第192話 母親じゃない
レニは、エリカの隣りに立つシンシヴァの動きを鋭い眼差しで射る。
「リオを人質に取るのは止めたほうがいい。私があなたたち二人を殺すほうが早い」
自分の僅かな動きを気取られたことに気付いて、シンシヴァの表情が動揺で微かに揺れる。だが強いて、余裕のある口調で言った。
「そんなことをすれば、あなたも寵姫どのも捕まるのではないですか」
レニはうっすらと笑う。
シンシヴァはレニの姿を観察し、一瞬の沈黙のあと言った。
「大公殿下に手を回された、のですな」
特に答える必要を認めない。
そう言いたげに無言でいるレニの顔に向けて、シンシヴァは問いを口にした。
「実のお母上を殺す、とおっしゃるのですか? たかが奴隷一人のために?」
レニはシンシヴァの顔をジッと見つめる。
その大きなハシバミ色の瞳には何も浮かんでおらず、底が見通せない深い穴のようだった。
その深い穴の底から声が響く。
「私はもう父親を殺している。そこに母親が加わったところで、大した違いはない」
エリカはハッと息を呑み、凍りついた瞳で娘の顔を凝視した。
「知って……いたの?」
答えない娘を見つめたまま、エリカは関節が白くなるほど手を強く握りしめる。冷たい水の中に突き落とされたかのように、体が小刻みに震えた。
シンシヴァは、血の気を失ったエリカの人形のような横顔に何度も視線を走らせる。その姿は、今にも力を失い崩れ落ちそうに見えた。
しかし数瞬後、エリカは自分の中のありたけの力をかき集め、娘の感情の浮かばない眼差しを跳ね返すように顔を上げた。
「エウレニア、あなた、本当にその卑しい淫売が好きなのね?」
エリカ自身は、自分が嘲笑を浮かべていると思っていた。だがその声は、言葉とは裏腹に抑えきれない感情で微かな震えを帯びていた。
「きっと父親に趣味が似たのね。あいつもそのモノが凄く気に入っていたみたいだから。でも残念、そいつは、男に抱かれて喘ぐしか能がないのよ。あなたの父親も夫も、そいつを使って随分楽しんだみたいじゃない。シンシヴァやオズオンにも、ずいぶん可愛がられたみたいよ」
エリカの侮蔑の言葉を聞いても、レニの表情は変わらなかった。美しい顔を蒼白にさせているリオのほうへ労わるような視線を向け、手を差し伸べる。
「行こう、リオ」
背中を向けようとする娘を見て、エリカは瞳を見開き、吼えるようなに叫んだ。
「私が憎いでしょう? エウレニア。私だけがお前を憎んでいるんじゃないはずだわ! お前も私と同じくらい、私のことを恨んでいるはずよ!
私はお前を、こんなひどい世界に生み落としたのだもの。お前に父親を殺すことを強いるようなこんな世界に! お前に頼まれたわけでもないのに。産んでおいてこんなに憎むなら、こんなに罵るなら、こんなに傷つけるなら何で産んだんだ、そう思うでしょう!」
振り返ったレニに向かって、エリカはかすれた声で囁いた。
「……いいのよ、私のことを殺しても。私はお前を苦しめ、傷つけるのだから」
「陛下……っ」
慌てて押しとどめようとするシンシヴァには目もくれず、エリカはレニに向かって身を乗り出す。
「私がお前のことを愛せないように……お前も母親だからと言って、私を愛する必要はない。自分の心だけに従えばいい」
エリカの声には、これまでにない切実な響きがあった。エリカ自身もそのことに驚いたように一瞬、唇を閉ざしかけた。だが、やがて震える声で呟くように言った。
「もし、お前が私のことを殺してくれたら……私は、初めてお前のことを愛せそうな気がする」
レニはしばらくそのままの姿勢でジッとしていた。その姿は内部で色々な思いが交錯しているようにも、エリカの言葉など何ひとつ届いていないようにも見えた。
レニは、母親のほうに顔を向ける。
その顔には、エリカに対するいかなる感情も浮かんでいなかった。
まるで興味がわかないものを見るような目つきで、レニはしばらく母親の姿を観察し、ただありのままの事実を述べるような淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「あなたは私の母親じゃない」
エリカは半ば虚を突かれたように半ば呆然としたようにレニの顔を見上げる。長年、暗い岩戸の奥に閉じ込められていた人間が、そこから這い出て広い世界を目の当たりにした。そんな表情だった。
レニはその顔をしばらく眺めた後、自分の髪を留めていた髪留めを外した。緑色の小石が光るその髪飾りを、レニは無造作にエリカの足下に放り投げる。
髪留めがエリカの足にぶつかり乾いた音を立てると同時に、ごく穏やかな声で告げた。
「さようなら」
そうして何をどうしていいかわからないでいるリオの手を取ると、それ以上は振り返ることもなく部屋から出て行った。
エリカは、ただ黙って静かな眼差しをレニとリオが出ていった扉に向け続けた。
二人の気配が遠退いてしばらく経っても、エリカは閉められた扉を見つめたまま動こうとはしなかった。
★次回
第193話「あなたが望むなら」