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第100話 学ぶ資格

21.


 コウマを送り出した日の午後、リオは指定された時刻ちょうどにクレオの部屋を訪れた。

 挨拶をすると、執務机の前に置かれた古ぼけた椅子に座る。


 普段ならば、クレオは挨拶も返さずリオが読む本と箇所を指定する。後はリオの存在などまったく気にせず書き物や調べものに夢中になる。

 だがこの日は、リオが挨拶を終えた後も何もせずに椅子に座っていた。 


 座れと言いたげに顎をしゃくられたため、リオは礼儀に適った所作でクレオの前に置かれた椅子に腰を掛けた。

 人形のように動かないリオの美しい姿を、クレオは面白くなさそうに眺める。

 その姿を見ることにも飽きたように、椅子を動かして横を向いた。


「女にでも捨てられたか。誰彼構わず、人を殴りつけそうな凶悪な面をしおって」


 リオは僅かに形のいい眉を動かした。

 リオは、人前では自分の感情や意思を押し殺す技術を身につけている。

 自分が生きた人間として存在するのは、主人の意思や欲望の中のみだ。そう教え込まれて生きてきた。

 主人が望まない時につける美しい人形の仮面は、完璧なものだ。

 その仮面の底で蠢く暗い感情の存在を、見破れる人間がいるはずがない。


 軽く瞳を見開いたリオに向かって、クレオは追い払うように手を振る。


「出直して来い、小僧。カボチャと本の区別もつかない状態の奴に、何を読ませても無駄だ」


 リオはクレオの言葉が聞こえないように、その場から動かずにいた。

 そのままの姿勢で、唇だけを動かす。


「……何故ですか?」

「なに?」


 クレオは顔を上げた。

 リオがそれ以上何も言わないことに気付くと、腹立だしげに言葉を吐いた。


「今のお前は、字は読めても内容は読めんからだ。そんな奴に本を開かせても時間の無駄だ。私は忙しい。無駄なことに付き合っている暇はない……」


 クレオの言葉などまったく耳に入らないかのように、リオは言葉を重ねる。


「何故、学長さまは、私を『小僧』と呼ぶのですか?」


 クレオは、言われたことの意味がわからないと言いたげな不可解そうな眼差しになり、美しい女性にしか見えないリオの顔を眺めた。

 しばらくすると、不機嫌そうに顔を背ける。


「小僧を小僧と呼んで何が悪い」

「他のかたは、私を若い女として扱います。それなのに、あなたは何故……」


 何かに喉を掴まれたかのような苦しげな表情で、リオは掠れた声を絞り出す。


「何故、俺を男として扱うのですか」 

「何を訳の分からんことを」


 クレオは見知らぬ人間に道端で突然言葉を投げつけられたかのように、急にリオのほうへ顔を向けた。

 その青い瞳は、苛立ち以上の何かで燃え立っていた。


「ここには私とお前しかおらん。他の人間が一体どうしたというのだ? 何の関係がある? そいつらがお前をどう見るかなど、今ここで何の意味があるんだ? 一体全体、お前は何の話をしているのだ?」


 いつも通り、リオはクレオからの質問に言葉を詰まらせ答えることが出来なかった。何も言えず、ただ苦虫を噛み潰したような学府の長の顔を眺める。

 クレオは苛立ちを抑えきれないという風に、机の上に指を打ちつけた。


「男を腐らせるものはこの世に二つしかない。酒か女だ。どちらも男にとっては何の役にも立たん。なのに、進んで毒沼に入っていく阿呆が後を絶たん。ハッ! こいつだけはどんな偉い学者でも解けん謎だ」


 クレオは吐き捨てるようにして、言葉を続ける。


「お前がうつつを抜かしとる女、どうせお前みたいな小僧が腑抜けになる原因は、女だろうがな。お前は、そんなろくでもない女のことばかり考えて、目の前の本すらろくに読めなくなっている。学府の長で、この世界で最高の頭脳を持つ私を前にして、質問には答えず、訳の分からん戯言ばかり抜かす。だから小僧だと言うのだ。何かおかしいことがあるか?」


 リオは、呆然と立ちすくんだまま、怒りと苛立ちに満ちたクレオの顔を眺めた。


「……おっしゃる通りです」


 珊瑚色の唇がわずかに震え、言葉がこぼれ落ちる。


「私は、何も考えていなかった。なぜ、学びたいのか、なぜ、ここに来たのか。自分が何を求めているのかさえ」


 リオはクレオの顔を見つめながら、同時にここにはない何か別の者に訴えるように言った。


「私は、ただ『ここで学ぶ者』になりたかった。真剣に学問の道に入りたかったわけではない。あの方の側にいたかった。自分ではない者として。……あの方にふさわしいと、誰からも認められる人間になりたかった」


 緑色の彩を帯び始めた瞳から、涙が流れ落ちた。リオはそれをぬぐおうとすらせず、強い苦痛で顔を歪ませた。


「ここに来れば、違う人間になれると思っていた。自分ではない者に。モノではない人間に生まれ変われると……普通の男になれると、そう思っていた……。真剣に学ぶ気などなく、それだけを願っていた。馬鹿だ、俺は。学府に入る資格など、最初からなかった……」


 下を向き、自らの感情から生まれた苦痛に耐えるリオを、クレオは黙って眺めていた。


 長い沈黙のあと、クレオは呟くように言った。


★次回

第101話「それで十分だ。」

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