第16話 本当の人生
4.
「ふわあああ、飲んだあ、食べたあ」
夜半、食事が終わって部屋に戻ると、レニはベッドに倒れ込む。
昼間、日の当たる場所に干しておいたせいか、新鮮な藁と綿を詰め込んだ布団はふかふかだ。
レニは、布団に残る陽光の匂いを心地よさそうに嗅ぎながら呟いた。
「今日もリオの演奏、凄かったなあ。みんな喜んでいたね」
5.
今晩も食事がひと段落した後、リオが何曲か歌を披露した。
リオは、王族や大貴族の前で舞い謡うために、幼いころから一流の芸妓を仕込まれている。その歌声や演奏は、港の下町で生きる人々にとっては本来であれば一生耳にすることはない技量のものだ。
リオが六弦と呼ばれる楽器を演奏し歌い始めると、店内からは自然と話し声や騒ぐ声が消えた。
音の絶えた空間に、六弦の音色とその旋律に完璧に調和した美しい声だけが流れる。
その声は、楽器から奏でられる音律のように美しくよく通る。
人々はうっとりとした表情で、その音色に耳を傾け聞きほれた。
民謡、民間の流行り歌、古くから伝わる伝統の歌。
悲恋や家族への愛情を題材にした詩歌では人々は涙を流し、神を讃える賛歌を奏でたあとは拝み出す人もいた。
演奏が終わると、リオは店内中の人たちから喝さいを浴び、心づくしを捧げられる。
そんなリオの姿を見て、レニの心は毎晩誇らしい気持ちでいっぱいになる。
(ここにしばらくいてもいいかなあ。みんな優しいし。毎日楽しいし)
レニは布団に仰向けになり、天井を見ながら考えた。
この港町での日々は楽しく、飛ぶように過ぎていく。
ただ美味しいものを食べ、言いたいことを言い、笑いたいときに笑い、騒ぎたいときは騒ぎ、頭にきたら喧嘩して、気が済んだら仲直りする。
そんな風に他愛なく一日一日が過ぎて行く。
疑惑をかけられるのでは、陥れられるのではと怯えることも、誰をどこまで信じてよいのか考えることもない。相手の動向に目をこらして、神経を常に張りつめさせる必要もない。
暗い皇宮の片隅で身を縮めるようにひっそりと生きてきた、孤独で息がつまるような日々を過ごしていたときは、こんな風に生きられるとは想像すら出来なかった。
レニは、隣りに腰かけたリオのほうへ顔を向けた。
「ねえ、リオ。もうしばらくここにいようか」
リオは青い瞳に優しい光をたたえて、レニの顔を見つめる。
「レニさまは、この町が気に入られたのですか」
「うん。皇宮にいた時よりも、ずっと楽しいよ」
レニは仰向けになったまま、瞳を閉じて一人言のように続けた。
「私は、こういう場所に生まれてくるはずだったのかも。皇女とか女帝とか、そういうのは全部夢で……やっと、その夢から覚めたんじゃないかな。
何だが……初めて、本当に生きているっていう感じがする。不思議だよね、旅に出てまだ半年も経っていないのに」
リオは瞳を閉じて話すレニの顔から、ふと目をそらした。
そうして、少し黙ってから答えた。
「私も……そんな風に思うことがあります。皇宮から出る前のことはすべて一夜に見た夢で、いま、レニさまとこうしている今が現実ではないか、レニさまに『リオ』という名前を頂いてからが、……私の本当の人生だったのではないかと」
「リオもそう思うの……?」
レニは驚いて声を上げる。
リオはその声に応えるかのようにレニのほうを振り返り、微笑んだ。
レニのハシバミ色の瞳とリオの青い瞳が見つめ合い、視線が空中で交わる。
レニは頬を染めて、表情を隠すように顔を伏せた。
だが自分を見つめ続けるリオの視線に耐えきれなくなったように、目線を僅かに上げる。
その瞳の奥には、臆病な小動物のようにひっそりと、何かを求めるような光が瞬いていた。
リオは、レニの顔を見つめて目元を柔らかく緩めた。青い瞳に、僅かに緑色の色彩が浮かぶ。
レニの瞳の奥に宿る光に誘われたかのように、リオは白い手を伸ばし、赤い髪の毛や桜色に染まった頬を優しく撫でた。
自分の手の動きに応じて、レニがくすぐったそうに身をよじる姿を見つめる。
リオは身をかがめると、ベッドに仰向けになったレニの額に、頬に、恭しく唇を当てた。
レニは目をつむり、赤くなった頬を微かに震わせながら口づけを受ける。唇の感触を感じるたびに、その場所が熱を帯び、全身に広がっていく。
リオが離れようとすると、レニは目を開いた。
半ば拗ねたような半ばすがるような眼差しで、見つめてくる。
リオは少し笑い、もう一度ゆっくりと身をかがめた。
ベッドの上に仰向けになっているレニの唇を、神聖なものに触れるかのように指先で撫でたあと、唇に唇を重ねる。
レニの柔らかい唇を優しく愛撫しながら、リオは囁いた。
「レニさま……口を開いてください」
レニは微かに声を漏らし、震える唇を開く。
自分の言葉に、慣れない様子でぎこちなく従うレニを愛でるように、リオはレニの頭を抱えて引き寄せた。
口の中に舌を差し入れ、唇を深く吸う。
リオの舌が口の中を優しく探るたび、唾液が混じり合う微かな音が響く。
背中や頭を時に優しく撫でられ、時に強く抱かれる感触が、酒で虚ろになったレニの頭の中を甘く痺れさせ、心と体を蕩けるような心地よさで包んだ。
海鳩亭に逗留するようになってから、リオはレニの声にならない求めに気付いたかのように口づけと抱擁をするようになった。
レニは、リオとならばそれ以上の関係になってもいい、むしろそうなりたいと思っている。
だがレニからそう言えば、リオはそれを命令として受け取るのではないか。
それが怖くて言い出すことが出来なかった。
優しく口づけと抱擁を与えてくれるのも、自分を主人だと思っているからなのだろうか。
従う者の務めとして、主人の要求を察して仕えてくれているだけなのだろうか。
それすら気後れして、聞けない。
気持ちをはっきりさせず、こういう行為をすることに疑問が浮かぶこともある。だがリオに抱き締められ愛撫される感触が余りに心地よく、いつも雰囲気に流され状況を受け入れてしまう。余り深く考えたくないから、ついつい酒も飲み過ぎてしまう。
口づけの心地よい余韻に浸りながら夢見心地にそんなことを考えていたレニの手を、不意にリオが掴んだ。
★次回
第17話「俺を知らない」