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蟠桃会  幼馴染みは白蛇の妖怪2  作者: 日向あおい(妹の方)
6/6

6.母の母の母の母のそのまた母なんて、もはや分からない。

 

 まさに瞬きの間の出来事だった。

 瞼を閉じて開いた時にはもう閉じる前の景色とは別物になっている。――乃愛の部屋である。

「えっ」

(ここ⁉ ここに出たの⁉)

 友香が夢月と台車を転がしながら人形を運んだのは一昨日の出来事だっただろうか。あの時は電車を乗り継ぎ一時間かけて祥子の家に行ったのだ。

 そして、昨日。夕樹の瞬間移動で夢月の家の玄関から祥子の家の最寄りの駅までを移動した。それだけでも十分すぎる瞬間的な移動だったと思う。

 それなのに今、早季を加えた移動ときたら、何もかもを素っ飛ばして、夢月の家の居間から祥子の家の子供部屋までを移動してしまったのだ。

(素っ飛ばし過ぎ!)

 物音に気付いて祥子が子供部屋の扉を開き、きゃあと悲鳴を上げる。慌てて夕樹が頭を下げた。

「すみません、勝手にお邪魔してしまって」

「せめて玄関の前に出た方が良かったんじゃない?」

「俺もそう思ってた。なのに、早希が強引に……」

 あの瞬きのような一瞬の間に夕樹と早季にはやり取りがあったらしい。夕樹が主として瞬間移動をし、早季は夕樹の力を強化して西王母を運びつつ大人数で移動するということだったのに、結局、主導権を握ったのは早季だったようだ。

 非難がましく言った夕樹に対して、早季は悪びれる様子もなく、

「靴を履いていない」

 と、ぽつりと言った。

 あー、と友香たち三人はそろって声を漏らす。夢月の家の玄関で靴を履いてから祥子の家の玄関の前に移動すれば良かったのだ。

「あ、あのっ。あのっ、そ、それ!」

 祥子が円陣を組む友香たちの中に西王母人形の姿を見つけ、青ざめた顔で高い声を上げる。

「それが、どうしてここにあるんですか⁉」

「すみません!」

 再び謝罪をしたのは夕樹だった。なんだかんだ彼はこういう役割を担う。早季様は絶対に謝らないし、夢月に謝罪させてもそこに誠意を感じられないからだ。

 ママーと乃愛の声がして乃愛が祥子に駆け寄ってくる。乃愛は短い両腕を懸命に伸ばして祥子の腰辺りにぎゅっと抱き着き、友香たちを怪訝そうに見上げた。

 祥子は乃愛を抱き締め返すと、強い口調で言った。

「言いましたよね? 私はもうその人形を見たくないんです! 気持ち悪くて、嫌なんです‼ ちゃんとしてくれると約束してくれたじゃないですか!」

「……うるさい」

「はぁ⁉」

「キンキンうるさい。黙ってそこに座っていろ」

「なっ。なんですって⁉ いったいなんなのこの子!」

 まるで飼い犬に指図するような口調で無造作に床を指差した早季に、祥子は青ざめていた顔をたちまち怒りに赤らめて今にも早季に掴みかかりそうな勢いで声を荒げた。

「早季ちゃん、早季ちゃん、言い方、言い方」

「現状を理解するには自分の目で見た方が早い。理解できれば、よほどの愚か者でない限り、二度と人形を手放そうとは思わないはずだ。今から祓う」

「今から……?」

 午前九時である。友香は傍らの夢月の袖をそっと引いた。

「昨晩みたいに夜を待たないの? こんな朝から現れてくれるの?」

「早季ちゃんだもん。待たないよ。ぶんだよ」

 まあ見てな、と夢月はニッと笑い、友香の腕を引いて壁際に体を寄せた。夕樹も西王母を引きずって自分の足元に寄せつつ夢月の隣に立つ。

 祥子は何か言いたげではあったが、ぐっと唇を結んで部屋の扉の近くで腰に抱き着いている乃愛を抱え込むように抱き締めた。

姿見すがたみ!」

 空を睨むように前を見据えて早季が声を張った。その声に応えて早季の影から、すぅっと小袿姿の少女が姿を現せる。

 きゃあと祥子が短い悲鳴を上げて乃愛をきつく抱きしめた。

『ここに』

 祥子の悲鳴とは対照的に、至極落ち着いた声音が子供部屋に静かに響く。

 早季は少女の方を見ることなく、彼女に向かって右手を差し出した。すると、小袿姿の少女は、すぅっと瞼を閉ざし、――と次の瞬間、彼女の姿が白い光の塊になった。そして、それはまるで粘土を両手で捏ねて伸ばすように細く細く長く長く形を変え、形が定まると、差し出された早季の手の中へ飛び込んだ。

 早季がそれを握り閉めると、ふっと白い光は消え、早季の手の中に一振りの刀が現れる。

 それは、友香たちにとってはすでに見慣れた光景だが、突如として少女が現れ、その少女が刀に変身するという光景を目の当たりにしてしまった祥子は驚きと恐怖にガタガタと体を震わせ、もはや縋るように乃愛を抱え込む。

 そんな祥子の様子など早季にとって知ったことではない。

 再び早季は何もない空間に向かって呼び掛ける。

咲耶さくや!」

 早季の正面の大気が揺れ動き、まるで水面に浮き出てくるように女が姿を現せた。こちらも小袿姿である。先に現れた少女に瓜二つの容姿をしているが、足首まで真っ直ぐに伸びた髪は僅かに茶色がかっている。そして、彼女の方が先に現れた少女よりもずっと大人びて見える。

