第156話 御心のままに。
15.
イライス・アーゼン。
大陸中に散らばり、要人からの暗殺や誘拐を含む依頼を受ける秘密結社「黒い血盟」の首領だ。
だが、目の前の中肉中背、灰色の髪と瞳を持つ男からは、そういった薄暗い気配は一切感じられない。
品はあるが特段目立つところはない、実直な官吏、もしくは一介の街の名士のように見える。
アーゼンは高貴な淑女に対する礼をした後、ゆっくりと立ち上がる。
「私はこの館に、客人として逗留しております。シャルケ殿とは昔からの付き合いがございましてな」
親しみのこもった表情が浮かぶアーゼンの顔を、レニは油断なく睨み据える。
「私が来たこの街にたまたまあなたがいて、たまたま今日私が逃げているのを見つけて、たまたま助けてくれた、そういうこと?」
レニの問いに、アーゼンは微笑んだまま微かに首を傾げた。
「縁とは不思議なものでございますな。私と妃殿下は、数奇な糸で結ばれているのやもしれません」
「『偶然』だなんて、そんなわけがないよね?」
アーゼンの口上などまったく耳に入れず、レニは鋭い声を発する。
「何を企んでいるの?」
軽く肩をすくめたアーゼンを視線で縫い留めたまま、レニは言葉を続ける。
「私を見張っているの? 何で?」
「何で?」
その時、初めてアーゼンの表情が崩れ、口元に苦笑が浮かんだ。
「これは、妃殿下とは思えぬご質問ですな。今現在、この大陸で、あなたの動向以上に注目しなければならない事柄がありましょうか? あなたがオルムターナにいるお母君を説得できるかどうか、あなたが今後どこに行くか、あなたが生きるか死ぬかで、この大陸の行く末は大きく変わる」
アーゼンは警戒を解かない小柄なレニの姿を眺めて、半ば独り言のように言った。
「国王陛下は、また随分思い切ったことをなされた。あなたを生かして自由にされるとは」
アーゼンの口許が、皮肉な笑いでわずかに歪んだ。
「美しい人形を譲ってもらったせめてもの礼、といったところですかな?」
次の瞬間、魔術を纏うことで固く造られたレニの手刀が凄まじい速さで、アーゼンの喉元を狙った。
普通の人間ならば、喉の骨への衝撃で息を詰まらせるか、打ち所が悪ければ骨が砕けて呼吸が止まってもおかしくない。
レニの動きにはそうなっても構わないという、暗い気迫がこもっていた。
しかしレニの肉体と魔術で作られた凶器は、アーゼンの喉を突く前に掌で防がれる。
魔術によって淡い光を帯びた手を握りしめて、アーゼンは笑った。
「素晴らしい動きだ。魔術の効果を最小限に抑えることで、出力の速度を高める。無駄も躊躇いもない。しかし妃殿下、攻撃する時は対象に意識を向ければ、相手に緊張という防御を取らせる。感情に任せた動きは、その感情から動きを読まれる。ゆえに禁忌である。そう学びませんでしたか?」
返答の代わりにレニは、左足を振り上げ、アーゼンの脇腹を蹴りつけようとした。
だがその前に、アーゼンがレニの手を掴んだまま腕を捻り右足を払った。重心を崩したレニの身体は一回転して床に叩きつけられる。
痛みで顔をしかめながら立ち上がるレニを、アーゼンは冷然とした眼差しで見つめた。
「余り感心しませんな。今のが実戦なら、あなたは三回死んでいる」
レニは打ちつけた腕を押さえながら立ち上がると、機械的に自分を観察しているアーゼンの瞳を見つめた。
「私を見張るように、誰かに命令されているの?」
アーゼンが依頼主の名前を言うはずがない。だが、反応から何か読み取れるかもしれない。
そう思って言った言葉だったが、意外なことにアーゼンはあっさりと答えた。
「いえ。あなたを見張っているのは私の一存です。趣味と実益を兼ねて、ですな」
