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第157話 夜明け前の朝食

16.


 翌朝、レニは心地良い香りによって目を覚ました。

 思考することを遮る、頭の中にうっすらと張られた膜を何とか振り払うと、急速に視界がはっきりし出した。

 目の前の卓の上には、簡素だが庶民から見れば手の届かないほど豪華な朝食が並べられている。

 蜂蜜やバター、ジャムの壷が添えられた柔らかな白パン。温かそうな湯気がたったスープ。器に盛られた新鮮な野菜や果物。焼いた厚いベーコンや腸詰め、チーズも並べられている。

 卓の向かい側ではナプキンを腕にかけたイライス・アーゼンが、サモワールから器に茶を入れていた。


 レニは洗練されたその姿を凝視する。

 これほど近くで人が動き回っているのに目を覚まさないのは、レニには考えられないことだ。特に今のように、眠りに落ちていても警戒している時は、どれほど疲労していても些細な気配で意識が覚醒するように訓練している。

 それがこんなに準備が整うまで、何ひとつ気付かず眠りこけていたとは。


 アーゼンはレニの様子を気にする風もなく、入れたばかりの茶を目の前の卓に置いた。


「お目覚めになりましたか。ちょうど朝食の支度が整いました」


 レニは窓の外に視線を走らせる。

 外は薄暗く、ようやく朝焼けの最初の兆候が窓の隙間から入ってくるところだった。


「何時?」


 レニの短い問いにアーゼンは、ゆったりとした口調で答える。


「四の刻半、というところですな。夜明けまではまだ、間があります」


 アーゼンはレニの側へ行き、身を屈めた。


「妃殿下、どうかお食事を。次はいつ食べられるか分かりませんので」


 レニは一瞬反抗的に唇を曲げたが、すぐに無言で卓の前に座る。

 アーゼンの言う通り、先のことが分からない時は、食べられる時に食べておくことは重要だ。


 断りなくレニが食事を始めると、アーゼンも向かいの卓に腰掛けた。

 普段と何ひとつ変わらない朝であるかのように、白いパンを手に取り、スープに浸して口に運ぶ。

 ある程度食事を終えると、レニは目の前の男の姿をジロジロと観察した。


「あなたは、前から領主のシャルケ様と知り合いなの?」


 返事が返ってくるとは期待していなかったが、案に相違してアーゼンはあっさりと答えた。


「シャルケどのとは、父君の代からの付き合いです。この街……アッシュイナは、王都と西方、南方の地を結ぶ物流の要ですからな。私の住まいであるゲインズゲートと同じです。富が集まる場所は、無法な者の力が強くなる」

「あなたみたいな?」


 レニの言葉に含まれた皮肉を気にする様子もなく、アーゼンは頷いた。


「シャルケどのは、無法者たちを飼い慣らすのに苦労している。私はそういった者どもから出てきた人間ですが、シャルケどのの家は根っからの貴族の家柄です。都市に巣くう、野獣の扱いには慣れていない」


 レニはふと何かに気付き、小柄な体を強張らせて、人の良い田舎貴族のようなアーゼンの顔を睨みつけた。


「……『都市浄化法』って、あなたが考えたの?」


 アーゼンは笑みを消し、胡乱そうな目付きでレニの顔を眺める。分かるかわからないかほど微かに息を吐いた。


「心外な申されようですな」

「違うの?」


 アーゼンは肩をすくめる。


「我らのような人間は、都市があり人がいてこそ生きることが出来る。自分の住み処である大樹をかじり倒す虫は、生き残ることは出来ますまい」


 レニは疑念に満ちた顔のまま、脇を向く。

 アーゼンは珍しく、不本意そうな顔つきで口を開いた。


「その件については、シャルケどのから相談されております。この街の人間は、やり方が余りに強引だ。貴族は我らを軽蔑している。それは構わない。しかし憎まれるのは困る。仕事がやりにくくなりますからな」


 レニは紅茶をひと息で飲み、立ち上がる。

 窓の外を見ると、明るくなりかけていた。


「そろそろ行くね。泊めてくれてありがとう」


 さほど感謝がこもっていない口調で言ったレニの前で、アーゼンは立ち上がって軽く礼をする。


「では、参りましょうか」

「え……?」


 レニは半ば驚き、半ば警戒する眼差しで、アーゼンの顔を見上げた。


「あなたも……行くの?」


 アーゼンはその顔を見つめてうっすらと笑う。


「下町には恐らく、衛兵たちが入っている。いかに妃殿下と言えど、見とがめられず、お知り合いの塾まで戻るのは難しいでしょう」


 レニは拳を握りしめる。

 あれだけの騒ぎだ。昨日のうちに衛兵が町でも捜索を行っているだろう。

 ソフィスたちに迷惑をかけないためにも、アーゼンの連れという身分で戻ったほうがいい。

 言われるがままにアーゼンに頼ることには感情的には大きな抵抗があるが、背に腹は代えられない。


「さあ、妃殿下。外に目立たない馬車を用意してあります」


 アーゼンに促されて、レニは無言でその後に付き従った。



17.


 まだ朝日が昇りきらない薄暗い早朝の街中を、アーゼンが用意した馬車は駆けていく。

 商業都市であるこの街の朝は、本来は早い。すぐ近くの湖から商品がひっきりなしに入って来るため、日の出前から市場がにぎわっている。

 だが今日は、何故か街中はひっそり鎮まり返っている。

 いつもは路上に寝転んだり、ふらふらと彷徨っている酔っ払いや浮浪者の姿をほとんど見かけない。

 代わりに、街角や路地に衛兵の姿を多く見かける。

 レニは胸の前で、我知らず拳を握りしめる。窓の外の光景は、心をひどくざわつかせ不安にさせた。


 下町の狭い路地の前で馬車が止まると、レニは転がるように馬車から飛び降りる。泥や埃にまみれた薄暗い路地を駆け、一目散にソフィスの塾に向かった。

 アーゼンは特に急ぐ風もなく馬車から降り、御者に領主の館に引き返すように伝えると、ステッキを持ってレニの後を悠々と歩き出した。


 塾の周りはひっそりとしていた。

 レニは入口の木戸に手をかけ、勢いよく押し開く。


「ソフィス! ルカ!」

「レニ……!」


 木戸を開けた先の教室に、ソフィスは腰かけていた。一人で何か考え事をしていたようで、すぐに入って来たのがレニだと気付く。

 レニは驚いて、教室の中を見渡す。

 並べられた長椅子や木の長机の上、または床に子供たちが毛布をかぶって横になっていた。

 レニの声に何人かが目を覚まし、寝ぼけ眼に起き上がる。

 入口のすぐ脇にいたルカは、ぼんやりとした表情で瞼をこすっていたが、相手がレニであることに気付くと、その場から勢いよく立ち上がった。

★次回

第158話「無法者のアジトへ」

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