第135話 許して欲しい。
「お前が一方的に、その相手に想いを寄せている……?」
「はい」
リオはイリアスの足元に膝まづいた。
幾度となく自分の体を愛でたその手を取り、祈るように白い額に強く押し当てる。
「恩知らずの卑しい奴隷、道理の分からぬ下賎の者、そう思われて当然でございます。これほど深いお情けをいただきながら、私はそれを忘れたのですから。どうか気が済むまで思う存分蔑み、どうとなりと罰して下さい。ですがひとつだけ、陛下のお慈悲にすがらせていただきとうございます。私を罰し、少しでもお気持ちが晴れ、腹立ちが収まりましたら、お側を離れることを許していただきたいのです」
「離れる……?」
イリアスは顔を上げた。
何か信じがたいものを見るような眼差しで、リオの整った美しい顔を見つめる。
「お前が……私から?」
リオはイリアスの顔を真っ直ぐに見つめ返し、静かに頷いた。
「どうか、どうかお許しを。陛下」
イリアスは手を伸ばし、その形を確かめるようにリオの頬を撫でた。
「何故……」
「イリアスさま」
リオは顔を上げ、挑むようにイリアスの顔を見上げた。
磁器のように滑らかな白い頬はほんのりと赤みを帯びて上気し、緑色の色彩を帯びた瞳には強い光が宿っている。
「私は、そのお方を愛しております。この先ずっと、その方のお側にいたいのです」
リオはイリアスではない、何かもっと遠くにいる者に訴えるように言った。
「私自身が、そう望んでいるのです」
イリアスは、まるで初めて見るかのように、長年の愛人の顔を長い時間をかけて見つめた。
それは確かにイリアスが長い間、愛し寄り添ってきた寵姫の顔であり、それでいながら表情に宿った何かのせいでまったく別人のようにも見えた。
怒りを露にするか、悲しみを訴えるか、理を説くか、様々な感情が浮かんたが、動かぬ巌のようなリオの姿を見ているうちに、全てはイリアスの中で消え去った。
長い時間をかけて胸の痛みに耐えたあと、イリアスはポツリと呟いた。
「お前の中では、もう決まっているのだな。私と別れ、その者の下に行くと……」
イリアスの前に膝まづき、その手をとったまま、リオは頭を下げる。
「どうか、お許しを。陛下」
「許せぬ」
鋭い言葉に打たれて、リオはハッとして顔を上げる。背けられたイリアスの顔から、圧し殺された声が漏れた。
「許すことは出来ない……だが、いくらそう言っても、お前の心はもうここにはないのだろう。私が許しても許さなくとも同じではないか」
「同じ、ではございません」
感情を殺そうとするイリアスの手を、リオは訴えかけるように揺さぶる。
「陛下のお許しが得られないならば、その御心のままに私を罰していただきとうございます。私が陛下に捧げた感謝や忠誠、お慕いする気持ちは、陛下が私に求められたものとは異なるかもしれません。しかし、何の嘘偽りもございませんでした。私は……あなたさまの寵姫である私は、陛下のみに心を捧げております。ですが……」
不意に。
リオは強い力で抱き寄せられた。
慣れ親しんだ、優雅な外見からは意外なほどたくましい胸の中に収まりながら、リオは自分を抱きすくめる腕が小刻みに震えていることに気付いた。
「……もういい」
「陛下……」
「わかっていたのだ。ここにお前が戻って来た時から、お前の心はここにいないと」
リオの体を自分の身の内に閉じ込めようとするかのように、イリアスは腕に力をこめる。
「わかっていた……。それなのに、お前を無理矢理縛りつけた……」
わかっていた。
ただそれを認めることが出来なかった。
以前の関係を、心を、確認するように何度も逢瀬を重ねた。イリアスから求められれば、リオが拒めないことを知りながら。
自分の心の醜さを自覚しながら、それでも細い糸のような可能性に縋ってしまう。
自分は誇り高い高潔な人間などではない、卑しい心を持つただの男なのだ。
そう教えたのは、残虐な支配者の苛烈さではない。
心の底から愛した美しい人への恋心だった。
「許してくれ、寵姫」
イリアスの唇から漏れ出た囁きに、リオは強く首を振る。
「イリアスさま、私のほうこそお許し下さい。あなたさまが愛して下さった、『寵姫』がいなくなることを」
イリアスは力を緩め、腕の中にいるリオの整った美しい顔を見下ろす。
透き通るように白い頬に僅かに朱が射し、微かな興奮で緑色の色彩を帯びた瞳が輝く。その中に宿る、どこか誇らしげな光を、イリアスは魅せられたように見つめた。
リオは淡く色づいた唇をほころばせて、弾む声で呟いた。
「そのかたが、私に名を下さったのです。『リオ』と」
瞬間、イリアスは空色の瞳を大きく見開いた。
★次回
第136話「私の幸せ」