 彼女――咲耶は姿見の姉である。そして、彼女たちは早季が使役する妖狼なのだ。

 妹の姿見は、歴代の次期当主の子守りを担っているため――歴代当主たちがそうであったように――早季が初めて下した式神である。

 早季の影の中に身を潜め、その姿が目には見えない時でも常に早季と共にいて、早季を護っている。

 一方、姉の咲耶は、彼女たちの他の兄弟たち同様もっと気ままで、彼女の名のついた咲耶神社を棲み処とし、早季に喚ばれた時だけ姿を現す。

『はて、わたしをお召しか?』

 女性にしては低めの声だ。胸の奥に重く沈みこむような響きである。

 早季は子供のようにコクコクと何度も無邪気に頷いて、

「どうしてもやりたいことがある」

 と刀を持っていない方の左手をワキワキと握ったり開いたりしている。

『ほう? それは妾でなければできぬことかえ?』

「私の手のひらの上に大きな牡丹の花を咲かせて欲しい。それで、私がふうーっとやったら、牡丹の花びらがひらひらひら~っと」

「ちょっ、ちょっと待ってね、早季ちゃん。ねえちゃんが言ってた通りになってるじゃん。ふうーってやりたくなるって」

「え、じゃあ、また本の影響を受けているの? 何? 何? ふうーって?」

「分からん。読んでいないから分からん」

 ふうーの意味が分からない友香たちはお互いに顔を見合わせ、不安げな瞳で見つめ合ったものの、結局は早季を見守るしかないのである。

 そして、同じくふうーの意味の分からない朔耶だったが、唇の端に淡く笑みを浮かべると、何重にも布を重ねた袖を大きく振り上げる。

 ぽっと早季の左手の平に紅の牡丹の花が咲いた。それは早季の片手からこぼれてしまいそうなくらいに大きく咲き誇っている。

 早季はその牡丹を見て満足そうに微笑み、それを一瞥してから咲耶は己の用は済んだとばかりに姿を消してしまう。

 早季は目を細めて牡丹に顔を寄せると、ふうーっと息を吹き付けた。

 紅の牡丹の花びらがひらりひらりと一枚ずつ解れるように空を舞って、まるで意思のある生物のように部屋の中を踊り回る。それは到底ひとつの牡丹の花びらの量ではなかった。まるで紅に染まった吹雪のように、上に下に、右に左に、どこともなく花びらが現れ、部屋中を覆いつくしてしまうのではないかと思えた。

 視界が紅に染まり、目を開けているのもやっとであったが、しばらくしてようやく顔にぶつかって来る花びらが減り、視界が開けてくると、友香は部屋の中に人影が増えていることに気が付いた。

 とても小柄で、薄汚れた白のネグリジェ姿の女の子だった。

 小麦色の髪を背中を覆うほど伸ばしていて、その髪のせいで顔がよく見えない。俯き加減に天蓋ベッドの前で佇んでいる。

(あの子だ)

 顔なんか見えなくとも友香には分かった。夢月と一緒に天蓋ベッドで寝ていた時に現れた少女だ。

 こうして明るいところでその姿を見て、十歳にも満たなそうな幼い女の子だったのだと知る。ひどく瘦せ細っていて、背丈は友香の胸辺りの高さしかない。髪には艶がなく、あちらこちらで絡まっている。

「きゃあああああああああああああ」

 最後の花びらが床の上に落ちた時だった。再び祥子の悲鳴が響く。どうやら祥子にも彼女の姿が見えているようだ。

「いやあああー。何あれ! 何なの! 早く! 早くあれをどうにかしなさいよ! そのためのあなたたちでしょ? こっちはお金を払っているのよ! どうにかするって言ったじゃないの!」

「今ではない」

 ぽつんと早季が言った。右手で持った刀をだらりと下し、女の子と向き合う。

「手順がある。故に、この子をどうこうするのは……」

 そこで早季は言葉を切り、じっと何かを待つように動きを止めた。

 まるで動画の静止ボタンを押したかのようで、何事かと友香は夢月を振り返ったが、夢月は首を横に振る。


 ガチャリ。


 不意に玄関の方で扉が開く音がした。


 ドンッ! ガツン! ズズ……。


 何かを突いたような音と引きずるような音が響く。


 ガツン! ズズ……。


 何者かが玄関から家の中に入ってきた。そして、玄関からリビングに向かう廊下を音を響かせながら進んでいる。

 友香はグッと胸を押さえた。最初の音が聞こえた時から胸がどきどきと騒いでうるさいからだ。

 ふと白いネグリジェの女の子の方を見やると、彼女も友香と同じように左手で自分の胸をぎゅっと押さえつけていた。

 はあはあと呼吸も荒く、肩を縮めて今にも床に崩れ落ちそうなくらいに膝を震わせている。

 ハッと友香は気付いた。女の子の右腕が、だらりと力なく下がっていて、まるで力が入っていない。

(もしかして折れてる?)

