第171話 母・エリカ
3.
涙玉宮に戻ると、シンシヴァはすぐに宮殿の奥まった場所にある、私的な謁見の場に向かう。
灯りが絞られ、甘やかな香が焚きしめられた部屋の奥は、薄く美しい帳によって隠されている。
シンシヴァは、目にも綾な帳の前で胸に手を当てて頭を下げた。
「エウレニア王妃殿下に下へ行ってまいりました。太后陛下がお会いしたがっている、とお伝えしたら、たいそうお喜びのご様子でした」
「へえ? どんな三文芝居を打ってきたのよ?」
いささか大袈裟なまでに丁重な男の言葉を、美しいが横柄で権高な女の声が遮る。
その声と同時に、帳が音もなく左右に割れた。
帳の奥に座っていたのは、気難しげな顔をした一人の女だった。豊かな金茶の髪は複雑に結われ、額には煌めく水晶が嵌まった略冠をつけている。
三十代半ばほどに見えるが、機嫌が悪そうに眉をしかめると、利かん気のない童女のような顔つきになる。
長い睫毛に縁取られた翡翠色の瞳を持っており、その姿はまだ十分に周囲の目を惹き付ける美しさがあった。
女は苛立ったように、紅をひいた唇を噛む。
「信じられない。本当にあの娘を寄越すなんて。娘に説教されたら、私がのこのこ王都に行くとでも思っているの? 誰の案だか知らないけれど、随分、馬鹿にしてくれたものよね」
「国王陛下のお考えのようですね。陛下としては、事を穏便に見映えよく済ませたいのでしょう」
「馬鹿馬鹿しい。今さらどうやって見映えをよくするって言うの?」
いかにも馬鹿にしたような女主人の言葉に、シンシヴァは困惑したように首を傾げた。よくよく注意深いものが見れば、そこに僅かに嘲りの影があることに気付いたかもしれない。
帳の中に座っている美しい女は、男のほうをチラリと見て形のいい唇を尖らせた。その仕草には、品を失わない程度の微量の媚が含まれている。
「それで? シンシヴァ。私はどうすればいいの? 可愛い我が子との再会を喜ぶ、心優しい母親を演じればいいの?」
問われて、シンシヴァは恭しく頭を下げた。
「エリカ太后陛下。貴女は、この大陸の全ての民の母たる尊き御方です。何事も、貴女の思うがままになさればよろしい」
エリカは不満そうに、自分の側近を見やった。
「私はいつもお前が言うようにしてきたじゃない。お前が何でも考えてくれるから」
甘さと皮肉さが混在した眼差しを受け流すように、シンシヴァは黒い瞳を細めた。
「その割には……国王の寵姫さまを呼び寄せたことを、私には隠されているようですね」
「あら、知っていたの?」
エリカは悪びれた様子もなく笑った。
「あいつが教えてきたのよ。エウレニアに言うことを聞かせたいなら寵姫を使えばいい、寵姫のほうも、エウレニアの名前を出せば必ず来る、って」
シンシヴァは黒い瞳を細めた。特に底意がなさそうに用心深く装われた様子で、言葉を口にする。
「国王陛下の寵姫どのと王妃殿下の仲は、それほど親しいのですか? この国で最も尊き方々を我ら下々の色恋と同列に語るなど畏れ多きことながら、夫を挟んだ妻と愛人の間には敵意や憎しみこそあれど、友情など生まれるでしょうか」
シンシヴァの反応は、エリカにとっては予想通りのものだった。腹がいっぱいになった猫のような満足そうな様子でエリカは笑った。
翡翠色の美しい瞳は、子供のように楽しげに光っている。
「ああ、お前は知らないんだものね」
「何をです?」
答えを知りたい、というよりは、女主人を喜ばせるためにシンシヴァは尋ねる。予想通りエリカは、ひどく嬉しそうに笑い声を漏らした。
シンシヴァは、少し考える振りをしてから、さりげない口調で呟いた。
「そう言えば、寵姫さまはエリュアのお生まれだそうですな」
「そうよ」
エリカは紅い唇に笑みをしたたらせたまま、シンシヴァを横目で見る。
側近の端整な顔に殊勝な表情が浮かんでいるのを見ると、十分遊んで満足した子供のようにあっさりとした口調で言った。
「いいわよ、会わせてあげる」
エリカは手元にあった呼び鈴を鳴らす。
裏手の扉から慌てたようにやって来た侍女に、エリカはシンシヴァに対しているときとはまったく異なる厳しく横柄な口調で命令を伝えた。
見るからに女主人を恐れている様子の侍女は、表情を強張らせたまま大急ぎで部屋から出て行った。
程なくして、正面の扉から取次の侍女が入って来る。
「寵姫さまをお呼びいたしました」
エリカは侍女には目もくれず、僅かに開いている扉の奥に向かって声をかけた。
「入りなさい」
そうしながら、エリカは侍女に向かっては犬でも追い払うような仕草で手を振る。侍女は頭を垂れたまま、そそくさと外へ出て行った。
侍女と入れ違うようにして、ほっそりとした人影が部屋の中へ入って来る。
エリュアの上流階級の女性が好んで着る、ぴったりとした服の上から半透明の長衣を纏った姿だ。腰に巻いた美しい飾り紐は、髪飾りと揃いの細工になっている。
淡く化粧を施した姿は、厳しい審美眼を持つエリュアの貴族たちでさえ唸らせるほど美しかった。
「これは……」
シンシヴァは、普段本音を隠すことに慣れているこの男にしては珍しく、素直な驚きと讃嘆で瞳を見開く。
帳の中にいるエリカは、シンシヴァの反応にひどく満足そうな様子を見せた。
「どう? いいでしょ? 装いもエリュア風にしたのよ。服も飾りも髪や瞳の色に合わせて、最高のものを用意したんだから」
気に入りの愛玩動物か新しく手に入れた人形を自慢するかのように、エリカは言った。
「なるほど」
シンシヴァは遠慮のない目つきで、エリュアの貴婦人の恰好をさせられているリオの姿を、上から下まで鑑賞する。
「美しい……」
思わず言葉を漏らしてから、様子を探るようにエリカのほうに視線を走らせる。しかしエリカは大して気にしていない、むしろシンシヴァの反応を喜んでいるようだった。
★次回
第172話「人形の癖に」