第99話 暗い怒り
19.
次の日の朝早く、コウマは学府からさらに北へ向かって旅立った。
「じゃあな、リオ、試験頑張れよ。公女さまも世話になったな。レニ、酒を飲みすぎんなよ」
「コウマ、気をつけてね。一人だと何かあった時に大変だから」
「おいおい、誰に向かって言ってんだよ。こちとら、十二、三のガキの時から一人で商売してんだぜ。んなドジ踏まねえよ」
コウマはレニの赤い頭を乱暴に小突く。
心配しているのに、と頬を膨らますレニの顔を見て、コウマはふと付け加えた。
「お前さ、なんつうか、ちょっと物分かりの良すぎるところがあるよな」
頭を押さえていたレニの顔が、訝しげなものになる。
コウマはこの率直で明快な物言いの若者にしては珍しく、ちょっと悩むような顔つきをする。柄にもないことをやる人間特有の表情で、黒い髪をカリカリと掻きながら言った。
「わりぃことじゃねえけどよ、もうちっと我儘になってもバチあたんねえぞ。まだガキなんだからよ」
「コウマと同い年だけど」
レニは半ば怪訝そうに半ば不本意そうに呟く。
コウマは肩をすくめた。
「俺はいいんだよ。一人でやっていってるし、これからもそうだからな。だけどよ、お前は違うだろ」
コウマは、レニの後ろに立つリオの細く優美な姿に一瞬目を向け、すぐに視線を戻した。
「たまにはしおらしく甘えておけよ。お前のことが好きな奴ほど、そのほうが喜ぶぜ、きっと」
「どうしたの? 急に」
レニは不思議そうに首を傾げる。
コウマは自嘲するように短く笑った。
「別にどうもしねえよ。しばらく俺もいねえし、痴話喧嘩はほどほどにしとけよ、ってこった」
「ち、痴話っ、痴話喧嘩って……」
レニの童顔が一瞬で顔を赤くなる。
レニが抗議の声を上げるよりも早く、コウマはリオのほうを向いた。
「リオ、あんまりレニのことを悩ますなよ、こいつはお前と違って、頭も性格も単純なんだ。お前の魔女の鼻みてえに曲がりくねった訳のわからねえ気持ちは、百年経っても気づかねーよ。陰険なのもほどほどにしておけよ」
リオは一瞬虚を突かれたように、瞳を軽く見張った。
反射的に口を開こうとして寸前で言葉をとどめ、優雅に一礼する。
「ご忠告ありがとうございます」
リオは、彼をよく知らない人間ならば皮肉がこもっているとは夢にも思わないような、丁寧な口調で言葉を続ける。
「あなたがろくでもない女性に騙されて身ぐるみはがされたり、橇から転げ落ちてカリブーに蹴り飛ばされたりしないように祈っています」
これだよ、これ。と言って、コウマはげらげらと笑った。
そうして北へ向かう橇に乗り込んだ。
20.
コウマがいなくなると、レニはますますリオと一緒にいることを避けるようになった。
リオの時間を奪ってはいけない、勉強することやマルセリスと話すことに時間を使ったほうがいいと思っていることがひしひしと伝わってくる。
「リオのために何が一番いいか」
レニはそれを第一に考えている。
生まれた時から主人の持ち物でしかない自分を、一人の人間として尊重し、その意思を大切にしてくれる。
本来であれば、リオのような境遇の人間にとっては考えられないほどの幸運だ。
それなのに。
これほど暗い怒りはどこから生まれるのだろう。
レニは自分を捨てるつもりなのだ。
どう考えても理不尽で歪んでいると自分でもわかっているのに、そういう思いから逃れることが出来ない。むしろその思いは心の内深くに根を食いこませ、体全体に黒い触手のような枝を伸ばし全身を締めつける。
宮廷から連れ出したものの、もっと遠くに行くためには自分が重荷だと気付いたのだ。
学府という丁度良い檻を見付けたから、そこに自分を置いていこうとしている。
世話をしようとする自分の手から逃れるレニを見るたびに、暗い感情が積み重なっっていく。
遠くの世界へ逃れて行こうとする小柄な体を捕まえ、ガクガクと揺すぶりたくなる。
レニさま。
結局ここに置いていくつもりだったのなら、あなたは何故、私をあの宮廷から連れ出したのですか。
リオは翳りを帯びた眼差しを、レニに向ける。
あなたは何もわかっていない。
あなたが俺に与えようとするものが、俺にとっては苦痛でしかないことを。
そしてその苦痛を与え続けるあなたに、俺がどれほどの怒りを抱いているかも。
★次回
第100話「学ぶ資格」