第191話 あなたを殺してでも。
「聞いた? エウレニア。私の可愛い娘。お前が私に気に入られようと一生懸命愛想を振りまいてしっぽを振っている間に、お前の大事な寵姫さまは男に散々弄ばれていたのよ。驚いた? 頭にきた? 傷ついた? 悔しい? 自分の間抜けさ加減が嫌になった? あははは、おっかしい。いいじゃない、もう済んだことなのだから。後で大好きな寵姫さまに、男とやるのがどれくらい気持ちいいか聞いてみたら?
ねえ、こんなことが全部、どうでもいいことなんでしょう? 国や大陸の運命に比べれば、いまお前が感じている悔しさや惨めさや怒りや理不尽さなんて、全部どーでもいいことなのよね? お前たちが泣こうが喚こうが、どれだけひどい目に遭おうが、侮辱されようが踏みにじられようが、それが何だと言うの? みんなが幸せ、みんなが平和、戦がなくて、民たちが平和で暮らせるためには、こんなことは全部全部取るに足らないことなんでしょう?
エウレニア、お前にとってはそうなのよね? 私が黙って王都に行って、オズオンは大人しくその護送をする。私が起こした国王の暗殺未遂は闇に葬られて、戦も大国同士の対立も起こらず、すべてが丸く収まる。お前にとっては、それが一番なのよね? そのためには私がちょっと腹いせでお前の大事な寵姫さまを傷つけても、そんなことは全部全部取るに足らない、我慢すべきことなんでしょう?
それともなあに? 国のお偉方がお前たちをいくら弄んでもいいけれど、私は駄目なのかしら? 私みたいな馬鹿で自分のことしか考えない、世界のことや複雑なことは何もわからない、その器量にふさわしくない地位について権力を持つ女には、男たちと違ってそんなことをする権利はないってことなの?」
エリカは翡翠色の瞳に怒りを燃え立たせながら、唇だけは笑みを浮かべる。
「ただ大人しく、ちゃんと世界の事がわかっている人間の言いなりになれ、そうならないなら、物の見えない何もわかっていない、自分のことしか考えない、国のことなんて何もわからない女だ。そういうことになるのよ。私は愚かで馬鹿な女かもしれないけれど、お前たちの考えていることくらい、そのお腹の底くらいよおおおく分かっているわよ!」
エリカは室内にいる三人を順繰りのめつけて、最後に目の前にいるレニにピタリと視線を当てた。
「オルムターナの公女、神聖ザンム皇国の最後の太后にふさわしい、大陸のため国のため民のためにその身を犠牲に捧げた素晴らしい女性。そんなものになるのは真っ平よ。誰がお前たちの望み通りの人間になどなるものか! 私を嫌い、私を馬鹿にし、私を貶め、私を物のようにしか考えないお前たちを、私だって思う存分踏みつけて唾を吐いてやる」
エリカは火を噴くような眼差しで、レニの顔を睨みつける。
「お前には私のことはわからない。お前の母親になどなりたくなかった、私の気持ちは……」
エリカは殺意にも似た暗い感情を込めた眼差しを、娘に向ける。
レニはエリカからの視線を避ける風もなく、ごく平素な顔つきで受けとめた。
それは不思議な表情だった。何十年と生きて生きることに倦んだ人間が、もう何千回と見せられている光景を再び見なければならない時に浮かべるような、微かな諦念がこもっているように見えた。
エリカは意地でもその眼差しから目を逸らすまいとして、ジッと睨み返した。だが余りに動かない娘の瞳の前で、口元が僅かに震え出す。
その震えを無感動に見つめたまま、レニは口を開いた。
「あなたの言う通りだ」
少し黙ったあと、レニは言った。
「母親だからといって……娘を愛さなくてはいけないわけじゃない。私が憎いなら、この先ずっと憎んでくれていい」
エリカは逸らされた娘の横顔を、ジッと見つめた。何か言おうとしたが言葉がうまく見つからず、ただ微かに口を開いては再び閉じることを繰り返した。
何度目かに口を開こうとした瞬間、レニが鋭い射るような眼差しでエリカの顔を貫く。そこには、先ほどまでにはなかった強い怒りの炎があった。
「でも……あなたがリオにしたことと、そのことは関係ない」
レニは歯の隙間から押し殺された声を漏らす。
「あなたがどんな目に遭ってきたか、あなたがこれまでどれだけ辛くて、どれだけ不幸だったかなんて知らない。知る必要もない。そんなことで、あなたがリオにしたことを許すつもりはない」
鋭い刃のような目を向けられて、エリカは我知らず息を呑み、軽く体を引く。
レニは、エリカ以外の何かを見つめているかのような、殺意と怒りを瞳にみなぎらせて言った。
「リオはあなたの側には置いておけない。ここから連れて行く」
エリカの前に立つレニの小柄な体から、ゆらりと剣呑な空気が立ちのぼる。
「邪魔をするなら、あなたを殺してでも連れ出す」
★次回
第192話「母親じゃない」