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第193話 あなたが望むなら。

17.


「太后陛下」


 しばらく経っても、動こうとしないエリカにシンシヴァは何度か躊躇った後、声をかける。半ば心配そうに、半ば痺れを切らしたようなシンシヴァの言葉にも、エリカは何の反応も示さない。

 急に糸が切れた人形のように、力が抜けた体を椅子の中に埋めていた。

 シンシヴァの声の響きが消えると、応接室の中は再び静まり返る。

 相手が生きた人間かどうかを確かめるような表情で、シンシヴァはエリカの顔を覗き込んだ。


「エリカ様」


 もう一度はっきりとした声で名前を呼んだ瞬間、エリカの翡翠色の瞳に微かに光が浮かぶ。

 そのままの姿勢で、エリカは唇だけを動かした。


「お前、赤ん坊って見たことがある?」


 シンシヴァは露骨な驚きを込めて、エリカの動かない表情を凝視した。

 二人の関係性ではこれまでは決してありえなかっただろう、正気を疑うような眼差しをエリカの動かない横顔に向ける。「何を言われたのか理解できない」と思うことは、このいかなる時も冷徹さを失わない男にとってはひどく稀なことだった。

 これも常にないことだが、エリカは部下の無遠慮な態度にまったく関心を払わなかった。

 自分の中の思いを辿るように、ただ唇だけを動かし続けた。


「あのが生まれたときね、凄く小さかったの。産まれた直後は、泣き声も上げられなくてね」


 エリカは呟いた。


「『きっと生きられないんだろうな』って思ったの」


 エリカの緑色の瞳は、ここではない遥か遠くを見ており、そこにいる誰かに話しかけているようだった。

 エリカは、膝の上に置かれた思い出の本をゆっくりと丁寧にめくるように、微かに俯いて瞳を細めた。


「凄くホッとした。ああ、良かった、この娘は死ぬんだ、この世界で生きなくていいんだって。……女の子だったし。男ならまだ良かったんだけれど」


 エリカは、シンシヴァが風の音かと思うような、ひどく小さな声で言った。


「きっと私と同じ目に遭うんだろうな、って思ったから……」


 エリカは二十年近く前のことを思い出す。

 生気のない虚ろな瞳をした若い女が、普通の赤子よりもずっと小さな子供を腕に抱いている。


(産んでしまってごめんね)

(産んでしまってごめん、って思ってごめんね)


 若い女は泣きじゃくりながら、腕の中の小さな娘に声にならない声で語り続ける。

 心の中で言い続けた言葉が、いまこの瞬間に言っているかのように心に響く。


「どうせすぐに死ぬんだろうなって……そう思って抱き上げたらね、火がついたみたいに泣き出したのよ。小さいくせに物凄い声で。まるで世界が崩れ落ちるんじゃないかと思ったわ。赤ん坊って凄いわよね。あんなに小さくて弱そうなのに、どこからあんな声が出てくるのかしら」


 エリカは微かに俯いて、自分の胸元を見る。そうして小さく笑った。


「失礼しちゃうわよね、こっちは死ぬ思いで産んだっていうのに。私はあんたの母親よ、ってそう言ってやったの。でも泣き止みやしないの。もっとうるさくなるばっかりで」


 無意識に何かを抱えるような形になった自らの腕の中を、エリカは見つめる。


「あんなに大きくなるだなんて……思いもしなかった」


 エリカはその姿勢のまま、しばらくジッとしていた。

 レニが自分を説得しにここにやって来ると最初に聞いた時、自分は何を思っただろうか。疎ましさ、わずらわしさという心の奥底に、僅かなりとも「そうなるのではないか」という気持ちがあったのではないか。

 いつもそうだ。憎しみ、苦しみ、怒り、恨み、そういうものに心がいっぱいな時はそれだけが自分の心にあるように感じるのに、それらを言葉にして吐き出してしまうと、何故か自分が考えていたことは、本当にそんなことだったのかという思いに囚われる。


(アイレリオ……)


 エリカの脳裏に、生真面目そうな顔つきをした黒髪碧眼の少年の姿が浮かぶ。

 アイレリオは皇国の皇太子、簒奪者の孫として産まれた責任や義務を第一に考え、皇后としての義務に殉じて死んだ母親のアトカーシャを尊敬していた。

 会った時から、母親の後釜となった自分に敵意を抱き、皇后としてふさわしくない女として冷ややかな態度を貫いていた。

 年齢が近かったこともあるが、ついぞ継母として敬われたこともなかった。自分の母親とは全然違う。面と向かってそう言われたこともある。

 出会った時からウマが合わない、相性が悪い相手だった。

 

 レニが産まれた時、どうせこの子は死ぬ、そう言ったエリカに、アイレリオは「自分が育てる」と言った。


(何で? だってこの子は……)

(この子はあなたの娘だ)


 アイレリオは、慣れない慎重な手つきで小さなレニを抱きあげる。


(だから俺が育てる)


 その後、アイレリオは何回かレニを連れてエリカのもとを訪れた。だがエリカは、レニだけではなくアイレリオも側に寄せつけなかった。

 娘を捨て、廃人のような夫を捨て、皇后の地位と義務を放り出した自分を、アイレリオはさげすんでいる。

 そう思い込むことで、頑なに遠ざけていた。


継母はは上……あなたが望むなら、俺はあなたとレニ以外のものは全部捨てる)

(皇太子に生まれた義務も、父上も母上の無念も……この大陸の運命も)

(皇宮を出て、三人で生きよう)

(エリカ……)


 嘘つき。

 あなたにそんなことが出来るはずがない。

 この世界から出られるはずかない。


 そう言おうとした瞬間、目の前のアイレリオの姿がもっと小柄な少女のものに変わった。

 

(リオはあなたの側には置いておけない)

(ここから連れて行く)

(邪魔をするなら)

(あなたを殺してでも)


 エリカは顔を上げた。

 レニとリオが出て行った扉を見つめたまま、夢を見ているかのような声で言った。


★次回

第194話「私の娘」

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