 夢月と見た夢を思い出す。あの時、異常に右腕が痛くて泣いたのだ。それから目覚めた後、夢月は右腕が折れていたと言っていた。

「……だれ?」

 祥子は腰が抜けてしまったのか、乃愛を抱きしめながら床に座り込んでいた。音は直にリビングに入って来る。子供部屋とリビングの境で座り込んで動けない祥子はリビングの方に顔だけで振り返り、何者かがリビングの扉を開くのを待った。

 果たして、リビングの扉が開いた。

 はっと祥子が息を呑む。

俊昭としあき⁉」

 祥子が目を見張って、リビングに姿を現せた男を見上げた。

 男は淡い青色のパジャマ姿をしており、右手を包帯で肩から釣り、左手に松葉杖を持っている。足元を見やれば、右足はギプスで固く覆われていた。

「どうしてここにいるの? 病院は?」

 祥子の口ぶりからして、彼は祥子の夫なのだろう。だが、奇妙だ。男は祥子の問いにまったく答える様子がなく、それどころか、彼女の方をちらりとも見ない。その顔に表情がなく、どこを見ているのか分からない瞳をしている。


 ガツン! ズズ……。


 左脇に挟んだ松葉杖の先をガツンと床に突くと同時にギプスで固定された右足を前に出し、続いて体を大きく左に傾け、左足をズズッと僅かに引きずるように前に運ぶ。


 ガツン! ズズ……。


 その音に友香は覚えがあった。あのシルエットの男だ!

 男の鉄製の杖と俊昭の松葉杖では発する音が微妙に違うが、このリズム、この不気味な気配が一致する。間違いない。あの男だ。

「夢月」

「分かってる」

 友香が夢月の袖を引くと、皆まで言うなとばかりに夢月が頷く。

「早季ちゃんはアイツを待っていたんだ」

 そうなのは早季の様子を伺う限り疑いようがないのだが、めちゃくちゃ良いタイミング過ぎないだろうか。祥子の夫の俊昭は、入院先である病院を抜け出して帰って来たのだ。あの足で。

 病院と家との距離は分からないが、どんなに近かったとしてもあの足では友香たちが祥子の家にやってくるよりも早く俊昭が病院を出発しなければこのタイミングで姿を現すことは不可能である気がする。

 そう夢月に言うと、夢月はその通りと答えた。

「じつはアイツは夜中に病院を出発している」

「えっ、夜?」

「そう、私と友香が悪夢を見ている時に」

「どういういこと? なんでそんなことが分かるの?」

「あの夢でもアイツはどんどん近付いて来たでしょ? 現実でもアイツはここに向かってどんどん近付いて来ていたんだよ。夢の中でも目覚めてからもそんな気配がしていた。だから間違いない。しかも、毎晩だ」

「毎晩?」

「そう。アイツは祥子さんの夫が怪我で入院してから毎晩、病院を抜け出してこの家に来ようとしていた。だけど、今の今までたどり着くことができなかった。なぜだ?」

「え、なぜ? 分からない」

「さあて、ここで西王母が関係してくるよ」

 西王母と聞いて友香は、ぱっと夕樹の足元に視線を向ける。今日も朝から怒っている様子の西王母人形がそこにあった。

「もしかして西王母が邪魔していた……とか?」

「西王母が絶対に朝には祥子さんの家に帰っていたい理由がここにあったわけだ」

 しみじみと言った夕樹の言葉を、いやいやと夢月が首を振る。

「もしかすると、帰宅途中で追い払っていたのかもよ。どちらも同じ目的地を目指して移動しているわけじゃん。家に着く前のどこかで鉢合わせしていてもおかしくないじゃん。っていうか、私が西王母なら、あんなヤツに家に入って貰いたくないから、家に来る前にどこかで待ち構えて追い払う」

「ええーっと。それは想像すると、怖い。かなり怖い。――でも、それならどうして今……」

「アイツが来ちゃったかって? 昨晩、西王母は先詠神社に連行されたし、今も邪魔しないように私たちが見張ってるからだよ」

 なるほど、と友香は小さく頷くと、松葉杖をつきながら歩くパジャマ姿の男を見やった。

 俊昭はゆっくりと、だが、けして歩みを止めることなく真っ直ぐと子供部屋に近付いてくる。

 虚ろな表情。いくら声を掛けても返事をしない夫の異様さにさすがの祥子も気付いたようで、恐怖を顔に張り付かせ、乃愛を抱えたまま尻で床を滑るように子供部屋の扉の前から退く。

 祥子が空けた場所についに俊昭がたどり着いた。

『あぁー、あぁー』

 喉に籠ったような声を漏らし、女の子がネグリジェの胸元を左手でぎゅっと握り閉めたまま、素足を床にこするように後ずさりする。彼女の顎が震え、ガチガチと歯のぶつかる音が心細く響く。

 ガツン! 松葉杖が子供部屋に踏み込んだ。とたん弾かれたように女の子は駆け出し、よろめきながら天蓋ベッドの中に駆け込んだ。

 ズズ……と俊昭が左足を踏み出し、再び松葉杖を突こうとしたその時。

「とまれ。そこまでだ」

 早季が右手を広げて突き出した。誰の声も聞こえていないものだと思われた俊昭は早季の声に、見えない壁にぶつかったかのように歩みを止める。

『ヴァ―ッ‼』

 俊昭は早季の方に視線を向けると、その口が大きく開き、人の声とは思えない音を発した。

 そして、それは言葉のようだったが、明らかに日本語ではなかった。

「うーん、ごめーん。何を言ったのかさっぱり分からない」

 友香の隣で夢月が両腕を広げて肩を竦めた。

「でもでも、雰囲気は伝わったよ。つまり、邪魔するなって感じでしょ?」

「たぶん、そんな感じ……かな?」

 夢月の言葉に友香は頷くと、夢月の向こう側から夕樹が呟くように言った。

「完全に憑りつかれている」

「体を乗っ取られているね」

「どうするの?」

「早季ちゃんがどうにかするでしょう」

 『ザ・早季様頼り』の夢月の顔を見て、続いて夕樹の顔を見やる。夕樹も無言だ。『ザ・早季様頼り・其の二』な表情である。

「いや、だってね。そこらの霊を喰うのは得意なわけだよ、私は。人の体にいる霊は喰えないじゃん。箱の中に入っているお菓子と一緒だよ。箱から出さなや食べられないじゃん」

