第130話 イリアスの頼み
「どうしたのだ?」
侍女に下がるように伝えて扉を閉めたイリアスは、ガチガチに緊張しているレニを見て怪訝そうな顔をする。
自分の部屋にいるかのようなゆったりとした態度で椅子に座り、レニにも座るように勧める。
レニは全身の筋肉が凝り固まったようなぎこちない動きで、長椅子に腰かけた。
「レニどの」
「ふぁっ、ふぁい!」
極度の緊張のために呼ばれた瞬間に体を硬直させ、言葉すらうまく発せないレニを、イリアスは瞳を細めて観察した。
ひどく不本意そうな顔をして何か言いかけたが、思い直したように瞳を煌めかせた。
多くの女性たちの心を蕩かせ、虜にしてきただろうことが容易に想像がつく優しく甘い笑みを作り、レニを見つめる。
「何か不自由なことはないか? 我が妃よ」
「えっ……、ぜっぜんぜん! まったく、何も! 何ひとつありません! か、快適です、と、とっても!」
レニは体の前でこれ以上はないというほど、激しく手を振る。
「そうか」
イリアスは柔らかく微笑み、わずかに身を乗り出した。
「あなたがこの塔で一人でどのように過ごしているのかと考えると、心配でいても立ってもいられなくてな。……来てしまった」
「はっ? は、はい! ありがとうございます!」
背筋をピンと伸ばして叫ぶレニの顔から、イリアスは一瞬視線を外す。それからもう一度、悩ましげな眼差しを向ける。
「何故だろう? あなたのことが、ずっと心から離れない。こんなにあなたのことを考えてしまうのは、あなたが私の妃だからだろうか?」
「い、いえ……そっ、そのう、ど、どうなん、でしょう?」
レニはそわそわしながら、辺りを見回す。何故か寝室に続く扉が開いていることが気になってしまい、慌てて視線を前に戻す。
瞬間、ギョッとしてのけぞりそうになる。
いつの間にかイリアスが長椅子の隣りに座わり、背もたれに片腕をもたせかけて、レニの顔を見つめていた。
「最近は、あなたの夢ばかり見る」
「はっ? はあ……っ?」
「眠りから覚めると、あなたはいつもいなくなってしまう」
それはそうだろう、夢なのだから。
頭の中にちらりと浮かんだそんな考えは、イリアスの手が頬に伸びてきたため、一瞬で頭から吹き飛んだ。
イリアスは、吐息するような微かな声で囁く。
「ずっと触れていれば、消えないで私のそばにいてくれるか?」
「へ、へ、陛下……。そ、そのっ……」
イリアスに優しく頬を撫でられ、レニはへどもどしながら下を向く。
イリアスはレニの表情を追うように顔を覗き込んだ。
「何故、私はあなたのことばかりを考えてしまうのだろう?」
さ、さあ? と言いかけて、そう言えば自分もリオのことばかりを考えてしまう、何故だろう? と思う。
しかし、少しずつ近づいてくるイリアスの切なげな表情が、すぐに心を現実に引き戻した。
「あ、あのっ……! 陛下、わ、私……」
顔を赤くしたり青くしたりするレニの様子には一向に構わず、イリアスはレニの赤い髪を優しくすき、指の背で顔の輪郭をたどる。
「今夜はそれを、あなたに聞きに来たのだ。一体なぜ、あなたは私の心を捕らえて離してくれないのか、なぜあなたはそんなに残酷なのか、を」
「ふ、ふ、ふえっ? ……ざ、ざんこ?」
「教えてくれないか……レニ」
イリアスは頬を撫でていた指を、目を白黒させているレニの唇に滑らせる。
そうしてゆっくりと、顔を近づけようとした瞬間、レニが叫んだ。
「へ、へいっ、陛下!! わた……わたっ、私! まだ、そのっ! 心の準備が……っ!」
レニは長椅子の上から転げるようにして立ち上がり、赤い頭を深々と下げる。
「ごっ、ごめんなさいっ……! 陛下! 私、私……っ、陛下のことが……い、嫌なわけではないっ、ないと思うっ、思うの、ですが……っ! その! そういうのは、まだ……っ」
