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第132話 ありがとう、さようなら。

「あなたがもし、王妃であるエウレニア・ソル・グラーシアの名前をこの先一生名乗らず、捨て去っても構わない、と言うのであれば、ここにはもう戻らなくていい。あなたの消息が聞こえなくなってしばらく経ったら、ジヴベール塔に収監された王妃エウレニア・ソル・グラーシアは、病で此の世を去るだろう」

「陛下……」

「エリュアに行って欲しい、というのもあくまで頼みごとだ。私はあなたに助けを求めているが、聞いてくれるかどうかはあなたの自由だ。あなたがもし頼みを聞いてくれなくとも、恨んだりはしない」


 驚きの余り言葉を発することが出来ずにいるレニに向かって、イリアスは小さく笑いかける。友人と悪戯の相談をする子供のような表情だった。


「あなたの心優しき叔父上は、あなたを解放することに随分反対していたが。あなたが『死んだ』あと、新たな正妃はドラグレイヤにつながる者からもらうと言えば、説得できるだろう」


 ヴァレンは何も言わなかった、とイリアスは思い出したように言った。


「あなたと駆け引きするのは楽しかった、久しぶりにワクワクしたと言っていた。引退したらレグナドルトに戻るつもりだから、旅の話をしに寄って欲しいと」


 不意にイリアスは立ち上がり、まだ呆然としているレニの顔を真っすぐに見つめる。


「あなたをこの宮廷から解放するのは、あなたの忠義を信じることが出来ず、報いることが出来なかった私のせめてもの償いだ」


 イリアスは戸惑うレニの前に跪き、敬意を込めてその小さな手を取る。


「あなたは私とこの国のために、もう十分以上のことをしてくれた。今度は私があなたの心に応える番だ」


 レニは自分の前に項垂れた、イリアスの金色の髪をジッと見つめた。そうして、微かに頷いた

 イリアスは顔を上げて、レニの顔を真っ直ぐに見上げる。


「これまで、あなたが王国に差し出してくれた献身と忠義に感謝し、その証としてここに永遠とわの友情を誓う」


 頭を垂れ、柔らかい口調で囁く。


「わが友、エウレニア・ソル・グラーシア、どうかあなたの行く先々にザンムの神の祝福があらんことを」


 誓約の言葉と共に手に口づけされて、レニは僅かに顔を赤くした。

 何と言っていいかわからず視線を彷徨わせたあと、赤い顔のまま呟く。


「イリアス様って、気障きざですよね」

「気障?」


 不意に言われて、イリアスは心外そうにレニの手から口を離した。


「誰でもやることをしているだけだが、どこが気障なんだ?」

「そういうことをすると、女の人には誤解されそう」

「誤解するぶんには、向こうの勝手だからな」


 平然とした顔で言われて、レニは目を丸くした。

 今まで「悲運に耐える高潔な貴公子」としてしか見ていなかった自分の夫が、高慢で嫌味にさえ見える自信家な部分があり、そういうところも愛すべきものとして許されるような奇妙な愛嬌と人懐こさがある人物だと、別れ間際になって初めて気づいたのだ。


(私も……あなたのことを、何も知らなかった)


 もしかしたら、リオはこの人のこういう部分を愛したのかもしれない。

 リオのことを思い浮かべた瞬間、胸に強い痛みが走り、レニは俯く。その痛みは余りに強く、物理的に心を絞られ、切り刻まれているようにすら感じられた。


「レニどの?」


 怪訝そうに声をかけられ、レニは俯いたまま呟いた。 


「陛下、寵姫さまのことを大切にしてあげて下さい」


 唐突に話が変わり、レニの声に涙が滲んでいたにもかかわらず、イリアスは驚いた様子を見せなかった。涙が浮かぶレニの顔から何かを読み取ろうとするかのように、ジッと見つめる。

 レニは泣きながら呟いた。


「お願いです、陛下。他の女の人にモテても、新しいお妃さまが来ても、寵姫さまのことを愛して……ずっと大切にして下さい……」


 泣きながら「お願いします」と繰り返すレニを見つめたまま、イリアスは言った。


「不思議だな。寵姫も同じことを私に言った」


 顔を上げたレニに向かって、イリアスは奇妙に感情の抜け落ちた声で言った。


「自分だけを愛して欲しい、と」


 レニは涙に濡れたハシバミ色の瞳を、大きく見開いた。

 頭の中に、自分の前に出てくることを嫌がるリオの姿が浮かんだ。

 自分の前に出てきたあと、決して顔を見ようとはせず、生きながら身を切り刻まれているかのように苦痛に満ちた表情で震えていた姿を思い浮かべる。


(リオ……)


 レニは、先日見た、リオがイリアスの傍らに寄り添う姿を思い出す。神話の戦の神とその伴侶たる美姫のような二人の間には、長い年月をかけて作られた確かな絆が見えた。

 リオは「寵姫」に戻ったのだ。イリアスを愛し、その側に寄り添う存在に。

 自分は、リオにとってイリアスの愛情を奪う存在でしかなくなってしまったのだ。


(私はそんなことしないよ。だって、私はリオのことが……)

 

 リオのことが大好きだったから。

 この先もずっと……。

 どれほど辛くとも、リオが幸せならそれが自分にとっての幸せなのだ。

 

 せめてその気持ちだけでも伝えたかった。


「レニどの」


 躊躇いがちにイリアスは口を開いた。


「寵姫に何か伝えたいことがあれば、伝えるが」

「いえ……」


 レニは手の甲で、ゴシゴシと顔をこすった。涙を振り払うと顔を上げる。

 そうして、イリアスの顔を見上げて言った。


「私も……私も、イリアスと寵姫さまの幸せをいつも祈っています」


 レニは、胸にソッと手を当てて囁く。


「この先、どこにいても……」



21.


 そうして翌朝、レニはイリアスが伴ってきた侍女の振りをして塔から外へ出た。

 イリアスが用意した馬を、南へ向かって駆る。

 王都から少し離れた小高い丘の上で、レニは馬の脚を止めて、背後を振り返った。

 丘の上からは、城壁に囲まれた宮廷の全景が見えた。宮廷の敷地の端に、親指の先ほどの小ささで、白亜の美しい建物……小月宮が見える。


 レニはその建物をジッと見つめた。


(リオ、ありがとう。今まで一緒にいてくれて)


 レニは瞳を閉じて、心の中で囁いた。


(……さようなら)


 そうして何かをこらえるように唇を引き結ぶと、南に視線を向けて馬の脇腹を蹴った。


★次回

第133話「暗い汚泥の中で。」

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