 で、夕樹は、と夢月が視線を向ければ夕樹はわざとらしく目をそらして、

「俺はRPGで言うと、ヒーラーだ。回復系。防御と補助魔法はできても攻撃はできない」

「えー、何それ。聞いたことないよぉー」

「あ、だから昨日、アンティークに宿った想いを『説得』して成仏して貰っていたのね。『説得』できなかったものは夢月が食べていたよね」

 つまり夕樹は『攻撃』していないのだ。

「成仏……というより浄化だな」

「じゃあさ、私は何なの? RPG的に言うとさ。早季ちゃんは?」

「早季は召喚魔術師とか?」

「なるほど! で、私は?」

「夢月は……蛇術士?」

「はぁ⁉ 何それ! めちゃくちゃ苦し紛れっぽいじゃんか!」

「某RPGに竜術士っていうのがいて、魔法でドラゴンに変身して攻撃するんだよ。それの蛇バージョン」

「蛇ばぁーじょん!!! そんなバージョンいらんわ!」

 だったら何なら良いんだ? と夕樹が言い返したので、もうしばらく、ああでもない、こうでもないとゲーム世界の職業について夢月の夕樹は言い合っていたが、その間にも早季はひとり、刀の剣先を俊昭に向けて対峙していた。

「この男は、貴女の夫か? 名は?」

 未だ腰を抜かして座り込んでいた祥子に向かって早季が力を込めた強い口調で尋ねると、祥子は頬を叩かれたようにハッとして早季に向かって叫ぶように言葉を返した。

「俊昭……」

「苗字!」

野村のむらよ。野村俊昭!」

「野村俊昭……」

 早季はぐっと睨むように俊昭の虚ろな表情を見据える。

「野村俊昭、目覚めろ。起きろ、野村俊昭!」

 言霊ことだまだと、友香にはすぐに分かった。 

 声に出した言葉には魂が宿る。ポジティブな言葉を言えば、良いことが怒るし、ネガティブなことを言えば、悪いことが起きる。簡単に言うと、言霊とはそういうものだ。

 無理だと言ってしまえば。どんなことでも『無理』になり、『やれるかもしれない』と言えば、チャレンジし、結果、何とかなるかもしれない。こういったことを言霊の力なのだと言われたら、なんだ、誰でもできることではないかと思うだろう。そうなのだ。言霊とは、本来どんな人でも持ち得る力なのだ。

 だが、これまで何度も繰り返し訴えてきたが、早季や夢月たち一族は普通ではない。異常だ。故に彼らの言霊も異常なのである。

 彼らの言葉は時に、暗示や洗脳、催眠の効果を持つ。つまり、言葉で他者を支配することができるのだ。

 そして、名とは、万物に対して最も身近な呪いである。

 それがそれであることを縛り付けるものだ。簡単に言うと、人も動物も名前がなければ振り返ったり、返事をしたりする必要がなく、自由であるが、名前を持つことでそれらを求められ不自由になるということだ。

「野村俊昭、起きろ!」

 見えない壁に阻まれ、棒のように突っ立っていた体がビクンと跳ね、顔を俯かせる。

『ヴヴ……』

「野村俊昭、私の声を聞け。目を覚ませ、野村俊昭!」

 呻き声が俊昭の口から幾度も漏れ、苦しいのか、両腕で己の体を抱くように前へ前へと屈み込んでいく。そして、その体をガタガタと震わせた。

 早季は刀の剣先を、屈み込む俊昭の頭よりわずかに上の方に向ける。

「その体はお前のものではない。その体はお前のものではない。出て来い。出て来い」

 すると、まさに早季の刀の剣先が差す辺りに黒いモヤが現れた。

 それはまるで蛹から蝶が羽化するように、前方に丸まった俊昭の背中からズルリと出てきたように見えた。

 黒いモヤは人の頭の形をしている。顔は見えないが、早季が繰り返す『出て来い!』の声に引っ張られるようにズルズルと出て来て、首、そして、肩、胸の形が分かるほど俊昭の背中から抜け出てきた。

 まさに人の体から人が脱皮して出てきているかのような光景だった。

「夢月!」

 黒いモヤから一瞬も目を離さずに早季が声を上げる。呼ばれた夢月は瞬時にその意図を理解してガクリと体を脱力させる。糸の切れた操り人形のように力の抜けた夢月の体を友香と夕樹で左右から支えると、夢月の体から白いモヤのようなものがゆらりと出てきた。

