第162話 部下になりたい。
次にオッドに顔を向け、問いを口にしようとした。
機先を制するようにレニは叫ぶ。
「もう、ソフィスの塾には手を出さないで! ルカや……あそこに通う子供たちにも」
「塾?」
テインシィは微かに首を傾げたが、何かに気付いたように自分の傍らにいるブルグに視線を向ける。
ブルグが気まずそうに視線を逸らすのを確認すると、今度は黒い瞳をオッドのほうへ向けた。
「オッド、何の話だ? その塾がお前に何か関係あるのか?」
オッドはテインシィの黒い目を、ジッと見つめた。それから顔を横に向け、低い声で呟く。
「……ない」
テインシィは僅かに瞳を細めて、肩をすくめた。
「まあいい。よくわからんが、俺は堅気の人間には興味はねえ。その塾だが何だかが、俺たちの商売の邪魔をするんじゃなきゃ、特に用はねえよ」
「テインシィ」
アーゼンはレニの両肩に手を置いて言った。
「興味がないなら、このお嬢さんには恩を売っておいたほうがいい」
「どういう……意味ですか?」
うっすらと笑みが浮かぶアーゼンの顔を、テインシィはジッと観察する。それからレニのほうへ視線を向け、真面目くさった顔つきで言った。
「わかった。その塾には手を出さない。俺はあんたの頼みをひとつ聞いた。それは覚えておいて欲しい」
「あと、オッドを」
レニは咳き込むように言う。
「オッドを解放してあげて! オッドは、本当は皆と一緒に塾に行きたいんだよ」
テインシィは、レニの隣りにいるオッドのほうへ視線を向けた。
「そうなのか?」
視線を逸らしたまま無言でいるオッドに、テインシィは強い口調で言った。
「お前、俺の下から抜けたいのか?」
長く重苦しい沈黙が室内を包んだ。
レニですら口を開くことが出来ず、ただ黙って成り行きを見守る。アーゼンは最初からこの話に介入するつもりがないことを示すように、一歩後ろに下がり、退屈そうに室内を見回していた。
永遠に続くかと思われた沈黙のあと、オッドは低いがはっきりとした声で言った。
「ボス、世話になった。足抜けのために必要なことがあればする」
仮面のような無表情のまま、テインシィは部下だった少年の顔を眺める。それから感情のこもらない冷たい声で言った。
「お前の友達のお嬢ちゃんに免じて、足抜けの代償は勘弁してやる。ただし、俺の前に二度と姿は見せるな。見せれば殺す」
オッドは黙って頷いた。
その姿を見て、レニはホッと安堵の息をつく。
「話は済みましたか?」
子供が用事を済ませるのを待つ親のような調子で、アーゼンは声をかける。
「では、参りましょう。レニどの」
アーゼンに促されて、レニは頷いた。
オッドに手を貸すと、その痩せた体を支えて共に歩き出す。
オッドは終始無言で、汚れた金褐色の髪に隠れて、表情を見ることは出来なかった。
アジトの通路を歩くレニの心には、ルカやソフィスの顔が思い浮かぶ。
(ほんとはオッドも、そうしたいんだ)
(オッドのことも守ってやりたいけど……今は、まだガキだしな)
(レニ……オッドのこと、頼むな)
これでオッドは、ルカと共にソフィスの塾に通い、普通の子供として生きることが出来る。
レニの胸には、喜びで高鳴った。
21.
外に出ると、既に日が高く上がっていた。
辺りに人気はなく、時折、衛兵たちが路地を駆け回る足音が遠くのほうから聞こえてくる。
「私は一度、シャルケ殿の館のほうへ戻ります」
「都市浄化法は……止められるの?」
レニは街の様子を眺めながら呟く。口に出してから、自分の声に思ったより不安と不信が滲んでいることに気付く。
アーゼンは特に気を悪くする風もなく、どこかからかうような口調で答えた。
「心配なら一緒に来られますか? 部屋をご用意いたしますよ」
アーゼンが何を考えているかわからない以上、事の顛末がどうなるか見届けたほうがいい。
レニは頷いて、オッドに別れの挨拶を告げようとした。
その時、ふとオッドの金褐色の瞳に、強い光が宿っていることに気付いた。
「オッド……?」
オッドはレニの呼びかけにまったく反応を示さなかった。真っすぐにアーゼンの顔を見つめたまま、足を一歩踏み出す。
「あんたに頼みがある」
微かに眉を上げたアーゼンに向かって、オッドは言った。
「あんたの部下になりたい」
「え?!」
一瞬の沈黙のあと、叫んだのはアーゼンではなくレニだった。
アーゼンはただ、わずかに興味を惹かれたように瞳を細めて、無言で目の前で頭を下げる少年の姿を眺めた。
★次回
第163話「俺の人生だ。」