所を見ているような表情で、小さな笑みを浮かべる。
「イリアス様なら……イリアス様なら、ちゃんとリオのことを守ってくれる。誰にもリオを傷つけさせたりしない。イリアス様は強くて立派なかただもの。……私なんかより、ずっと……」
身をひるがえそうとするレニの小柄な体を、リオは背後から抱きしめて引きとめる。
「レニさま、私はあなたのお側にいるために、ここに来たのです。私は、確かに自分の身を自分で守れないかもしれません……。ですが……!」
リオは、それ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。自分の腕の中で、レニがブルブルと震えていることに気付いたからだ。まるで冷たい水の中に沈められたかのように、レニの体は温かみを失っていた。
「私は……私じゃ駄目だよ……」
レニは俯いたまま、震える声で呟いた。
「私は……リオにひどいことをした男の娘だもの。あのグラーシアの……」
「そんな……」
リオはハッとして、反射的に抗弁しようとする。
だが言われた瞬間、自分の腕から急速に力が抜けていくのを感じた。
脳裏に普段は考えないようにしている、だが決して忘れることが出来ない記憶がよみがえる。
燃えるような赤い髪と傷だらけの巨大な体、残忍な気性を持ったかつての支配者。
レニとまったく同じ色合いのハシバミ色の瞳には嗜虐的な笑いが浮かび、リオの腕よりも三倍は太い腕を伸びてくる。
抗っても無駄だ。
そう学ぶまでは、必死で抵抗し哀願した。それが相手を余計に喜ばせることがわかっていてもそうせずにはいられなかった。
奴隷として生きることを生まれた瞬間から運命づけられたリオは、並み大抵のことは受け入れられる。そう扱われるために自分は作られたのだから。
だが、グラーシアは。
あの男は……。
思わずレニの体から手を離した瞬間、それを見計らったように、レニが振り向いた。その顔にはリオを労わるような、どこか切羽詰まった表情が浮かんでいた。
「リオ……大丈夫だよ。王都に戻れば安心だから。王都にはイリアス様がいる。もう誰もあなたを傷つけたり出来ない。イリアス様が、この先ずっとリオのことを守ってくれる」
早くいかなきゃ。
レニは自分を励ますようにそう言い、リオの手を掴んで前だけを見て歩き出した。
その余りに強い力にリオはよろめくが、レニは自分の思いだけに囚われているようで、リオのほうを向くことはなく早足で歩き続ける。
レニ……っ!
その背中に呼びかけたいのに、どうしても声を出すことが出来なかった。
頭の中から、ハシバミ色の瞳を持った男の残忍な笑いが消えない。
その男は一年前に死んで、もうこの世界にはいないはずだ。それなのになぜ、その支配から逃れることが出来ないのか。
二人なら自分たちを縛るものから解き放たれ、外の世界へ行けるはずではなかったのか。
二人でいるのに、なぜ……。
そう思った瞬間、不意に全身の血が凍るような感覚に襲われ、リオは瞳を見開いた。
レニをこの世界に縛りつけている鎖は、自分なのではないか?
二人でいるから、レニはここから逃れることが出来ないのではないか?
唐突にわいたその思いはリオの全身を締め上げ、血が吹き出るような苦痛を与えた。
レニもそのことに、心のどこかで気付いている。
だから、王宮に自分を置き去りにしたのではないか。だから今も、自分を王宮へ帰そうと必死なのではないか。
リオは、決してこちらを振り返ろうとしないレニの背中を凝視する。
そんなはずはない……!
リオは、自分の内部に広がっていくドス黒いモヤの中でもがき叫ぶ。
自分の存在こそが、レニを閉じ込める牢獄などとそんなことは……。
自分はレニを一人にしないためにいるのだ。レニを守るために側にいると誓ったのだ。
必死に言い聞かすその心の奥底で、ずっと囁きかけてくるものがあった。
(レニさまは、あなたを置いていく。そんなことは当たり前ではないですか)
美しい女が顔に虚ろな笑みを浮かべて囁く。
それは「寵姫」の姿をしたリオ自身だった。
★次回
第196話「俺じゃないものに」