 それは太い縄のような白い蛇で、ぐぐっと垂直に上に昇り、すぐに天井に頭が達すると、俊昭の背中から抜け出てきた黒いモヤに向かって一直線に飛び掛かって行った。


 パクッ。


 太く大きな白い蛇が裂けるような大きな口を開くと、黒いモヤを頭から咥え込む。そして、俊昭の体から引き千切るように黒いモヤを口に咥えたまま再び天井に向かって昇って行き、蛇の頭が天井に辿り着くと、ぐるりと部屋を囲むようにとぐろを巻いた。

 ズズッ、ズズッ、という音が聞こえてきそうな光景だ。白蛇が人型をした黒いモヤを啜るようにして徐々に呑み込んでいく。頭、肩を呑み込むと、次は胴体。黒いモヤの両足がぶらぶらと白蛇の口からはみ出て揺れている。

(ひぃー)

 それはまさにジャングルで大蛇が人間を丸呑みにしている光景を連想させた。映画とかでありそうなシーンだ。

 だが、友香は思い出す。あの白い蛇は幼馴染だ。

(人型はやめて。ほんと人型だけは!)

 これまでも夢月が説得しても聞かないような悪霊が妖怪を食べている姿を目にしたことはあるが、ぼんやりとした丸い球だったり、獣姿だったりする時の方が多い。ほぼ人間の姿をしている霊を食べる姿は――初めて目にするわけではないが――友香には刺激が強すぎる!

「俊昭!」

 黒いモヤが完全に体から離れると、俊昭は前方に崩れるように倒れ込んだ。ごんっと額が床に打ち付けられた音が鈍く響いたのを聞いて、祥子が悲鳴に近い声で夫の名前を呼んだ。

「その人はもう大丈夫。そのうち目覚める」

「あのう、いったい……。俊昭は……、主人にいったい何が起きたのでしょうか?」

「憑りつかれていたんです」

 祥子は早季を見上げながら訪ねたが、応えたのは夕樹だった。乃愛を両腕で抱え、床に座り込んだまま祥子は夕樹に振り向いた。

「憑り……つかれてい…た?」

「おそらく、あの子の父親の霊に」

 あの子と言いながら夕樹は視線を天蓋ベッドに向ける。友香たちも夕樹の視線を追うように天蓋ベッドを見やると、早季がゆっくりと体の向きを変えながら刀の先を天蓋ベッドに向けた。

「父親は娘に執着していた。溺愛? そんなものではない。愛情なんて感じられない。二人が血のつながった父と娘なのか、連れ子か養女なのかは分からないが、とにかく父親は娘に執着し、支配しようとしていた」

「強い執着は、死後も失われない」

「そう。だから、父親は悪霊となり、娘を追ってここにやって来た」

「そして私が喰った」

 一寸たりとも剣先をブレさせないまま早季が夢月をちらりと一瞥する。

「――さて、待たせたな。次はお前の番だ」

 言葉と共に、さっと早季が刀を横に薙ぎ払うと、天蓋から垂れたカーテンが巻き上がり、ネグリジェの女の子がベッドの上に左腕一本で膝を抱えて座っている姿が露わになった。

 彼女は膝に額を押し付けて俯いている。その様子に敵意は感じられないと分かると、早季は諭すような静かな口調で女の子に語り掛けた。

「お前を追っていた父親は消滅した。お前はもう自由だ。夜が来るたびに父親に痛めつけられ、恐怖し、怯える必要はない。自由だ」

 早季は女の子の右腕を見やる。だらりと垂れ下がった右腕は、骨が折れている。さらによく見れば、ネグリジェの裾から除いた右足の脛の辺りが紫色に大きく腫れているではないか。

 友香は夢を思い出す。あの父親に鉄製の杖で右足を叩き折られそうになった夢だ。

 友香にとって夢であったが、女の子にとってはかつて起きた出来事だったに違いない。女の子の右足は骨が折れていた。

 早季は必要がなくなった刀を下ろした。すぅっと早季の手の中から刀が消えていく。

「治してやろう」

 早季は身を屈めて天蓋の中に入ると、女の子の右腕、そして、右足に手の平を掲げだ。早季が手を滑らせるように女の子に触れると、彼女の右腕と右足の怪我はたちまち治り、汚れたネグリジェも真っ白く洗い立てのように綺麗になった。

 パッと女の子が顔を上げて早季を見上げる。

 大きく見開かれた碧い瞳。驚きと、そして、嬉しさが花のように溢れて女の子の顔を輝かせた。

「これでどこにでも行ける。ベッドから出て来るが良い」

 早季に促されて女の子は天蓋ベッドから両足を下ろした。

 そして、ゆっくりと天蓋の中から出てくると、裸足で床を踏み締め、真っ白なネグリジェの裾をふわふわとさせて踊るようにくるりと一回りすると、そのまま、ふっと姿を消した。

 いなくなったのだ。

「どうやら、かなりのお転婆だったようだ」

「それが父親の気に障ったんだな。んで、罰を受けるようになった。部屋に閉じ込められたり、ベッドから出てくるなと言われたり」

「ずっとベッドにいろと言われていられるわけがない」

「それで、骨を折られた。腕も、足も」

 夕樹と夢月は代わる代わるに言い、やれやれとばかりに首を横に振る。

 ふっ早季が苦々しく笑みを漏らした。

「可哀そう? そうと言ってやらなくてもいいぞ。あの子はなかなかだ」

「どういう意味?」

「あの父親の怪我。あれはあの子がやったんだ。階段から突き飛ばした」

「えっ。どうしてそう思うの?」

「野村俊昭に怪我を負わせたのは、彼女だからだ。彼が事故に遭った時、人形くらいの大きさの影を見たと言っていたな。彼女だ」

「人形ではなく? あの子が事故を起こしたっていうの?」

「野村俊昭に父親が憑りつくと予期したか、すでに憑りついていたから遠ざけたのか、とにかく彼女の仕業だ。――であるなら、生前、己の父親にも同様のことを行っているはずだ」

