第129話 塔の夜
20.
塔の中は、レニが想像したよりも、遥かに居心地良くしつらえられていた。揃えられた調度も、多少年期は入っているものの質のいいものばかりだった。
内部は隅から隅まで磨き抜かれて、心を和ますような花や美術品も飾られており、少なくとも中で暮らすぶんには、幽閉された身の上だということを常に思い出さずにいられない、ということはなさそうだった。
食事も皇女宮にいた頃と変わらず豪勢だったが、食欲が湧かなかった。
旅の間はあれほど旺盛だった食欲は、宮廷に戻ると同時に跡形もなく消えてしまった。
旅をしていた時の食事は、宮廷で並べられる料理とは比べ物にならないくらい質素な料理が多かった。だが、自分でも呆れるくらい、いくら食べても満腹にはならず、何を食べても美味しかった。
そしていつもリオが側にいて、自分が食べることは後回しにして何くれと世話を焼いてくれた。
(リオ……)
夜、就寝のための準備が整い、侍女が下がると淡い終夜灯がひとつ灯るだけの部屋に一人になる。窓の外を見ると、暗く染まった湖面の先には、ぼんやりと青白い光を放つ青月宮が見えた。
リオは、あの光の近くにいるはずだ。
今ごろ、イリアスと一緒に過ごしているのだろうか。
レニは、桟を握りしめた両手の上に顔を伏せる。
胸が締めつけられたように苦しかった。
リオは元々、イリアスの寵姫だったのだ。
仕方ないのだ、諦めなければ。
いくら言い聞かせても、リオへの想いや面影が消え去ることはなかった。
リオの声や温もりが、自分という存在に染み付いてしまったかのように、何を見ても何をしていてもリオのことばかりが思い出される。
一目でいいから会いたい。
リオを恋うるこの気持ちに、どこにも行き場がなくとも。
「妃殿下」
不意に名前を呼ばれて、レニは慌てて目元を拭い、背後を振り返る。広い部屋の入り口に、先ほど退出したばかりの侍女がかしこまっている姿がぼんやりと見えた。
「どうしたの?」
「陛下がお見えです」
侍女の口調は作法通り、個人的な感情が抑制された柔らかなものだったが、それでもわずかな困惑が滲んでいる。
宮廷では有りうべからず想定外の事態だ。
そう言いたげだった。
それ以上に驚いたのはレニだ。
塔に送られた昨日の今日で、イリアスがやって来るとは思わなかった。
今ごろリオと一緒にいるとばかり思い、先ほどまでそのことを考えていた。
そういった様々な驚きが入り交じる。
何より。
こんな夜更けに、何をしに来たのだろう。
そんな不安と焦りが心に生まれる。
ジヴベール塔に来ることを了承した時点で、レニもイリアスと本来の意味で夫婦になることは受け入れている。
だが実際にそうなるのは、かなり先のことだと思っていた。
イリアスは、ドラグレイヤ、レグナドルト、メリサリシュの三つの公国に対抗出来るほどの地盤と権勢を確立するまでは、レニがオルムターナの女公の地位を占めている仮の状態を続けたい、と思っているはずだ。
そういった政治的な理由のために、レニとの間に子供を作ることはなるべく先伸ばしにしたい。
特に隠す必要もないためか、そう考えていることがはっきり伝わってきた。
「陛下のお言葉に従います」と言いきったのは、「その点に関してはまだまだ先の話で、しばらくはリオとの思い出にふけっていられるだろう」と思っていたこともある。
イリアスの性格を見ても、こんなに早く関係を求めてくることはないとは思う。
だが万が一、ということもある。
レニの性についての知識と言えば、リオとの触れ合いしかない。その時のことを思い出すと羞恥と同時に甘い高揚感が、全身に沸き起こってくる。
だがその次の瞬間には、もうリオには会えないのだ、という身を切るような寂しさと恋しさでまたぞろ涙が溢れそうになる。
恋する少女特有の忙しさで、青くなったり赤くなったり焦ったり涙を浮かべたりしていたレニだが、侍女の「陛下がご入室されます」という言葉ににわかに我に返った。
★次回
第130話「イリアスの頼み」