第153話 一緒に出るんだ。
扉から十分距離を取ると、オッドはちらりとレニの顔を見下ろして言った。
「あんた、貴族の出か?」
曖昧な表情をするレニを見て、オッドは付け加えた。
「別に深い意味はない。人を指示したりとか色んなことに慣れているんだなと思っただけだ」
大広間に出たところで、二人は口をつぐんだ。
何百人という人間が行き交えそうな広大な広間には、楽団によって優美な演奏が流れ、壁際には豪華な食べ物や飲み物が所せましと並べられている。その中を色とりどりの美しい衣装を身にまとった人々が、笑いさざめきながら歩いている。
広間からは、開け放たれた戸を抜けて、美しい前庭に出られる作りになっており、そこにも食べ物がふんだんに置かれた大卓が用意されていた。
客たちは飲み物と扇を持ち、それぞれ話をしたり、空いているスペースで踊りを興じたりしている。
レニは側を通りかかった整った身なりで給仕をしている男に、恭しく頭を下げた。装いや立ち居振舞いから見て、給仕の差配を振るう立場にあるらしい。
レニの所作の見事さに、忙しそうに動いていた男は反射的に足を止める。
「見ない顔だな。臨時の雇いの者か」
「はい、給仕長さま」
「給仕長」と呼ばれ、一瞬、男の品の良い顔が笑みで崩れる。
だがすぐに表情を引き締め、軽く咳払いをした。
「手が空いているなら、庭のほうへ追加の飲み物を持っていってくれ。ご婦人たちが好まれる蜂蜜酒や果実酒が足りないようだ。杯が足りなくならないように、空いているものはすぐに下げてくれ」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げるレニを満足そうに見て、男は言った。
「そろそろ舞踏が始まる。その合間に手早くな」
男が人混みの中に消えたことを確認すると、レニはオッドに目顔で合図し、壁を沿うように迂回して庭へ向かう。
「残った花火玉は、庭に置けばいい?」
レニの言葉にオッドは無言で頷く。
庭に出たところで、音楽が一端止んだ。
舞踏が始まる合図として、ラッパが吹きならされる。男たちが意中の女性に声をかけ、手を取り広間に入っていく。
「だいたいの人が広間に行くね」
人がいなくなり閑散とした庭を見渡して、レニは言った。残っているのは舞踏に出るには年齢が高すぎる者か、人がいないうちに片付けをする使用人たちだけだ。
「二手に分かれるぞ」
二人は左右に分かれ、片付けをする振りをしながら、拳大の花火玉をテーブルの下や繁みの中に隠すように置いた。
人を殺傷するほどの威力はないとは言え、老人の側で破裂すれば何があるかわからない。
オッドも同じことを考えているようで、なるべく人気のないところに置いている。
全ての配置が終わったところで、レニとオッドは片づけるフリをしながら、庭の隅で合流した。
「レニ」
呼ばれてレニは顔を上げる。
オッドは片付けをする手を止めず、ごく低い声で言った。
「もう行け。お前なら、一人でも出られるだろ」
「え?」
「騒ぎが起こったら、逃げるのが難しくなる。今のうちに出て、ルカたちのところに戻れ」
レニは顔を上げようとしないオッドの金褐色の髪を、ジッと見つめる。
「オッドは?」
「俺は最後まで見届けてから行く」
「最初から、そのつもりだったの?」
レニの言葉に、オッドは何も答えなかった。
だが自分に向けられるレニの眼差しの強さに根負けしたように、独り言のように付け加える。
「ブルグは、俺がここで捕まるならそれでいいと思っている。トールやグランが、このあと協力するかわからない」
「そんな……」
絶句するレニを見て、オッドはふと表情を緩めた。笑ったのだ、とレニは一瞬後に気付く。
笑うといつもは何十年も生きたかのような老成した雰囲気が消え、その顔は年相応の少年らしいものに見えた。
「俺一人じゃ、ここまでうまくはやれなかった。お前、凄いな」
「オッド……」
「ありがとな」
話は終わりだ、と言いたげに背けられたオッドの横顔を、レニは凝視する。
一瞬後、レニは唇を引き結ぶと、オッドの手首を強い力で掴んだ。
驚いたように顔を上げたオッドに、レニは低い声で囁く。
「ソフィスとルカに約束したんだ、オッドのことを守るって。だから最後まで一緒にいるよ。ルカのところにオッドを連れて帰るから」
オッドは口を開きかけたが、真っ直ぐなレニの視線に圧されたように口を閉じる。それからわざとのような素っ気なさで言った。
「どうなっても知らないぞ」
「大丈夫」
そうレニが頷いた瞬間、
「おい」
不意に声がかけられる。
二人が振り返ると、給仕服姿の大柄な男が立っていた。忙しいせいか、苛立ちが表情から滲み出ている。
「お前ら、何をサボっているんだ。八の刻までもう少しだぞ。とっととかたせ」
「申し訳ありません」
レニは顔を見せないように従順に頭を下げる。
男は今にも舌打ちしそうな顔で踵を返しかけた。だが、ふと気づいたように、二人の姿を眺めた。
「見ない顔だな」
「臨時の雇いです」
レニは顔を背けながら、言葉少なめに言った。
男の顔は不審げなままだった。
「臨時の雇い? 臨時の者は、本館には入れないはずだが」
「……思ったより忙しいので、手伝いに入るよう申し付かりました。通行許可証もいただいております」
「ふむ」
男は納得したように頷きながら、なおもレニとオッドの姿を見つめる。
それからふと思いついたように言った。
「どこの所属だ?」
「厨房です」
「上役は?」
問われてレニは言葉に詰まる。
もちろん、厨房にいる人間の名前など知らない。
レニが口ごもるのを見て、男は初めて疑念が浮かんだように瞳を細めた。
「どうした? 上役の名前は?」
「それは……」
男に詰め寄られて、レニが頬を強張らせた瞬間、
「申し訳ありません、あちらのお客様がお困りのようです」
不意にオッドが頭を下げて、庭の中ほどに歩き出す素振りを見せる。
男は反射的に振り返り、慌てたように言った。
「トラス卿か。ま、待て、私が行く。粗相があってはならん」
庭の中ほどで辺りを見回している年配の客のほうへ、男は立ち去った。
男が遠く離れたのを見て、レニは肩から力を抜き、空を仰いで息を吐き出した。
「はあぁ~、助かったあ」
「余りうろうろしていると危ないな。花火玉が破裂したらすぐに出るぞ」
「うん」
レニは頷いて、オッドに従うように木陰に移動した。本館から、優雅な音楽が聞こえてくる。
「オッド」
レニは、前を行くオッドの痩せた背中に声をかけた。
「ありがと」
オッドは一瞬横顔を見せたあと、素っ気なく言った。
「一緒にここから出るんだろ」
「うん」
レニは少年の背中を見て笑った。
二人が茂みに身を隠した瞬間に、流れる音楽の音色が華やかな、テンポの早いものからゆったりとしたものに変わる。それと同時に、人の話し声が聞こえ出した。
「中休みに入ったね」
舞踏がひと段落し、飲み物や食べ物を取ったり、相手を代えたりする合間の時間だ。
「この辺りに、確かひとつ置いたけど」
レニの言葉につられたようにオッドは、目線を辺りに走らせる。
その瞬間、息をのんで立ち上がる。
「どうしたの?」
「レニ! 伏せろ!」
不意にオッドは叫び、小柄なレニの体を守るようにその上に覆い被さった。
自分の盾になったオッドの身体の向こう側に、目を焼くような閃光が広がり、次の瞬間、すさまじい爆音が鳴り響いた。
★次回
第154話「逃走」