「なんつー愛憎劇」

 仰ぐように天井を見上げて夢月が嘆くように言う。

「父親に足の骨を折られ、ベッドから身動きが取れなくなった彼女は、父親からまともな手当てを受けられず、しだいに食事も与えられなくなり、ベッドの上で餓死している」

 早季は視線を祥子に向ける。祥子は乃愛を抱きしめた格好で子供部屋の入口で座り込んでいる。

「なぜ父親は娘に食事を与えなくなったのか。これは推測だが、娘より先に父親の方が亡くなったのではないかと。それこそ不慮の事故があったのかもしれない。病気になったのかもしれない。とにかく父親は娘の世話どころではなくなった。そのため、彼女は死後もしばらくそのベッドにいて、遺体を腐らせている」

 友香と夢月が見た夢で見た通りであるなら、そうだ。女の子はベッドの上で死に、その後しばらく放置されている。そう、腐り果てるまで。

「死後、お互いに自由になれれば何ら問題はなかったはずだ。ところが、父親は死んでもなお、娘に執着しつづけ、娘の方も天蓋ベッドから離れることができなかった。天蓋ベッドの持ち主が代わり、ベッドが移動すれば、彼女もベッドと共に移動し、父親は彼女を追って来る。父親に捕まれば苦痛を受けることを知っている彼女には、自分の身代わりが必要だった。つまり、ベッドの新たな持ち主だ」

 はっとして友香は息を呑む。

「身代わりって、もしかして……。悪夢を見たことと関係があるの?」

「そう。そのベッドで眠れば悪夢を見る。まるで彼女になってしまったかのような夢を。そして、父親が足を折りにやって来る。もし西王母が父親を足止めしていなかったら、野村祥子――貴女の娘は疾うに死んでいた。父親の霊に憑りつかれた俊昭の手によってな。……そのベッドはそういう品物だった」

 さっと祥子は顔を青ざめて言葉を失う。乃愛をきつく抱きしめ、夫を見つめ、ガタガタと震えるしかない。

 それで? と早季は祥子に問いかける。

「本来の依頼は、そこの人形についてだったな。本当にいらないのか?」

「……」

「おそらく西王母人形が貴女のもとに届いたのは、天蓋ベッドを購入した直後だったのでは?」

「……ええ、そうです」

「人形は貴女と貴女の家族の危機を察してやって来た。貴女の母親に、貴女のもとに自分を送り届けさせたのだ。だが、もはや危機は去り、人形が貴女たち家族のもとにいる理由はなくなった。手放そうと思えば、手放せるはずだ。そして、二度と人形は帰らないだろう」

「本当ですか⁉」

 ぱっと顔を上げて喜色を露わにした祥子に早季は再び先ほどの問いを繰り返した。

「本当にいらないのか?」

「もう危険はないんですよね。だったら……」

 早季は膝を折って座り、夕樹の足元に置かれた西王母人形を自分の前に移動させる。

 西王母は友香が初めて目にした時からずっと絶えず怒っていたが、早季に触れられると、とたんにその怒気を徐々に徐々に沈めていく。そして、すっかり波のない水面のような気配になり、凛と背筋を伸ばして、人々の視線を集めながら佇む。

「この人形は貴女の祖先が、貴女や貴女の子孫に送ったお守りだ。貴女たちしか守らない唯一無二の護りだ。私は手放すべきではないと思う。貴女は古い物が好きだというし、乃愛も見る必要のないモノを見るという。ならば、西王母は貴女たちのもとにいるべきだと思う。だが、そうと知りながらも、どうしても手放すというのなら仕方がない。私が強要できることではないから。それはそれで構わない。ただ、今までのことを祖先に感謝した方が良いだろう。母の母、そのまた母、さらに母。可能な限り遡り、手を合わせると良い」

「……」

 ぐっと祥子は押し黙った。当然だ。母方の系譜をたどることは容易なことではない。

 友香とて、母親の旧姓は知っていても、母の母――祖母の旧姓はもう分からない。その祖母の母がどういう人で、どこで暮らしていたのか、兄弟はいたのかなんて分からないし、祖母の母の母に至っては、お手上げである。

