第164話 あなたにはわからない。
「追いかけて、どうする気ですか?」
レニは振り返り、怒りで燃え立つ瞳でアーゼンを睨みつけた。
「何で? 何で、あんなこと!」
「何がです?」
「あなたは……っ!」
レニは激情の赴くままに叫んだ。
「あなたは、わざと私に責任を負わせた! オッドをあなたの部下にしない理由を……私のせいにして!」
アーゼンは笑みを消し、全身から怒りをほとばしらせるレニの姿を見つめる。
そうしておもむろに口を開いた。
「私は、彼を我が組織に迎い入れることはやぶさかではありませんでした。しかし、あなたが反対したから諦めた」
「何で……何で、そんなの……っ」
アーゼンは軽く肩をすくめる。
「私はあなたの希望された通り、自分の意に反して彼を受け入れなかった。一体、何がお気に召さないのです?」
「だって……」
レニが言葉を続けられないと見て取ると、アーゼンは口を開いた。
「彼は絶望したでしょう。自分にとってはたったひとつの人生が、慈悲深い誰かの気まぐれひとつで左右されることに。ある種の人間にとって、それはとても屈辱的なことだ」
アーゼンは、レニのほうを向いた。
礼儀正しい笑みの中に、見るものの心を凍りつかせるような冷たさがあった。
「彼はあなたを恨むでしょう、一生。私にはわかる」
そう言うと、アーゼンは唇から忍び笑いをもらす。アーゼンがこれほど楽しそうに笑うことが出来るのかと驚くほど、心底おかしそうな笑いだった。
呆然として自分のことを眺めるレニを、アーゼンはまだ笑いの残った目で見つめる。
「あなたには分からない。あなたはあの少年とは違う。自分を囲む輪の論理に、決して逆らわない。どんなに無理なことを強いられても、唯々諾々とそれに従う。
あなたの周りにいるかたたちは、さぞやあなたを重宝したでしょうな。兄上の思い通りに育ち、自分を捨てた母親を恨まず、命じられるがままに祖父を殺し、自分が愛する人形ですら人に手渡す。
私はあなたほど、自分というものを殺せる人間を見たことがない。あなたは何もかもを、簡単に人に明け渡す。
アイレリオ殿下の代わりに、私があなたを育てかった。今のあなたよりも、もっと強く、もっと残酷に育てることが出来たでしょう。命じられるままに自分を殺し、私を殺し、暗い世界で一人で生きる人間に」
アーゼンは表情の抜け落ちたレニの顔を見て、ひどくおかしそうに笑った。
レニの顔は、青ざめるのを通り越して作り物の仮面のように白くなっていき、小柄な身体は小刻みに震え出した。
アーゼンは笑いを収め、優しく小さな背中に手を回す。
「少々、明け透けに言いすぎましたかな。お許しを、妃殿下」
さあ、館に参りましょう。
手を引かれるまま、レニはカラクリ人形のようにぎこちない動きで歩き出す。
繋がれたアーゼンの手は、外見に似合わず、鉄鎖のように硬く冷たく感じられた。
しばらく無言で歩いた後、レニはポツリと呟いた。
「オッドを、自分の後継ぎにするつもりだったの?」
アーゼンは重苦しく雲が垂れこみ始めた空を眺めながら、答えた。
「先ほど言った通りです、妃殿下。彼はあなたとは違う。この世界には向いていない」
レニは顔を上げる。
自分のほうに向けられたアーゼンの灰色の瞳は、陽光を遮る雲のようにその先のものが見通しづらかった。
「彼が私の『家族』になったとしても、恐らく裏切るでしょう。まあ定期的に異端者が出たほうが、組織は強くなりますが……」
不意にレニは、アーゼンの手を強く握りしめた。
アーゼンはわずかにレニのほうへ視線を動かす。
レニは言った。
「アーゼンさん、もし……もし、オッドがもう一度、あなたのところに来て『部下にして欲しい』って言ったら……オッドの頼みを聞いてあげて」
アーゼンは立ち止まり、俯いているレニの姿を観察した。それからゆっくりとした口調で尋ねた。
「よろしいのですか?」
レニはしばらくジッとしていた。
長い沈黙のあと、はっきりと頷く。
アーゼンは手に持ったステッキを回し前を向いた。
「もし彼がもう一度来たら、妃殿下のお言葉通りにいたしましょう」
そうして二人は曇り空の下の下町の通りを、並んで歩き出した。
★次回
第165話「二人でいなきゃダメなんだ。」