第194話 私の娘
「出入りの商人用の跳ね橋を下ろしておくように、指示を出して」
エリカは少し黙ってから付け加えた。
「オズオンには、二人が出ていったことを気取られないようにしてね。あいつがエウレニアを逃がすはずないから」
間というには少し長い沈黙のあと、シンシヴァが言った。
「よろしいのですか。大公殿下は敵に回すと厄介そうですが」
エリカは側近の端整な顔を横目で見て、半ばからかうように半ば皮肉げに言った。
「お前、鞍替えするなら今のうちよ」
シンシヴァはしばらくの間、強情そうなエリカの顔を眺めた。意地でも目を逸らすまいとするエリカの目の前で、長年、側にいた男の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
「私のような人間にも、主人に対する最低限の好みがございます。あのかたに仕えるくらいなら猛獣の餌になったほうがマシです」
表面上は従順だが腹の底がついぞ見通せなかった側近が初めて会った人間のように感じられて、エリカは思わずその顔を見直した。
シンシヴァの表情は、今までに見たことがないほど愉快そうだった。
「妃殿下がこの宮廷から既にいなくなったと聞いた時の、大公殿下の顔が楽しみですな。妃殿下から話を持ちかけられながら、一杯食わされたわけですから。さぞ怒り狂うでしょう」
楽しげに笑う補佐官を、エリカは呆れたように眺める。
「お前は、私がいなくなった後ここを統治するのだから、機嫌を損ねないほうがいいんじゃない? あいつは執念深いわよ」
狡猾な補佐官に対して気遣いを素直に表すのも腹立たしく、エリカは素っ気ない口調でそう言った。
シンシヴァはあっさりと答える。
「私は、あなたと共に王都へ参ります」
エリカは呆気に取られて、しばらくシンシヴァの浅黒い端整な顔を眺めた。
「お前……権力を握りたいんじゃなかったの?」
「まあ、そうですな」
「私と来るなんて……墓場に入るようなものよ」
シンシヴァはうっすらと笑った。
「墓場までは付き合いかねますが」
「どうして?」
エリカは不審げに眉を寄せたが、シンシヴァが答える気がないと見ると、不機嫌そうに言った。
「お前は、私のことが嫌いでしょ」
シンシヴァはおかしそうに笑った。
「そう見えますか」
「わかるわよ、それくらい」
シンシヴァはエリカの言葉には答えず、レニとリオが出ていった扉に目を向ける。
「よく似ておられる」
怪訝そうなエリカの顔を見て、シンシヴァは言った。
「初めてお会いした時に、妃殿下にそうお伝えしたのです。『離れていても母娘はよく似るものなのですね』と」
何と言っていいか分からずただ自分の顔を眺めるエリカに向かって、シンシヴァは優雅に礼をする。
この男にしては珍しく、心の底からの敬意が込められていた。
「では、ご命令を果しに行って参ります」
そう言ってシンシヴァは扉を開け、部屋から出て行った。
一人になったエリカは、ぼんやりと宙を眺めた。数日前レニに再会した時のことが脳裏に浮かんでくる。
レニには幼いころ何度か会ったきりで、二人きりで面と向かって会うのは出産して以来だった。
自分の腕の中にすっぽりと収まり力の限り泣きわめいて赤子が、あんなに大きくなった。そのことににわかに実感が持てなかった。
それなのに、数日間、自分を慕うレニと一緒にいると、まるで生まれてからずっとこうして側にいたような気持ちになった。
赤子が立ち上がり歩きだし、回らない舌で「母さま」と呼び、自分に抱きつき笑顔を見せる。大きくなり甘える回数も一緒にいられる時間も少しずつ減っていって、それでもアイレリオに厳しく育てられるレニのことをいつも思い、見守ってきた。
アイレリオに「ここを出よう」と言われた時に、その手を取り、三人で生きた人生を歩んできたかのようだった。
決していつもいい母親になれたわけではなかった。
時には娘を疎ましく思うこともあった。
相手を理解できないと思うことも、心底嫌だと思うこともあった。産んだことを後悔することすらあった。
それでも十九年間、側にいてその成長を見てきた。
そうしてわかった。この道のりこそが愛するということなのだと。
レニがいるあいだ、娘を愛する母親になった束の間の夢を見ているようだった。
エリカの脳裏に、リオの手を握った娘の姿が浮かぶ。
(あなたは……ここから出ていくことが出来るのね)
(この世界を愛して生きることが出来るのね)
強い意思で外の世界に出ていく小柄な背中を、エリカはジッと見つめる。
(さようなら、エウレニア)
一人になった部屋の中で、エリカは呟いた。
「私の……娘」
★次回
第195話「二人でいるのに」