イリアスはゆっくりと体を起こし、ジッとレニの顔を眺める。
「あなたは、王国と大陸の平和のためなら何事も私の言葉に従う、と言っていたと思うが」
「……は、はい」
「あなたがそう言っていたのは、私の記憶違いだろうか?」
「いっ、いえ……記憶違い、では……」
レニはへどもどしながら、口のなかで呟く。
イリアスはそっぽを向いて言った。
「重い身分に生まれた者には、持って生まれた責任がある、とも言っていたな」
レニは顔を赤らめて、頭を抱える。
その覚悟はあり、本心から出た言葉だが……改めて繰り返されるととてつもなく恥ずかしい。
普段ならば、酔払っていても口から出せない台詞だ。しばらくはイリアスに会うこともないだろうと思い、気持ちが盛り上がってつい口走ってしまった。
イリアスはそんなレニの心境に気付いているかのように、殊更殊勝な口調で言う。
「レニどのがそんなに健気に決意しているのであれば、と思ってここに来たのだ。まさか、当分私に会わないからちょっと景気のいいことを言っておこうと思っただけ、などと、そんなわけはないだろうと思ってな」
「すっ、すみません!」
そんなわけだったんです! とほとんど叫ぶように言いかけて、レニはふと視界の隅でイリアスが体を小刻みに震わせていることに気付いた。
イリアスはレニの眼差しに気付くと、こらえきれなくなったように噴き出す。
レニは呆気にとられて、声を上げて笑い出したイリアスの姿を眺めた。
「へっ、陛下……わ、私をからかっていたのですかっ」
ひどいっ、と顔を真っ赤にして叫ぶレニの前で、イリアスは機嫌を損ねたようにふいっと視線を逸らす。
「あなたが『夜這いでもしに来たんじゃないだろうな? こっちには、そんな気はさらさらないのに』という目で人をみるからだ」
「そ、そんなことは……」
慌てて否定しようとしたレニのほうへ、イリアスは向き直った。
「レニどの、私はこう見えて女性に不自由したことがない」
「……はあ」
「端的に言ってモテる。とてもモテる。あなたは知らないかもしれないが。その気のない女性に、無理に相手にしてもらう必要などない」
まだ顔を赤らめてへどもどしているレニを、イリアスは不満そうな顔つきで見る。
「もし私があなたと結ばれたいと思ったら、あなたのほうからそうなりたいと言わせてみせる。下々の言葉で言うなら、自分の力で惚れさせる。それくらいの自信はある」
レニは呆気に取られたように、イリアスの拗ねたような横顔を眺めた。
もし自分がこれほど深くリオに恋をしていなければ、政略結婚の相手がイリアスであったことを、とてつもない幸運のように感じたかもしれない。
この若い国王に人が強く惹き付けられるのは、恵まれた容貌のためでも国王という地位によってでも、本人が自負している洗練された物腰や女性の扱いの巧みさのせいでもない。
時折見せる、子供のような天真爛漫な無邪気さと意固地さのためだろう。
「何だ? 何がおかしい?」
思わず笑みをこぼしたレニを見て、イリアスは不本意そうに言う。
だが、すぐにこらえきれなくなったように、自分も笑顔を浮かべた。
ひとしきり笑った後、独り言のように呟く。
「あなたは不思議な人だ。ヴァレンやドラグレイヤ公のような大の男とも渡り合うのに、突然普通の娘のようになる。あなたと恋をするのは、なかなか楽しそうだ。あのまま押し倒しても良かったな……冗談だ、冗談」
軽口を叩いたイリアスは、レニが笑顔をひきつらせたのを見て、真顔で手を振る。
それから、子供のように無邪気な若者の顔から、一瞬にして冷厳な風格を持つ王の顔になる。
イリアスは居ずまいを正して、レニの顔を見つめた。
「私がここに来たのは、あなたに頼みたいことがあるからだ」
「頼み?」
「あなたが私に頼みごとをしたように、私もあなたに頼みがある」
★次回
第131話「イリアスの頼み・2」