第124話 イリアスさえいなければ。
だがそれは一瞬のことだった。
穏やかだが威厳が漂う顔つきに戻ると、叱るような口調で「寵姫」とリオを呼ぶ。
「どうしたのだ、そなたらしくもない」
そう言いながらも、イリアスは自分の言葉がまったくリオの耳に届いていないのではないか、と疑問を抱いたように、不安げにその顔を覗きこんだ。
その不安を圧し殺すように、強引に言葉を重ねる。
「色々なことがあって、疲れているのだろう。先に下がって少し休め」
愛情から生まれた柔らかさは存在するものの、有無言わせないはっきりとした声だった。
イリアスは戸口のほうへリオを誘おうとする。
室外に控えていた侍女たちが部屋に入ってきて、イリアスの手からリオを引き取った。
「妃殿下……!」
リオは侍女や小姓たちに室外に連れて行かされそうになりながらも、それを拒むようにレニのほうを向き、名前を呼んだ。
だがレニは、顔を上げることが出来なかった。
リオから「妃殿下」と呼ばれても、それが自分のことなのか、よくわからなかった。だからリオの言葉に応えることなく、その場でうずくまるようにジッとしていた。
リオが扉の向こうに連れ出されるのを見送ると、イリアスは半ば困ったような半ば愛しげな笑みを浮かべた。
「済まない。寵姫とは長い付き合いなので、心の整理がつかないのだろう。分不相応な振る舞いを許して欲しい」
「……いえ」
「普段はあのように聞き分けがなくないのだが、後でよく言い聞かせねばな」
言葉とは裏腹に、声が仄かな喜びで弾んでいた。
イリアスは独り言のように呟く。
「私が愛しているのはあれだけだと、いつも言っているのに」
レニは項垂れたまま、ジッとイリアスの声を聞いていた。
まだ女帝として宮廷にいた頃、レニはリオの側にいることが出来るイリアスが、羨ましくて仕方がなかった。たまにグラーシアやイリアスに連れ出されて宮廷に出てくるリオの姿を、いつも地上から月を見上げるように見ていた。
リオは、レニに対してひどくよそよそしかった。
態度は丁重なものの、出来れば同席したくないと思っていることが伝わってきた。
横暴な独裁者の孫であり傀儡であること、育ての親である兄は反逆者として自決を強いられたこと、二つの烙印が押されているレニは、宮廷中の人間から敬遠され疎まれていた。
夫であるイリアスからも、不信の目で見られあからさまに遠ざけられていたのだ。
だから、そんな風に見られることは慣れているはずなのに。
それなのに、リオに忌避されることは他の人のように仕方のないことだ、と慣れることが出来なかった。顔を背けられるたびに、泣きそうなくらい強い痛みを感じた。
リオに初めて会った時から、この人の側にいられたら、仲良くなって色々なことを話せたら、そうしたらどんなに幸せだろう、いつも思っていた。
リオが側にいてくれたら、祖父と戦わなければいけない重荷も恐ろしさも耐えることが出来る。
いや。
レニは時々、自分の心の中を覗いて尻込みすることがあった。
もしあの頃、祖父が自分の気持ちに気付いて、イリアスからリオを引き離して自分の下へ寄越そうと言ったら。
祖父の打倒という兄から与えられた使命を忘れれば、リオと一緒にいてもいいと言われたら。
兄のことも国のことも忘れ、リオと一緒にいることを選んだのではないか。
レニは朱色のドレスの上で、両の拳を強く握りしめる。
今もそう考えている。
もし芝居ではなく、本当にイリアスが命を落として自分が王位に戻ったら……この宮廷で、これから先ずっと、誰に憚ることなくリオと暮らすことが出来る。
レニは、リオのことを思って微笑んでいるイリアスの甘く整った横顔に、密かに視線を送る。
その顔を見ているだけで、心の一番奥からドス黒いモヤのようなものが湧き出てきて心を真っ黒に塗り潰していく。
モヤの源である暗く深い穴の底に一人でうずくまったまま、レニは思う。
イリアスさえいなければ、自分がリオと一緒にいられるのに……。
イリアスさえいなければ……。
★次回
第125話「黒幕」