 では、父方であればどうだろう。父も祖父も、祖父の父も、祖父の父の父も――養子ではない限り――少なくとも苗字は自分と同じであろう。

 そして、お墓参りに行けば、墓石に名が刻まれているので、祖父も祖父の父も、そのまた父も名を知ることができる。

 もちろん母も亡くなれば墓石に名を刻まれるが、同じ墓石に母の母である祖母の名が刻まれることはない。刻まれる名は、父の母である方の祖母の名である。

 母の母や、そのまた母のお墓に手を合わせたことがあっただろうか。祖母の母や、祖母の祖母のお墓がどこにあるのか、友香は知らない。

 ところが、早季が祥子に促したことはそういうことだ。祖母や祖母の母、祖母の祖母、そのまた母、分かる限りの母方の祖先のお墓に手を合わせろと言ったのだ。

 戸籍を辿れば、どこで亡くなったのかは分かるかもしれない。親族の名前も分かるかもしれない。だが、そこからお墓の場所を知るためには、ずいぶんと骨が折れそうだ。

「手を合わせなければ、どうかなりますか? 何か悪いことでも?」

「おそらく起こらない」

「なら……」

「だが、二度と助けは得られない」

「でも、もう悪いことは起きないんですよね? 人形を持って行ってください」

 追い詰められた獣のような眼をして祥子が言った。もうこれ以上、怪異とは関わり合いになりたくないという気持ちが強いのだろう。

 お守りだと言われても、一度、気味が悪い、不気味だと感じてしまった人形をどうしても受け入れることができないのだ。

「承知した」

 極めて無表情に、まったく抑揚のない声で早季は承諾の言葉を放った。




 △▼


 ふっと瞼を開くと、そこは夢月の家の居間で、友香の正面には早季が立っており、早季と目がばっちり合ってしまう。

 早季は無言で友香から視線を逸らすと、握っていた夢月の手をパッと放し、同時に西王母人形からも片手を離すと、すたすたとソファに向かう。

 ソファの上には早季が置きっぱなしにした文庫本があり、それを手に取ると、すとんとソファに腰を下ろした。そして、そのまま早季は本の世界の中に没入してしまった。

 友香の右手を夕樹が、左手を夢月が握っていて、二人はほぼ同時に友香の手を離した。

「あーあ、結局、西王母はお焚き上げの運命かぁ。もったいない」

「もったいない?」

 肩を竦めながら言う夢月の友香は聞き返す。

「だって、そうじゃん。めちゃくちゃ強力な護符なんだよ。こんな力を持ってるお守り、他にないよ。手放すなんて、ほんともったいない。っていうか、手放すんなら西王母じゃなくて、あのベッドじゃない?」

「たしかに。あのベッドで女の子が餓死してるんだよね。それ知っちゃうと、もう寝られない」

「仕方がないだろ、俺たちがああだこうだ言っても。決めるのは祥子さんだ。それに西王母がいくら強力でも、祥子さんや乃愛ちゃんにしか働かない護符なんだから、もったいなくとも燃やすしかないだろ」

 夕樹も心から惜しいと思っているのだろう。こちらも肩を竦めながら早季と向かい合うようにソファに座った。

 夢月は、ざんねん、ざんねんと繰り返して西王母人形の後頭部をぺちぺちと軽く叩いた。まるで慰めるように。

 もはや西王母から怒りのオーラは感じられない。彼女は諦めたように静かに佇んでいる。

「でも、本当にもう西王母は祥子さんの家には帰らないと思う?」

「思う。早季ちゃんに触れられて西王母の怒りが収まった時に、子離れしたって感じがしたもん」

「子離れ?」

「その人形って、所謂、母の愛じゃん。めちゃくちゃ重たい母の愛。子離れできていない母親の愛。それが子離れできたって感じ」

 分かるような、分からないような。

 それじゃあ、と友香はもう一つ気になっていることを口にしてみる。

「祥子さんは、お墓参りに行くと思う?」

「行くわけないじゃん。そんなめんどくさいことしないって」

 即答する夢月。視線を向ければ、夕樹も頷いている。

「あの様子じゃあ、行かないな」

「まあ、子供ってそういうもんじゃない? 親心、子知らずって言うじゃん。ずっと親に守られてきた子供にとって、親の愛はあって当たり前のもの。その愛が強ければ、重く、うっとおしく感じてしまうもの。けして、ありがたいものではないんだ」

「だから、感謝することはない」

「だけど、失って初めて思い知るんだろうね。親の愛のありがたみが。西王母人形のありがたみを知る機会が今後あるかもね」

 そんな機会があるとしたら、祥子と乃愛が再び怪異と遭遇する時だろう。

 昼過ぎ頃、ようやく華月が帰宅して、西王母人形は先詠神社の本堂に運ばれた。夢月の父親が帰宅したら焚き上げることになりそうだ。

「なんだか、可哀そう」

 ぽつりと零すと、耳ざとく華月が聞いていて、双子の片割れである美月によく似た顔で、ふっと淡い笑みを浮かべた。

「そうやって友香ちゃんはすぐに憐れむから、妖怪や霊に好かれるんだよ」

「え」

「共感力が強すぎたり、優しくて心に隙がある人は、妖怪や霊の目に留まりやすい」

 今回の華月の仕事は、本家の当主までも引っ張り出した大仕事で、どうにか片が付いたようだが、華月の負担は相当なものだったようだ。いつもなら陽気で、やや軽薄な印象のある青年なのだが、疲労感に肩を重く落としている。

