3.一瞬で伺います
――人形がいなくなった?
にわかには信じ難い。だって、ここは先詠神社の境内だ。夢月から聞いた話では、先詠神社には悪いものが許可無く入って来られないように結界が張ってあるのだという。
許可無く? 許可があれば入れるのか?
入って来られないように? では、出て行くぶんには御自由に、ってことなのだろうか?
考えれば考えるほど謎な結界だが、夢月や美月、それに夕樹もいたというのに人形が消えるだなんて有り得るのだろうか。
実際に自分の目で見て確かめないことには信じられないと友香は夢月と共に居間に急いだ。
後ろから夕樹も追ってくる。人形が消えたと知らせに来た夕樹自身も怪訝な表情を浮かべていた。やはり彼も信じ難いのだ。
友香が使わせて貰っている客間から玄関の方に廊下を進むと、左手に洋風の扉が現れる。正面には土間があり、引き戸の玄関だ。右手に行けば応接間であり、左手の洋風の扉を開けば、居間だ。
三十畳ほどの居間の一面は大きな窓で、昼間にはそこからさんさんと日光が差し込む。部屋の中央にガラス製のローテーブルがあって、それを囲むように大きなソファと一人掛けのソファが二脚置かれている。壁際には大きなテレビと高い棚。棚の上段には小物が飾られていて、下段には本やアルバムが並べられている。
純日本家屋という造りのこの家の中で、この居間と続き間のダイニング、そして台所は、まるで異空間に迷い込んでしまったかのように洋風な造りをしている。
友香は居間に入ると、昨夜、人形を置いた辺りに視線を向けた。確かにそこに人形はない。
「ない」
「そして、いる」
――いる。
夕樹の言う通り、あのどでかい西王母の人形はない。
だけど、いる。
なぜか、いる。
いつからいるのだろう?
そしてなぜ夕樹はこちらについては何も言わなかったのだろうか。
「早季ちゃん、なんで?」
大きなソファの真ん中に姿勢良く座る少女が黒くまっすぐに伸びた髪を肩からさらさらと零しながら友香たちに振り向いた。
「随分とゆっくりした朝だな」
「それは否定しないけど、早季ちゃんは早過ぎじゃない? いつ来たの? 朝イチで来たんでしょ?」
「いや、昨夜だ。二十二時過ぎくらいか。お前たちは寝ていた。随分と早く寝たものだ」
「気付かなかった!」
信じられないと夢月。友香同様、夢月も昨夜は早く寝入ってしまったようだ。しかも、早季が来たことにも気が付かないくらいに深く寝ていたなんて。
「華月に頼まれて来た。私がこの家にいる必要があるような予感がすると言っていた。いつもの如く意味が分からなかったから断ろうとしたのだが、うちの親が二人そろって華月の助っ人に行ってしまった。朝霧も行ってしまい、ひとりで留守番をしているのもつまらないから来た」
「えっ、にいちゃんの助っ人に二人そろって行ったの⁉ そんなヤバい状況なの⁉」
「知らん」
本当にちらりとも知らないのだろう。早季はスパッと短く答えた。
「まあ、単に仲良し夫婦ってこともあるよね。あっ、そういえば、先詠もいないよね。友香がいるのに出て来ないし。狼たちも行ったのなら、にいちゃんの方は大丈夫そうだね」
早季自身も桁違いな少女だが、彼女の両親も一族随一の実力の持ち主である。
そして、朝霧と先詠というのは一族の当主とその次代が使役する妖狼だ。
早季の両親が妖狼たちと共に華月の助っ人に向かったのであれば、どんなマズイ事態になっていたとしても解決しないわけがない。華月の心配はする必要がなくなったということだ。
「それで人形なんだけど……」
もう一度、昨日、友香と夢月が二人で運び、人形を置いた場所に視線を移す。――うん、ない。
「早季ちゃん、人形、見た?」
「見てない」
「ってことは、昨夜、早季ちゃんが来た時にはすでに人形はなかったってこと?」
「なかった」
「早季ちゃんが来たのが二十二時過ぎってことは、私らが居間から出たのがだいたい二十一時だから、居間に人がいなくなってすぐに人形が消えたってことじゃない?」
「そういうことになるよね。……本当にこの家のどこにも人形はないの? 別の場所に移したとか?」
言いながら友香は夕樹に振り向く。夕樹は首を横に振った。
「ない。念のため捜したけど、ない。第一、気配を感じないだろう? あんだけ強い怒気を放っていたのに、今は何も感じない」
「確かに。居間から出て離れても人形が怒っているのが分かったのに今は何も感じない」
「感じられないくらい遠くにあるってことだろ」
「どこに行っちゃったんだろう?」
「そりゃあ、帰ったんだよ。問題は、どうやって移動したかじゃん?」
夢月の言葉に友香は、そっか、と唸る。人形はどうやって移動したのだろうか。まさか人形が自分の足で歩いたとか?
