第169話 母の気持ち
レニはハシバミ色の瞳を細めた。
イリアスは、現在オルムターナを動かしているのはエリカとその側近だと言っていた。
レニは母親とはずっと疎遠だったが、だからこそ親子という関係性から離れた、エリカがどういう人間かということはある程度把握している。
エリカは贅沢好きで驕慢な性格だが、権力や政治にはほとんど興味がない。自分の生活を脅かされることがなければ、子どもが飽きたおもちゃを投げ与えるように自分の気に入りの人間に権力を与えるだろう。
レニは礼儀正しく頭を下げているシンシヴァの姿を、感情を殺した表情で眺める。
いまオルムターナで権力を握っているのは、目の前のこの男なのだ。
イリアスの暗殺を目論んだのも、そうすることでレグナドルトとドラグレイヤの仲を裂く、あわよくばレニをもう一度王位につけようと考えたのもこの男なのだろうか?
いくら目を凝らして眺めても、外見からは男の内心は伺い知れない。
「妃殿下」
男は顔を上げ、深い黒の瞳でレニの顔を見上げる。
端整な顔に浮かんでいたのは、礼儀にかなった微笑みだったが、レニは反射的に身を引いた。
何故か冷たい刃で、顔を撫でられたような心地がした。
「太后陛下は、妃殿下のお越しをひどく待ち望んでおられます」
「母さまが……?」
レニは思わず身を乗り出した。
半ば疑いながらも、どうしても聞かずにはおれなかった。
「母さまは……私に会いたくないんじゃないの?」
「とんでもございません」
シンシヴァは軽く首を振る。
「殿下が来るという知らせがあってから、早く会いたいとそればかり仰せです」
「え……?」
意外さに目を見張ったレニの顔を、シンシヴァはしばらく観察していた。やがて、礼儀から外れない程度に親しみがこもった様子で微笑む。
「失礼ながら妃殿下と太后陛下は、長い間離れてお暮しだったと伺っております」
レニが視線を下に落とした瞬間、シンシヴァはさりげない口調で言った。
「しかし……離れていても、やはり母娘なのですね。太后陛下も、妃殿下とまったく同じことを申しておりました。妃殿下は自分を恨んでいるに違いない。本当は顔を見たくなかったと言われたら、冷たくされたら、母親だなどと思っていないと言われたらどうすればいいか。そんなことばかり仰せられております」
「母さまが?」
信じられない。
そう思いながらも、レニは震えが抑えきれない声で呟く。
「そんなに気にしているの? 私が母さまを嫌っていたらどうしようって?」
「はい」
シンシヴァは、同情に絶えないと言いたげな鎮痛な面持ちで頷いた。
「生まれてからちっとも構ってやらなかった。色々な事情があったから仕方がないと言え、さぞ冷たい母親だと思われているだろう。今からでも色々としてあげたいが、今更何だと思われるだけではないかと。尊き身分であるのに、私のような者にまで、『シンシヴァ、お前はどう思うか? エウレニアは、私のことなどもう母などと思ってはいないのではないか。ここにも国王陛下のご下命で、仕方なく来るのではないか?』と問われております。私のような数ならぬ身の者が言うのは畏れ多きことですが、見ているだけで胸がふさがれるような、いたましいご様子です」
「母さまが……」
レニは視線を落とし、呆然としたように呟く。
シンシヴァはしばらくレニの表情を観察した後、ごくさりげない口調で付け加えた。
「今さら言ってもせんなきことですが……我がオルムターナの者が国王陛下のお命を縮ませ奉ろうとした、というのも誤解なのです」
「誤解?」
その言葉の意外さに、レニは弾かれたように顔を上げる。
★次回
第170話「全部、あなたのため。」