第150話 心にいつもいる。
11.
オッドと別れたあと、レニはソフィスの塾に戻った。
滅茶苦茶にされた教室内の片付けと、ソフィスが子供たちに夕飯を振る舞うのを手伝う。ようやくソフィスとルカの三人になった時は、夜はすっかり深まっていた。
「オッドという子は、そんなことをやらされているのか」
ソフィスは痛ましげな口調で言う。
椅子の上で胡坐をかいているルカが、独り言のように言った。
「本当は俺たち、ここらにいるガキは全員、ブルグの子飼いにされているんだけど、オッドが全部引き受けてくれているんだ。オッドはボスに気に入られているから、ブルグも強くは出られねえからさ」
足首を掴んでいるルカの手に、強い力がこもる。
「俺たち、オッドのおかげでブルグたちの言いなりにならずに済んでいるんだ。あいつだけを、あそこに置き去りにして……っ」
激情で小刻みに震えるルカの肩に、ソフィスが皺の寄った手を置く。
「そんな風に考えることはない。オッドは、君や他の子たちに、自分のぶんまで勉強して、ちゃんと自分のしたいことをして生きて欲しいと言ったのだろう?」
「そうだけど……でも、あいつだって本当はそうしたいんだ」
ルカは顔を上げる。
普段は年に似合わない皮肉な光が浮かぶ瞳は、必死な思いと涙で潤んでいた。
「先生、何とかならねえ? オッドはこのままじゃあ、どんどん悪いほうに引きずりこまれちまう。利用されて殺されるか……オッドじゃないものになっちうまうよ」
縋りつくような眼差しを向けてくるルカの背中を、ソフィスは優しく叩く。
「大丈夫だ。オッドのことは、私に任せておきなさい」
レニはその様子を見ながら、ルカが席を外し、ソフィスと二人きりになった時に話したことを思い出す。
「下町の法律については、私からもシャルケ様に話してみよう。シャルケ様は、物の道理が分かっているかただ。判って下さるとは思うが……」
言葉とは裏腹に、ソフィスの表情は冴えなかった。
シャルケの一存で話が決まるならば、恐らくこの話は問題になるまでもなく立ち消えていただろう。オッドのボスであるテインシィの後ろ盾になり、この話を進めている勢力がいる。
その勢力からの圧力を、シャルケが領主の権限でかろうじて抑えつけているのが実情なのではないか。
レニの話を聞いて、ソフィスも恐らくその構図を察したのだろう。
だがそれでも、領主のシャルケが強い意思ではねつければ、相手も諦めるかもしれない。
とにかく自分たちが出来ることをやるしかない。
話を終えると、レニとルカはソフィスに挨拶をし、塾から出た。
暗く埃っぽい壁に挟まれた夜の路地を、二人は並んで歩く。家々の灯りがようやく消え始める時刻で、遠くからは酔っ払いの声や子供たちを寝かしつける母親の声が聞こえてくる。
「オッドからは、この街で生きていくための色んなことを教わったよ。俺にとっては、兄貴っていうかさ」
照れ臭さを誤魔化すためか、ルカは殊更素っ気ない口調でそう言った。
「オッドは何でも出来るんだ。頭も切れるし、喧嘩も強いし、度胸もある。ガキのころ、俺たちのことを抑えつけていた奴らにも、平気で立ち向かっていた。ちっとも威張らねえし、他の奴らみたいに子分をぞろぞろ引き連れたりもしねえし。本当に……すげえ奴なんだ」
ルカの声の中には、本人が抑えようとしても抑えきれない憧憬の響きがあった。
あいつは、俺にとってヒーローなんだ。
言葉にならない、ルカのそんな声がレニの心に届いた。
ルカの心の中には、いつもオッドがいる。
レニの心の中に、いつもリオがいるように。
ルカは薄汚れた路地の狭い隙間から、頭上にわずかに見える星空を眺める。そのままの姿勢で言った。
「レニ……オッドのこと」
「うん?」
「オッドのこと……頼むな」
ルカは小さな声で呟く。
「大人は……先生みたいな人もいるけど、俺たちのことを利用することしか考えてない奴らばっかりだから。グランやトールは、ブルグに尻尾を振っているだけだし」
「うん」
「俺もさ、大人になったら、先生みたいに自分の出来ることをチビたちにしてやりたいんだ。オッドのことも守ってやりたいけど……今は、まだガキだしな」
夜の薄闇の中に淡く浮かぶルカの横顔を見つめた。自分には手が届かない、遥か遠くのものを見ているように見えた。
レニは言った。
「大丈夫だよ、ルカ。ルカのぶんまで、私がオッドを守るから」
ルカは目に光るものを誤魔化すように顔を伏せてから、「うん」と「ああ」の間のような声を出して頷いた。
★次回
第151話「館への潜入・1」