第161話 裏取引
入口に現れたのは、長身で細身の身体を持つ三十代半ばの男だった。黒い肌と黒曜石のような瞳を持ち、肩口でひとつに束ねている髪は黒く波打っている。他世界の出身か、そのルーツを持つ人間であるとひと目でわかる。
富裕な商人や貴族が日常的に着るような上等な衣服と、下層階級からのし上がった人間特有の周囲を威圧する雰囲気の不均衡さが印象的だ。
男は、野生の動物のような鋭く警戒するような眼差しで室内の様子を素早く見てとった。
男の視線は、自分にすがりつくような眼差しを向けるブルグ、殺気立って身構えるレニ、複雑な感情をのぞかせているオッドの上を次々と通過する。
その視線は、休日を楽しんでいるかのような悠然とした表情をしているアーゼンのところで、ピタリと止まった。
アーゼンの灰色の瞳と、男の黒い瞳が一瞬交錯する。
二人の雰囲気は両極端にかけ離れているように見え、それでいながらどこか似たものがあった。
男は唇を引き結ぶと、真っ直ぐにアーゼンの下へ歩み寄る。
男は何か自分にとって、恐ろしく危険なものを警戒し観察するような眼差しを、アーゼンは初めて来た土地の人間を観察するような眼差しをお互いに向け合った。
黒い肌の男からにじみ出ている強い緊張感に、周りの人間は気圧され、瞬きも出来ずその光景を見守る。
唾を飲み込む音すら聞こえそうな張りつめた静寂が、室内に充満していた。
永遠とも思える長い時間の後、男は不意に目に見えぬ何かに押さえつけられたかのように、頭を垂れた。
「ボ……ボス……?」
ブルグは、まるで世界がひっくり返りでもしたかのように、驚愕の表情でその光景を見つめる。
「ボス」と呼ばれた男は、ブルグに一切の注意を払わなかった。
アーゼンの言葉を待つように、頭を下げたまま動かずにいる。
アーゼンは、ひと仕事を終えて満足する農夫のような表情で微笑んだ。
「そなたがテインシィか」
「お初にお目にかかります、閣下」
穏やかなアーゼンの言葉に、テインシィは頭を垂れたまま低い声で答える。
自分の前で身体を強張らせている男をしばらく観察した後、アーゼンはひとりごちた。
「送った伝言は理解してもらえたかな」
首肯を表すように、テインシィの無言を守る。アーゼンはゆっくりと口を開いた。
「街は生かして、富を生ませるものだ。殺して肉を喰らうものではない。そなたのやり方では、この街自体がいずれ死ぬ。自滅するのは構わないが、この街を道連れにするのはいささか困る」
「いかにあなたと言えど」
テインシィはギリッと奥歯を鳴らし、顔を上げた。その黒い瞳には、人には馴れない猛獣のような強く反抗的な光が宿っている。
「余所者に、この街を仕切る方法について口出しされる筋合いはない」
アーゼンは殺気がこもったその瞳を、特に感情を波立たせることなく見つめ返した。
「この街に利権を持つ者は大勢いる。仕切り役は、多くの者を潤わせる能力があるから、その立場を任せられているにすぎない」
アーゼンは淡々と言葉を紡ぎ、もう一度相手の顔に視線を当てる。
テインシィは、わずかに顔を下に向けた。
「領主の依頼、ですか」
「それもある。だが、それだけではない」
押し黙っているテインシィを前にして、アーゼンは平板な口調で言葉を続ける。
「貴族は敵に回すな。奴らは利用するものだ。打ち負かすものではない」
アーゼンはいったん口をつぐんでから、付け加えた。
「憎しみや恨みも飼い慣らせなければ、この世界では長くは生きられない。ここまで這い上がってきた人間なら、それはわかっているはずだ」
テインシィは、食い殺す獲物を見るような目つきをアーゼンに向けた。
だが灰色の瞳を向けられた瞬間、テインシィの目から敵意と殺意は消え、代わりに別のものに支配される。
テインシィは、自分の心の動きを悟らせないように目を伏せた。しばらくは心を決めかねるように何事かを考えていたが、やがてそれが諦めへと変わるのがレニにもわかった。
テインシィは微かに首を振ると、呆然としたようにへたり込んでいるブルグのほうへ一瞥を投げ与える。
「昨夜の件については、どうされるつもりです?」
テインシィの声に硬質の響きが戻る。
「チンケでクズなチンピラだとしても、子分は私にとって身内です。役人や余所者に言われて、おいそれと差し出すわけにはいかない」
アーゼンは同意を表すように、口の端をわずかに持ち上げた。
「その通りだ。我らにとっては、組織の論理、身内の絆が一番だ。それに比べれば、法などただの紙きれに過ぎない。それが末端に行き渡っていなかったのは残念だが」
魂が抜けたような顔をしているブルグに、アーゼンは皮肉な眼差しを向ける。
「部下は選ぶことだ。愚かなのはいい。しかし、掟を守れない者は群れを滅ぼす」
テインシィは頭を下げた。
それは、アーゼンに対して、というよりは、レニとオッドに向けたもののように見えた。
アーゼンの顔つきが穏やかなものに戻る。
「そのことについては、私の責任でもって事を収めよう。そなたは、よそ者である私の要請を受け入れてくれた。その始末は、私がするのが当然だろう」
アーゼンは付け加えた。
「この街を枯らすことなく上手く仕切るのであれば、今後とも末永く友誼を結びたい」
テインシィは軽く目を見張る。その顔には驚きと抑えきれない興奮があった。
「あなたが私たちの後ろ盾になってくれると?」
「今回の件では、そなたに便宜を払わせた。そのささやかな礼だ」
テインシィは、入ってきた時よりもさらに深く頭を下げた。その長身の体からは、先ほどまではなかった心からの敬服が滲み出ている。
アーゼンはステッキを持ち直し、レニに声をかけた。
「話は済みました。レニどの、行きましょうか」
レニはアーゼンから差し出された手を無視して、顔をテインシィのほうへ向ける。
「あなたがオッドのボス?」
不意に声をかけられて、テインシィは驚いたようにレニの顔を見つめる。
★次回
第162話「部下になりたい。」