想像してみる。西王母はどうやって歩くのだろうか。衣を翻し、颯爽と歩く? それとも、小股でトコトコと歩く? 人間に見られないように物陰に隠れつつ、忍者のように移動するのだろうか。いずれにせよ、目撃しちゃった人はさぞ驚くだろうな。
―― トゥルルルルル ――
四人は一斉に音の方を振り返った。高い機械音は電話の音だ。居間の扉のすぐ横に電話台があり、固定電話が置かれている。それが急かし立てるような音を響かせている。
友香は夢月に視線を向ける。早季も夕樹も無言で夢月を見た。そう、なぜなら、今この場においてこの家の住人は夢月だけだからだ。
夢月はちらりと壁掛け時計を見上げる。時刻は九時ぴったり。まるでその時間になるのを、今か今かと待っていたかのようだ。嫌な予感しかしない。
「夢月……」
促すように呼んだ時、廊下をパタパタと駆けてくる音が響いた。美月が片手に文庫を何冊か抱えながら扉を開けて居間に入ってくる。そして、一瞬の躊躇もなく受話器を取った。
「はい、大伴です」
美月の視線が四人の顔を順番に移動する。美月は電話相手と話しながら夢月に向かって抱えていた文庫を差し出した。夢月は歩み寄り、美月の手から七冊の文庫を受け取った。
「はい……ええ、そうですね。……はい。……分かりました。すぐに伺います」
失礼致します、と最後に言って美月は受話器を静かに置いた。
美月の話しぶり、そしてタイミングから考えて、誰かと聞くまでもなく電話の相手が分かっていた。そして、その用件も推測できた。
「人形のこと?」
夢月が聞くと、美月は弟の顔を見て頷いた。
「昨晩、人形がないって気付いた時に、朝になったら先方から電話が来るかもと思っていたのだけど」
「気付いたのなら起こしてくれたら良かったのに。私、探しに行ったよ? ていうか、人形がしつこく帰ってくるって聞いていたのに、ねえちゃん、居間に放置してたじゃん」
「本当に帰るのか確かめたかったのよ。うちの結界があっても帰れるのだから、相当の念が籠もってるということも分かったわ。先方にもちゃんとそう説明していたのよ。一回様子を見ますって」
「そうなの? それなら、まあ、いいけど、それで?」
「それで、人形がいなくなったことには、早季ちゃんが来てくれた時に気付いたんだけど、早季ちゃんが、どうせ家に帰ったはずだから探すまでもない、って。私もそうよねって思って」
「で、今のは家に帰ってきたっていう電話だったの?」
「ええ、そうなの。それで、ムっちゃん、悪いんだけどもう一度行ってくれる?」
「いいけど。今度はちゃんとしないと、また人形、帰っちゃうよ?」
「うん、だから今度は、なぜそこまで人形が帰りたがるのか調べて欲しいの。何か理由があるはずでしょ」
「何か?」
「家に執着しているのか、人に執着しているのか。あるいは、何か伝えたいことがあるのかも。昨日は家の中には上がらなかったんでしょ?」
「それどころか、依頼人の顔すら見てないよ。玄関で人形を引き取っただけ」
「人形についてもっと話を聞いてきてくれる? 他にも異変が起きていないかどうか」
「家に上がり込んで話を聞けば良いの? うーん、分かった。友香、行こう」
当然のことのように友香を伴って出かけようとする夢月に友香も慣れたように頷いた。
調べると言うが、うまく調べられるだろうか。まず第一関門として、家の中に上げて貰えるかどうかだ。昨日の依頼主の態度から察するに、顔を突き合わせたくない雰囲気だったし、他人を家に上げたくないタイプかもしれない。
