第133話 暗い汚泥の中で。
22.
王都に戻り、小月宮に移されてから、リオはレニが迎えに来る日を焦がれるように待ち望んでいた。
「寵姫」にとって、イリアスは存在の一部がつながった双子だった。イリアスと心を分け合うことで、かろうじてグラーシアの暗く苛烈な支配から心を守ることが出来た。
イリアスがいなければ、自分の心はとっくにグラーシアによって喰い尽くされ、魂のない虚ろな抜け殻になっていただろう。
感謝の証として、その愛情を受け入れ「寵姫」として一生仕えてもいい。
そう思っていた。
だが、レニから手を差しのべられた時、気付いてしまった。存在しないと思っていた自分の心が、体の奥底にひっそりと息づいていたことに。
(寵姫さま、って外では呼べないよね)
(リオ、って呼んでいい?)
人から買われ、愛でられ、弄ばれるだけの「寵姫」ではない。
レニと一緒に旅をしたいと望み、本を読むことと学ぶことが好きで、学府に行く夢を見て、何より心の底からレニのことを愛し守りたいと望む「リオ」として、自分はあの瞬間生まれたのだ。
(レニさま……)
全ての事が片付けば、レニが迎えに来てくれる。
また一緒に旅に出ることが出来る。
繰り返し自分にそう言い聞かせ心を宥めることで、何ひとつ状況が変わらないように見える日々をどうにか耐えて過ごすことが出来た。
レニの迎えを待ちわびるだけの時間が無為だと感じないように、旅にでるための荷造りをしたり、必要な知識を文献で調べたり、これまでの旅で、ないと不自由だったものを取り寄せたりした。
自分の身は自分で守れるように、護身術も学ぼうとした。だが侍女の目を盗んで兵士にようやく会えても、とんでもないととばかりに断られ、呼ばれた侍女たちに部屋に連れ戻された。
日が経つにつれ、レニに会いたいと思う気持ちは、リオの中で抑えがたく膨れ上がっていった。
ほんの少しでいいから顔を合わせて、約束を交わしたい。
何度か小月宮を抜け出し、後宮か皇女宮にいるはずのレニに会いに行こうとした。
そのたびに連れ戻され、連れ戻されるたびに監視が厳しくなった。
国王に寵愛されているとはいえ、寵姫の身分は奴隷だ。宮廷内の誰かから秘密裏に関係を強いられれば、拒むことは出来ない。
過去に何度かそういうことがあり、付き人たちが責任を問われている。
グラーシアが「持ち主」であったころは、付き人たちへの罰は苛烈を極めた。その時の名残か、付き人たちは寵姫の行方が知れなくなったり、その身に何か起こることに恐怖を感じていた。
イリアスは、グラーシアとは比べ物にならないくらい寛大な主人だが、それでもリオが行方不明になった時は、主要な侍女や警備の責任者は小月宮から去ることになった。
脱け出すたびに、イリアスはリオに関係を求めた。
まるで自分の身を鎖に変えてリオを縛りつけようとしているかのように、普段の彼からは想像がつかないほど行為は激しかった。
愛撫は体の中のものを引きずり出そうとするかのように荒々しく、体への攻めは罰を与えるための責め苦に思えた。だが行為によって雄弁に怒りと不信を表しながら、イリアスはひと言もリオの心の中にあるものについて問いただそうとはしなかった。
闇の中で二人きりになると無慈悲な獣へと変貌するイリアスを見ていると、全てを悟っているのではないかと思うことがある。
この人は、気付いているのだろうか? 自分の心に己以外の誰かがいることを。それが誰なのかを。
だから、これほど冷ややかな怒りのこもった眼差しで自分を射るのだろうか。
イリアスが夜の寝所以外の場所で、同じ眼差しを一度だけしたことがあった。
レニが小月宮で宰相ヴァレンと会談した後、イリアスはリオに、自分の正妃であるレニに忠誠を誓うように言った。
イリアスの愛人としての姿をレニの目にさらされるだけでも耐え難いのに、目の前に引き出され、イリアスの妻に対して忠誠を誓う。
そんなことをするくらいなら、今すぐ全身を引き裂かれたほうがましだ。
イリアスの言動には、リオに何かを強いるようなものは一切含まれていなかった。いつものように愛情に満ちた柔らかさで、必死に抗うリオを説得しようとした。
だが強く拒絶した時、優しく忠実な愛人の仮面に僅かにヒビが入り、その隙間からイリアスの内奥に潜むものが漏れ出た。
その暗く冷たい怒りは、リオの身体を荒々しく押さえつけて衣服を引きはがし、奴隷の刻印をむき出しにする。裸体のまま抵抗できないように縛り上げられ、否応なくレニの前に引きずり出される。
(それが寵姫さまの望みなのですか? ここで、イリアス様に守られて、一緒に過ごすことが?)
(寵姫さまは、それだけを望んでいるの?)
言葉に出せなくとも、レニはわかってくれているはずだ、自分の本心を。
鎖に縛られた奴隷として引きずり出され、項垂れながらも、リオは必死にそう考える。
旅をしていた間、自分たちはあれほど近くにいて、常に存在を寄り添わせていたのだから。
だがそう思いながらも。
離れていると、旅に出ていた時は考えないようにしていた疑問がリオの中にも浮かんでくる。
イリアスは、レニに触れたことがあるのだろうか……?
宮廷に帰ってからは……?
自分の前にいない時は、レニに会っているのだろうか?
意思の力で振り払おうとしても振り払うことが出来ない。抑えようとすればするほど、疑問はむしろ大きく膨み全身を狂おしいほど苛む。
そんなことは想像したくないのに。
考えたくないのに。
イリアスに抱かれるたびに、レニの姿が浮かんできてしまう。
イリアスの指が辿った箇所から、快感を呼び起こされると、レニのあの小柄で柔らかな体もこういう風に触れられているのか、触れられた瞬間、どんな風にこの愛撫に応え、どんな風にあの可愛らしい声で鳴くのか想像してしまう。
(レニさま……)
自分の腕の中で顔を赤らめて、口づけや指の動きに、恥ずかしげに身をよじらせるレニの姿が思い浮かぶ。
「どうしたのだ、寵姫」
暗い帳の中で、吐息のようなかすれた声で囁かれる。
「今日は……随分、興奮している」
レニはイリアスに抱かれたのかどうか。
知りたくて気が狂いそうだった。
たが、もしそうだと聞いたら。
その瞬間に、きっと狂ってしまう。
何故かそれを待ち望んでいるような気さえする。
レニの夫の求めに応じて、激しく体を震わせ、まるで苦痛を感じているかのように快楽を訴える。
そうしながら心の中で問い続ける。
イリアス様。
あなたはあなたの妻に対しても、こうやって触れるのですか?
こうやって愛を囁き、体を愛でるのですか?
体の奥底からドロドロとした暗い情欲が尽きることなく湧き出し、体を溶かしていく。
自分を見下ろす愛しげな、だが残酷な空色の瞳に向かって、リオは声なき声で訴える。
教えてください……。
あなたは、どうやって俺のレニを抱くのですか?
そうして暗い汚泥の中を這うように日々を過ごすうちに、ようやくその日が来た。
イリアスが一命を取りとめ、政務に復帰出来るほど体が回復した。そう公表し、青月宮に戻る日が……。
レニとリオが宮廷に戻ってから、ふた月が過ぎていた。
★次回
第134話「何故だ?」