第116話 願いがかなわくとも
12.
フレイが指定した日時に、レニは宰相のヴァレンに会うために小月宮に入った。
宮廷に戻ってからも、普段は貴族の子弟が内々の場で着るような簡素な短衣姿で通していた。だが、非公式とは言え国の重鎮と会うとなれば、王妃という立場にふさわしい装いをしなければならない。
侍女たちがレニのために用意したのは、一見目立たないが上品で洗練された淡い朱色のドレスだった。
光沢を押さえた真珠色に近い朱色のドレスは、王妃らしい品位と若い娘らしい明るさを同時に引き立たせた。
赤い髪は都で流行の型に結い上げられ、瞳の色に合わせた翡翠が輝く髪留めでまとめられる。
年相応の淡い化粧をした姿は、愛らしく気品に満ちていた。
「妃殿下、とてもお綺麗ですわ」
「お若い殿方が見られたら、色めき立ちますよ」
侍女たちは、まんざらお世辞ばかりでもない好意に満ちた口調で、そう褒めそやした。
小月宮の入り口には、宮廷の作法に則り、館の主人であるリオが出迎えをするために控えていた。
王妃の装いをしたレニの姿を見た瞬間、それまで何とか保たれていた、リオの余所余所しく礼儀正しい表情が一瞬で消え去る。
貴人を出迎えるための口上を述べることも挨拶の礼をすることも忘れて、リオは大きく瞳を見開き、その場に立ち尽くした。一瞬も目を離すことが惜しいように、ただただ無心にレニの姿を見つめ続ける。
余りに長いこと見つめられるため、レニは顔を赤らめてそわそわし出した。
慣れない格好だから、どこかおかしいのだろうか?
そんな不安が浮かび、身動き出来ないまま、自分の姿に視線を走らせる。
見かねた小月宮の侍女が、何度か咳払いし、リオの注意を引こうとした。それでもリオが彫像のように動かないため、「寵姫さま」と小声で囁き、長衣の裾を目立たないように引いた。
リオの目には、周りの様子は一切入っていないようだった。
レニの顔を見つめたまま、不意に側に駆け寄る。躊躇うことなく足元に跪いて、呆気に取られているレニの手を取った。
侍女たちは目を丸くする。
それは自分より高位の女性を迎える貴婦人の礼ではなく、高貴な女性に対して愛を乞い、忠誠を誓う騎士の礼だった。
「リ……ちょ、寵姫さま。あ、あの……」
戸惑い、恥ずかしさと同時に、抑えきれない歓びと思慕を顔に浮かべながらも、レニは慌てて手を引っ込めようとする。
リオはその手を強引に捕らえて、祈りを捧げるような厳粛な仕草で恭しく唇を押し当てた。
見守る侍女たちが、いっせいに息を呑みほうっと吐き出す。
女物の衣装を纏っている美しい側女が、正妻に騎士の礼をする。
ちぐはぐな行動であるにも関わらず、その光景は一枚の絵のように美しく幻想的だった。
レニの姿を見ることを畏れるかのように、リオは顔を伏せたまま囁く。
「お美しいです、とても」
「えっ、あっ、は、はい」
「本当に……とても美しい。今まで見た、何よりも」
レニはこれ以上ないというほど顔を赤く染め、口の中でもごもごと礼の言葉を呟く。大量の汗が噴き出そうになり、慌てて手巾で額を押さえた。
リオは立ち上がり、レニの手を握ったまま広間の奥へ導いた。
「妃殿下、こちらへ。ヴァレン宰相がお越しになっています」
「あ、は、はい」
通常の作法を考えれば、国王の側女が王妃の手を握って館内を案内をするなど考えられない。
それはリオも分かっているはずだ。
リオは幼いころより、自身の商品価値を高めるために、上流階級の作法を貴族よりも入念に身につけさせられているのだから。
侍女たちにも奇異の目で見られる。
駄目だよ、リオ。
手を離さなければと思い、レニは何度か手を引こうとする。だが、レニの手を握りしめるリオの手からは、どんなことがあっても決して離さないという強い意思が伝わってきた。
レニがそっと手を引こうとするたびに、存在を求められるように力を込めて握られる。
レニさま。
握りしめられた手から、リオの思いが流れ込んでくるように思えた。
私は、あなたのために何もすることが出来ません。
ですが、いつもお側で見守っております。
例えあなたと共に戦うことが出来ず、あなたをお守りしたいという願いが叶わなくとも。
(リオ……)
レニは、美しさの中に固い決意を秘めたリオの顔を見つめる。その横顔は、宮廷で見せる大人しくたおやかで優しげな寵姫の顔とは、同じものでありながら別の人間のもののように見えた。
レニはその人の手を、そっと、だが確かな力で握り返した。
★次回
第117話「宰相ヴァレンとの会談」