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第175話 母と娘の再会

5.


 次の日の朝。

 レニはシンシヴァが宿に寄越した馬車に乗り、涙玉宮へ入った。

 涙玉宮は三方を海で囲われており、残る一ヶ所も跳ね橋を下げなければ入ることは出来ない。小さな島のような宮廷だ。

 石造りの宮廷の内部には、ところどころに水路や噴水があり、透明な清流の中には色とりどりの花が浮かんでいる。


「元々は海水ですが、魔術と技術によって塩や砂を取り除いております」


 物珍しそうに辺りを見回すレニに、案内係の侍女が説明する。

 この宮廷自体が塩の精製所も兼ねているらしい。

 大小様々な噴水が設置された広間を抜け、明らかに貴人の居住地であるとわかる奥殿おうでんに入り、色とりどりの南国の花が咲き乱れる美しく整備された中庭を見ながらさらにその奥へ進む。

 そうしてやがて貴人が非公式の謁見の時に使う小さな……と言っても、平民の家一軒分の広さはあるが……応接室に通された。


 宮廷内を歩く間は辺りの風景の物珍しさに注目することで、何とか高まる緊張に耐えることが出来た。

 だが今、まさに母に会うのだと思うと、心臓の鼓動が急速に速くなり、胸が破れるのではないかと思うほど胸が熱く苦しくなる。


(太后陛下は、妃殿下のお越しをひどく待ち望んでおられます)

(生まれてからちっとも構ってやらなかった)

(色々な事情があったから仕方がないと言え、さぞ冷たい母親だと思われているだろう)

(今からでも色々としてあげたいが、今更何だと思われるだけではないかと)

(ただ……もし罪に問われ、幽閉されるようなことになれば、妃殿下には二度とお目にかかれないだろう)

(それだけが心残りだと……)


 昨夜シンシヴァの話を聞いた時は、今すぐエリカに会いに行きたい、そんな気持ちでいっぱいだった。

 だが少し気持ちが落ち着けば、長年感じ続けていた不安と疑念が戻ってくる。

 シンシヴァが語るエリカは、レニの記憶にある母の姿と余りにかけ離れていた。

 

 レニは、母親であるエリカと数えるほどしか会ったことがない。そのわずかな記憶の中では、エリカはレニを抱き上げたり撫でたりすることはおろか、触れることすらなかった。

 美しい緑の瞳は、レニを見るときはいつも嫌悪に染まり、見ることすら忌まわしいと言いたげに背けられることが常だった。

 その時のエリカの様子を思い出すたびに、胸が圧迫され息苦しくなる。


 そう……あれが、自分にとっての母だ。

 自分を嫌悪し忌避し、そして憎悪する者。


 そう思うと、昨日の感動と高揚感が嘘のようにしぼみ、いつも母に対して感じるすくみ上るような恐怖が身体に広がっていく。


 一体なぜ、自分はこれほどまで母に疎まれているのだろうか。


 その問いは決して消えることなく、重荷のようにレニの心にのしかかり苦しめてきた。


 レニの父親であるザンムル皇国初代皇帝カティスは、エリカの夫となった時は生けるしかばねのようになっていた。

 生来、体も心も強くないカティスの人生は、レニの祖父でありカティスの父親であるグラーシアの操り人形としてのみ存在していた。

 彼の人生に唯一灯りをともしてくれた最初の妃・アトカーシャを父親に殺された時、かろうじて形を保っていたカティスの心はバラバラに砕け散ってしまったのだ。

 エリカは十六歳という若さで、文字通り「傀儡くぐつ」でしかないモノに嫁がされた。

 その理不尽な境遇に対する恨みが、そこから生まれた自分に対して向けられているのだろうか? 

 だがあれは……あの憎悪は、どう考えても自分に、他の何物でもないレニのみに向けられたものだ。

 レニは、自分に向けられた母親の燃えるような翡翠色の瞳を思い出す。

 あの瞳に映る感情が形となるなら、自分はその場で焼けこげた死体になっているだろう。


 急に辺りの気温が下がったかのように、レニは身を震わせる。

 考えるな。

 母のことを考える時、いつもどこからか声が聞こえてくる。

 もう考えるな。

 自分の心の、意識の、もっと奥深くに流れる暗い濁流の合間から聞こえる声。

 だが母のことを、そして自分のことを知るためには……もっと先へ……本当のことを見据えなければならないのではないか。


 唐突に、扉を叩く音が室内に響く。

 レニはハッとして顔を上げた。


 一体いま、自分は何を考えようとしていた?

 

 そんな疑問は形になる前に、現実の光景に重なるようにしてどこかへ消えて行った。

 失礼します、という侍女らしき者の密やかな声が耳に届いた。


 目のまえでゆっくりと扉が開く。

 そこにはごく軽い薄物を重ね合わせたエリュア風の豪奢な衣装をまとった、小柄な人影が立っていた。

 凝った複雑な形に結われた金茶色の髪が白い肩や首筋に流れており、美しい顔立ちの中でも特に翡翠色の瞳の輝きが目を引く美しい女だ。

 レニは思わず立ち上がり、食い入るようにその姿を見つめる。


「か……」


 喉がつまって声がうまく出てこず、代わりに見開かれた瞳から涙が溢れそうになる。

 女は一瞬、気難しげに眉をひそめた。自分の表情を隠すように、素早い動きで顔を扇で覆う。一瞬呼吸を置いた後に扇をずらすと、そこには柔らかく優しげな笑みが浮かべられていた。

 緑の瞳は軽く見張られ、いかにも驚いたように開かれた口元に、白い指先を品のよい仕草で当てる。


「エウレニア? エウレニアなの……? 本当に?」


 驚きの中に喜びを含んだ声を上げると、エリカは動けずにいる娘の側に歩み寄った。ドレスの裾を調度に引っ掛けないように気をつけているような、ゆっくりとした動きだった。

 レニの前にたどり着くと、エリカはいっそう笑みを深める。


「まあ、驚いた。こんなに大きくなって! よく顔を見せて」

「母さま……」

「ここまでは、一人で来たの? 嬉しいわ、私に会いに来てくれたのね」


 エリカはレニの顔を見ながら、ためらいがちな手つきで娘の小柄な体に手を伸ばす。その瞬間、不意にレニがその胸の中に飛び込んだ。


「母さまあああっ!」


★次回

第176話「あなたはいい子。」

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