第190話 そんなことはどうでもいい。
「そうよ、そうよ、そうよ! そこの淫売奴隷にお前を抱かせようとしたのよ! うまくいかなかったのね? この役立たず!」
あふれ出た怒りのままに、エリカは地団駄を踏まんばかりにして髪を振り乱して叫び、リオの美しい顔を狂気のような眼差しで刺し貫く。
「お前は女として男に媚を売るだけで、男としては物の役に立たないの? こんな右も左もわからない小娘をたらしこむことすら出来ないなんて!」
まるで心臓を直接えぐられたように、リオの顔は真っ青になった。
エリカは怒りでさらに顔を歪めたが、それも一瞬のことだった。
すぐにそんな自分の怒りさえおかしくてたまらないと言うように、椅子の中で背をのけぞらせ宙を仰ぎながら笑い声をあげる。
「前女帝で国王陛下のお妃さまが、慰み者でしかない奴隷の子供を身ごもる。宮廷の奴らは、王妃さまが奴隷と密通して産んだ子供を尊い高貴な国王さまだと信じて、媚びへつらって頭を下げる。
こんな傑作な話ってある? 妃であるお前が産んだ子が、自分がさんざん使った襞娼の子だって知ったら、国王はどんな顔をするかしら。さぞや盛大な間抜けづらをさらしてくれたんでしょうね! それとも自分を楽しませてくれた体から生まれた者だって知ったら、かえって嬉しいものなのかしら? ははは、国王の謁見の場で面と向かって聞いてやりたかった! あはは!」
「国王陛下に刺客を差し向けたのも、母さまなの?」
レニは嗤う母に向けて、静かに問いを口にする。その言葉は確認ではなく確信だった。
「何のために?」
「何のため?」
レニの声は、罪人に物を問う法廷の審判者のようなに硬く鋭い響きを帯びていた。
「陛下を弑して、私を王位に戻すため? レグナドルトとドラグレイヤを対立させて、オルムターナが権力を握るため?」
「うるさいわね」
エリカは馬鹿にしたような仕草で手を振る。
「そんなこと、どうでもいいわよ」
「どうでも……いい?」
よく言葉の意味がわからないと言いたげに呟く娘に、エリカはおかしくてたまらないという眼差しを向ける。
「お前たちみたいな、政治がとっても大切な人間たちは、毎日毎日そんなことばかり考えているんでしょうね。そうやって頭の中でこねくり回したことを、偉そうに喋り散らしているんでしょう? でも残念ね。そんなご大層なことには、私はなーんにも興味ないの」
正にこの瞬間のこの時の快感を味わうために、国王の暗殺を目論んだり娘のご機嫌を必死に取り結んでもきたのだ。
かつて一度も感じたことがない解放感に全身が満たされ、エリカは笑い続けた。
「そうね、お前たちの、そのいかにも大事なことをしていますっていう顔に唾を吐きかけてやりたかった、お前たちがもったいぶってやっていることがどんなに下らないことか、どんなに滑稽かを思い知らせてやりたかった、それだけよ」
「それだけ?」
それまで冷静だったレニの口調が、「信じられない」と言いたげにひび割れた。
レニはいま初めて気付いたと言いたげな、唖然とした表情で母親を見つめる。
「たったそれだけのために……陛下を殺して国を滅茶苦茶にしようとしたの?」
「そうよ。悪い?」
エリカは馬鹿にしたような眼差しを娘に向ける。
たまらなくなったようにレニが叫んだ。
「もし陛下が死んでいたら……レグナドルトとドラグレイヤが揉めたら、大変なことになっていたんだよ! 戦が起きて、大勢の人が死んだかもしれないんだ。オルムターナだって……この国だって、なくなることになったじゃないか」
レニは呻くように呟く。
「母さまがこの国を滅ぼしたんだよ、オルムターナの公女に生まれたあなたが……!」
「生まれたくて生まれたんじゃないわよ」
エリカは瞬間、柳眉を逆立てた。嫌悪に染まった毒々しい声を吐き捨てる。
「国のため、大陸のため。ほんと馬鹿みたい。お前みたいに、国のためだったら自分の祖父でも殺せる人間に、私の気持ちはわからないわよ!」
怒りのこもった声を投げつけられて、レニは顔を青ざめさせ唇を噛む。
さらに言葉を続けようとエリカが口を開きかけた瞬間、リオがその言葉を遮るように叫んだ。
「太后陛下……お止め下さい! それ以上はどうか……!」
リオはエリカの悪意からレニを守ろうとするかのように、二人の間に割って入ろうとした。
だがリオがそうするよりも早く、レニが顔を上げ、固い抑揚のない声で言った。
「高い身分に生まれた人間には義務がある。私たちのやることに、この国に住む人たちの生活や人生がかかっているんだから」
エリカはフッと笑う。
悪意が薄れ、どこからか諦念がわいた。
「アイレリオにそう教え込まれただけでしょう? あの人は、そんなことばかり考えていたから……」
先ほどまでとはまったく違う物憂い表情で、エリカは宙を眺める。ここではない、どこか遠くを、決してたどり着くことが出来ない場所を眺めるような眼差しだった。
エリカは我に返ると、半ば嘲り半ば憐れむような顔つきを娘のほうへ向ける。
「そうね、お前の言う通りだわ。私たちの人生や心なんて、この大陸や国の命運に比べれば、取るにたらないちっぽけな下らないものよ。泣こうが喚こうがどうでもいいことなのよ。お前の人生も」
エリカは笑いながらレニを指さした。
そうしてシンシヴァ、リオと次々と指さしていく。
「お前の人生も、お前の人生も、この大陸や国のことに比べれば、全部取るにたらない、下らないものなの。どれだけ踏みにじられようが、利用されようが、ゴミみたいに扱われようが。お前」
エリカはリオのほうを見て笑った。
「権力を持っている人間に逆らえず、シンシヴァに抱かれろと言われれば抱かれ、オズオンが欲しいと言えばモノのようにあいつの部屋に行かされてどう思っているの? 私はいまこの場で、お前にオズオンとシンシヴァのどっちのほうが良かったか、言わせることだって出来るのよ? お前の大好きな王妃さまの前でね。あははは、どうする? 聞きましょうか? エウレニア、お前も聞きたいんじゃないの?」
エリカは自分の隣りで表情を強張らせている側近のほうへ顔を向ける。
「お前は? シンシヴァ。どれだけ偉くなったところで、私やオズオンの気まぐれひとつで、気に入ったモノを差し出さなければいけない。そういうのってどういう気分? 惨めで悔しかった? お前は計算高いからね、顔色ひとつ変えずに差し出したけれど、きっと悔しくて悔しくて寵姫に八つ当たりでもしたんでしょう? お前に出来ることなんてせいぜいそれくらいだものね? あっははは!」
エリカは笑いながら目にたまった涙を指で拭うと、目の前に彫像のように立っている娘のほうへ向き直った。
★次回
第191話「あなたを殺してでも。」