「華月さん……」

 大丈夫ですか? と言いかけて、はたしてずっと年下の自分に心配されることを彼が望むだろうかと思い留まった。

 華月は眉を下げ、唇を結んだ友香を見やり、微笑を浮かべると、友香の頭をぽんっと軽く叩いた。

「大丈夫。友香ちゃんがどんなモノをお持ち帰りしてきても、この華月お兄様が祓ってあげるからね。心配しなくていいよ」

「はぁ? にいちゃん、気安く友香に触んなよ。友香は私の! 友香がお持ち帰りしてきたもんは、私が祓ってやるの!」

 友香と華月の間に夢月が割って入って来る。そこに美月もやって来て、

「友香ちゃん、もう一晩、泊っていく?」

 と軽やかに声を掛けて、ぽんぽんっと華月の肩を叩いた。

 美月は片割れが帰って来たので、端から見て明らかに分かるほど機嫌が良い。夕食に何を作ろうかしらと弾んだ口調で言っている。

 美月が大丈夫そうであれば、翌日は月曜日で学校なのだから無理に泊る必要はない。友香と夕樹はそれぞれの家に帰ることにした。

 おそらく早季も、きりの良いところまで本を読み終えたら自分の家に帰ることだろう。

 先詠神社の一の鳥居の前で夕樹と別れ、友香は帰路に着く。そこから友香の家はゆっくり歩いても十分もかからない距離だ。

 ごくごく一般的な、こじんまりとした戸建ての玄関を開けると、すぐに母親の声がリビングの方から響いた。

「あら友香、今日は帰って来たの? おかえり」

 いかに友香が夢月の家に泊まっているのか、よく分かる母親の言葉である。そして、ひとり娘が二日も家を留守にしたというのに何一つ心配していない様子である。

「友香の雛人形を和室に出しておいたわよ。ひな祭りまでに帰って来なかったら、友香に見せることなく仕舞うはめになっていたわ」

 帰って来てくれて良かったぁと、のんびりした口調で言いながら母親はソファで寛ぎながらテレビを見ている。

 友香はリビングから和室の方にちらりと視線を向けた。

「ありがとう」

 友香の雛人形は、お内裏様とお雛様がガラスケースの中に並んで座っている物だ。さほど大きくも立派でもなく、母親がひとりでも楽々押し入れから引っ張り出すことができるという――サイズ的にも値段的にも――お手頃な雛人形だ。

 雛人形は、身代わり人形だという夢月の言葉をふと思い出す。お手頃な友香の雛人形も、あの西王母人形のように友香を護ってくれているのだろうか。

 自分の身代わり人形たちがどんな表情をしているのか気になって、その顔を一年ぶりに見てやろうと、友香は和室へと足を踏み入れた。

「え……」

 見間違いだろうか。うん、見間違いに違いない。

 あるはずのない物が見えている……ような気がする。いや、見えている。友香の雛人形のガラスケースの横にそれは何食わぬ顔で立っている。

 ――西王母人形である。

「ええええええええええーっ‼」

「えっ、なに? どうしたの?」

 友香の絶叫に友香の母親はソファから飛び跳ねるように立ち上がって、和室の入口で立ち尽くしている友香に振り向いた。

「お母さん、なんで! なんで、どうして、あの人形があそこにいるの⁉」

「え、なに? どの人形? ……え、何かしら? 見たことのない人形ね。私は知らないわよ。友香、あなたが置いたんじゃないの?」

「私、今帰ってきたところだよ。置けるわけが……」

 はたと友香は視線を感じて自分のすぐ隣を振り返った。

「ぎゃああああああああああああああああー」

「ええええっ‼ 今度はどうしたの! いったい何事なの⁉」

 どうやら母親には見えていないらしい。

 見えてしまった友香はその場で一度跳び上がってから腰を抜かして畳の上にへたり込んだ。

 すぐさま母親が心配して駆け寄ってきたが、友香はそれどころではない。

 なぜなら、友香のすぐ横に煌びやかな衣と豪華な装飾品を身に着けた妙齢な女性が立っていたからだ。

 その容貌は、疑いようもなく、西王母人形にそっくりである。

「うわわわ」

 もはや言葉にならない。驚きすぎて何と言って良いものか。

 友香は腰を抜かした状態のまま、西王母人形と西王母人形そっくりな女性を見比べながら尋ねた。

「ど、ど、どうして?」

 西王母人形そっくりな女性がにまりと妖艶な笑みを浮かべた。

 彼女の体はうっすらと透き通って見え、明らかに人間ではないと分かる。友香の今までの経験を踏まえて考えれば、おそらく人形に長年込められてきた願いや想いが霊体のような姿を得て出てきたのだろう。

『そなた、わらわに情を抱いてくれたではないか』

 はっと友香は顔を色変える。

「確かに、もうすぐ燃やされてしまうのは、可哀そうだと思ったけど」

『故に、大人しく燃やされてやるのをやめて、しばしそなたの傍にいてやろうと思うてな』

「ええーっ、な、なんで私!? 祥子さんは? 祥子さんはもういいの⁉」

『祥子にはほとほと愛想が尽きたわ』

「でも、乃愛ちゃんは?」

『そなたの方が興味深い』

「えー」

『そなたの傍にいると、妾は新たな力を持てるようだ。このような姿を得ることもでき、そなたと話もできるようになった。移動もほれ、この通り』

 西王母人形の霊体は、華やかな扇で西王母人形を指し示す。どうやら自分の力で先詠神社から友香を追い駆けて、友香の家までやって来たらしい。

「そんなぁ。うそでしょー」

 友香、と母親が腰をかがめて、怪訝な様子で友香の顔を見下ろしてくる。

「友香ったら、いったい誰と話しているの? そこに誰かいるの? 大丈夫なの? ムッちゃんに連絡して来て貰った方がいいんじゃない?」

「ううん。たぶん大丈夫。害はないと思うし。夢月には明日、学校で話すよ」

 そう、害はないはず。むしろものすごーく強力なお守りを手に入れたようなものだ。……ようなものなのだが、そのお守りは、絶対に絶対に捨てることができないっという曰く付きなのである。





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