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第17話 俺を知らない。

 リオはレニの頭を引き寄せると、美しい顔から笑みを消し、密やかな声で囁いた。


「私が歌っている時に、レニさまはテイトさまに手を握らせておりました」

「あっ……えっ、えっと……」


 は、始まった。

 そう思いつつ、レニは酒でぼんやりしている頭の中を必死に探る。

 リオが歌っているときはただただその姿に見とれて、歌声に聞き惚れている記憶しかない。

 狭い店内に人が密集しているので、感動したり興奮したりして肩を組んだり、手をつないで声を和したり、抱き合ったりすることはある。

 だがそれは、その場の雰囲気以上の意味はない。

 誰とどうしたかなどほとんど覚えていない。


 しかしリオは、大勢の人々の前で歌っているにも関わらず、その時のレニの一挙手一投足を全て覚えている。

 リオから愛撫や抱擁を受けた後は、必ず誰某だれそれと何をした、こういうことをしていたという指摘を、ひとつひとつ聞かされる。

 一体リオがなぜそんなことを話すのか、しかも何故口づけの後というタイミングで持ち出すのかわからない。

 しかしリオの様子を見ると、とてもそんなことは聞けない。


「テイト……? テイト……えっ?」


 考えてみたが、近くにいたかどうかすら思い出せない。

 戸惑ったように視線を辺りにさ迷わすレニに、リオは感情を欠いた声で囁く。


「テイトさまに手を握られていたのは、三曲目の二章の時です」


 リオはレニの手を取り、その手のひらに唇を当てる。そうして密やかな美しい声で、二章の歌詞を口ずさむ。

 手のひらから伝わる唄の律動が、体の内奥ないおうの弦を弾き全身に響きわたるかのように、レニの体を意思とは関係なく震わせた。

 体が熱く弾けそうな感覚に襲われながら、レニは何とか口を動かす。


「さ、三曲、目……? で、でも」


 たどたどしい言葉を聞いて、リオはレニの手を掴む力を強くする。


「五曲目が終わったときは、ヴァンさまと顔を寄せてらした」

「え、え?」


 五曲めは、テイトがリオに所望した曲だ。

 テイトに向かっては茶化したが、レニも「遠く故郷の月を見よ」が好きだった。

 正確には、あの唄を歌っているときのリオが好きだ。

 六弦を奏で唄うリオの姿は月から舞い降りた精霊もかくやと思え、下町の食堂にいることすら忘れるほど、幻想的な光景に見える。


「レニさま」


 ヒヤリとするような鋭利な声で名前を呼ばれて、レニは夢想から我に返った。

 すぐ目の前に、青い瞳がある。

 その表面は氷のように冷たく静かなのに、奥底には温度が低い青白い炎が音もなく揺れていた。

 そういう目をしている時のリオは、外見は清楚で大人しやかな美女のままなのに、別人のように見える。

 儚げな外見の奥底に隠れ潜んでいる魔物が、不意に現れたかのような錯覚を覚えるのだ。


 リオはレニの耳元に唇を寄せると、赤くなっている耳朶を唇で挟み、白い歯で優しく噛んだ。

 リオの腕の中に閉じ込められたレニの小柄な体は、電流が走ったかのように小刻みに震える。


「リ、リオ……」

「レニさま、テイトさまやヴァンさまにはこのようなことはさせていませんか?」


 リオは熱くなったレニの耳朶を弄ぶように、唇を動かし囁きかけた。

 レニの身体は、陸に上げられた魚のようにびくびくと震える。

 自分でもよくわからない感覚に内部から支配され操られるような恐ろしさを感じながら、レニは身をすくませて声を絞り出した。


「さ、されてない……されてないよっ!」

「私以外のどなたにも?」


 リオの囁きに、レニは自動人形のように何度も首を頷かせた。

 リオは唇をレニの耳朶から離した。耳から珊瑚色の唇に、透明な糸を引く。


「この場所は? どなたにも触れさせていませんか?」


 リオの囁きと共に、細く白い指がレニの首筋を辿る。

 レニは思わず、吐息のような小さな声をもらした。


「だ、誰も触ってないよっ。そのう……そのっ、リ、リオだけ、だよ」


 リオは、やや汗ばんでいる首筋に唇をつけた。

 味わうようになぶるように、丹念にそこに口づけを繰り返す。

 小動物のように怯えながら、だが決してそれだけではない何かで体を震わせているレニの反応を、青い瞳で見つめ続ける。

 

 リオが僅かに肌から唇を離すと、レニの体は息をつくように一瞬弛緩した。

 その瞬間、リオはレニが小さく声を上げるような強さで肌を吸った。

 自分の口から思わず漏れ出た声の響きに、レニは顔を赤くする。

 リオがゆっくりと離れると、ジンとした熱い痛みを残す首筋に手を当てて羞恥のために俯いた。

 静かな沈黙のあと、レニはおずおずとした口調で顔を背けているリオに言った。


「リオ、そ、その……ごめんね」

「何故、謝られるのです?」


 リオは抑揚を欠いた平板な声で尋ねた。


(リオが、何か怒っているみたいだから……)


 声に出せず、心の中でそう答える。

 リオの表情も口調も穏やかで、怒りを感じる要素は微塵もない。

 だがこういう時は、いつもとどこかが違う。

 理屈ではない。

 レニの中にある直感が、リオが体の奥底でたぎらせている、本人も気付いていない激しい怒りを感じ取るのだ。


 リオは表情を動かさずに言った。


「何もお気になさる必要はございません。レニさまは、ご自分の思う通り、好きなようになさればよろしい。お好きなかたとどのようにでも付き合われてよろしいのです。私は……」


 一瞬黙ったあと、リオは夜の湖面のような揺れのない静かな声で付け加える。


「私は、レニさまが所持されているモノに過ぎません。レニさまのご意思とお言葉に従うだけのモノですから、何も構う必要はございません」


 レニは何も言えず、口の中でむにゃむにゃと言葉を溶かして飲み込んだ。

 リオはそんなレニの顔を動かない瞳でジッと見つめていたが、ふっと視線を逸らして呟いた。


「レニさまは……男のことをご存じない」

「えっ?」


 レニは思わず顔を上げた。

 リオは頑なに視線をそらしている。


「そっ、そんなことないよ。だって」


 結婚していたし。

 と口を滑らせかけて、レニは慌てて言葉を呑み込む。

 レニの名目上の夫でリオの長年の愛人だったイリアスの名前は、二人の間では暗黙の了解でタブーになっていた。


 口をつぐんだレニのことを、リオは再び見つめる。灯りが揺れる部屋の中で、リオの瞳は緑色の深い光をたたえて見えた。

 その光の深さに耐えられず目を伏せたレニの髪に、リオがそっと触れる。


「なっ、なに……っ?!」


 慌てたようなレニの髪を、リオは細い指ですく。

 そうしながら呟くように言った。


「レニさまは、何も知らなすぎます」


 レニは顔を上げた。


 俺のことを……。


 そう微かに聞こえたような気がして、リオの横顔を見つめる。

 しかし、そこには見慣れた、物静かで優美な寵姫の姿しかなかった。

 先ほど聞こえたと思った切ない響きを帯びた少年の声は、いくら耳を澄ましてもそれ以上は聞こえてこなかった。


★次回

第18話「ここではないどこかへ」

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