「趣味……」
レニが強く眉をしかめたのも気にせず、アーゼンは言葉を続ける。普段は凪いだ海のように穏やかな口調が、よほど注意深いものでなければ気付かないほどの高揚を帯びる。
「先ほども言った通り、あなたの動きは今後の大陸の運命を左右する大事な情報です。あなたがオルムターナへ行き、太后陛下が身の振り方をお決めになるまでは、あなたの動きから目を離せる者など、この大陸にはおりますまい」
レニが黙っていると、アーゼンは独り言のように付け加えた。
「しかし、意外でしたな。真っすぐにオルムターナに向かわずに、このような街でうろうろされるとは。まるで行きたくない理由があるかのようだ」
「あなたには関係ないでしょう」
レニはカッとしたように声を荒げる。
だが、何とか自分の中の感情を鎮め、それ以上の言葉を飲み込んだ。
アーゼンが自分の感情を逆撫ですることで、情報を引き出そうとしていることがわかっていたからだ。
レニは眉を不快そうにしかめると、目についた背もたれがついた豪奢な椅子に腰を下ろした。
「騒ぎが収まるまではここにいさせてもらう。でも、あなたと話すことはないから」
「お心の強いことだ。女性は、恋を失うとそうなるそうですな」
レニは怒りと苛立ちで、ハシバミ色の瞳を燃え立たせる。どうにか視線を脇に向けると、呟くように言った。
「王宮で起こったことも、何もかも知っているんだ」
「それが私どもの生業です」
アーゼンは卓の上に置かれた杯に、葡萄酒を注ぐとレニに差し出した。
やや躊躇ったあと、レニは杯を受け取り香りをかぎ微量を口に含む。不審な点がないことを確認すると、一息に飲み干す。
舌や喉に刺すような刺激があったが、それはやがて五体を冷ます、心地いい清涼さに変わり全身に広がった。
レニが杯を置いた後もアーゼンは何事か思案していたが、やがて口を開いた。
「殿下、提案をしても宜しいでしょうか?」
レニが一瞥すると、アーゼンは恭しく頭を垂れた。
「今夜はこちらへ逗留されてはいかがでしょう。多少不便はございますが、寝所のご用意はできます。明日になれば、下街の殿下が滞在されている塾のほうへ、お送りいたしましょう」
アーゼンの言葉に、レニは半ば腰を浮かしかける。
「ソフィスの塾のことも……知っているの?」
獲物を狙う獰猛な獣のような様子で低い声を発するレニを見て、アーゼンは苦笑を浮かべた。
「妃殿下、私はならず者ではございません。必要のないことはしない。普段は一介の市民に過ぎません。むしろ、そちらのほうが私どもの本性にずっと近い」
レニは不信を込めて鼻を鳴らしたが、心の中ではアーゼンの言葉を認めざるえなかった。
「黒い血盟」の行動は、すべてにおいて「一切の無駄なく、成すべきことに持てる力を集中する」という哲学が貫かれている。
普段の彼らは、「市井に溶け込んでいる」。というより、その場所に根付いて生きている善良な普通の市民そのものだ。
レニは閉じられた窓の外の様子に耳を澄ませる。
どちらにしろ、今日はここから逃げ出すことは難しい。
オッドのことを考えると心が焦燥で支配される。だが冷静に考えれば、今はアーゼンの下に身を潜めて衛兵をやり過ごし、明日ブルグのアジトに潜入するほうが、ずっと救い出せる公算が高い。
自由を奪われ動けなくなることだけは、絶対に避けなくてはならない。
そう考えると、レニは椅子の中で身を縮めるようにして身体を休める。
「明日、陽が出る前に出て行く」
「御心のままに」
アーゼンは特に逆らうことはなく、丁寧に一礼する。そうして、奥の別の部屋へ向かった。
★次回
第157話「夜明け前の朝食」