「俺も行こうかな」
「え」
なんで? と言わんばかりに夢月が夕樹を見やる。夕樹には特段の理由はないようで、肩を竦めながら言った。
「なんとなく気になるし? で、どこまで行くんだ?」
友香が依頼主の家の最寄りの駅を答えると、夕樹は何ということもないように言った。
「その駅なら瞬間移動で行ける」
「えっ、そうなの⁉ でも、結構、距離があるよ?」
「何度も行ったことがあるし、瞬間移動に距離は関係がないんだ。その場所を知っているということの方が大事なんだ。それに俺、夢月と違って瞬間移動、得意なんだ」
ぐぅ、と夢月の喉が低くなる。言い返したい気持ちはあるが、言葉が出て来ないのだろう。
「だから、人を目指して瞬間移動することもできる」
「人? それってどういうことなの?」
「行ったことのない場所でも、よく知っている人がいる場所なら行けるということだよ。例えば、その人がどこにいるのか分からなくても、その人のところに行くことができるってこと」
「なんだかすごいね」
「夕樹はさ、旅行先とかで、はぐれても気にしなくて良いってことだよ。ほっといてもいつの間にかいるから」
「人探しもできるの? 行方不明になっている親とか子供とか兄妹を捜してくださいっていう依頼ありそうじゃん?」
「知らない人は無理だ。写真だけ見せられて、この人を捜してくださいと言われても無理」
「そうなんだね。……私がいても瞬間移動できるの?」
以前、華月に言われたことがあるのだ。一族ではない友香を連れての瞬間移動は難しいと。
「めずらしく今は何も憑いていないみたいだからできる」
「めずらしく……」
一瞬、白目になりかかった。
いやいやいや、そんな年がら年中、何かに憑りつかれているわけじゃないから! 憑いている状態がデフォみたいに言われても困る。
「憑いていると夕樹でも難しいんだ?」
「憑いている奴が何をしでかすか分からないからな。それで? 電車で一時間くらいかけて行くのか? 俺と一瞬で行くのか?」
「一瞬の方でお願いしまーす」
夢月が即答した。友香も異議なしである。
だけど、夢月と友香が出掛けて、夕樹まで一緒にとなると、美月のことが気掛かりになる。昨夜、美月についての話を聞いたばかりだから余計である。
ソファに座っていた早季が徐ろに立ち上げると、夢月に歩み寄り、その手から無言で文庫を取り上げた。
そして、文庫を七冊を楽しげに抱え持つと、再び元の位置で座った。
「私は美月オススメのこれらを読んでいるから三人で行ってくるが良い。読み終わるまでここを動くつもりはないから、それまで帰って来なくて良いぞ」
「えーっと、なんてツッコんで良いのか……」
早季様が七冊読み終わるまでに何時間かかるのだろう?
人形を取りに行って、話を聞いて帰ってくるまでの時間は三時間くらいだろうか。夕樹が一瞬で連れて行ってくれるのなら往復の移動時間は無いようなものだから、一時間くらいで帰って来られるはず。
読み終わるのが早いか、帰ってくるのが早いかの話であるが、帰ってくる方が絶対に早い気がするのは友香だけだろうか。
「ちなみに、どんな話?」
夢月が美月に視線を向けて聞く。
「中華風ファンタジーよ。世界がまるで違うから西王母は出て来ないんだけど、女神が出てくるわ。女神に仕えている巫女みたいな存在の少女が主人公なの。前半は王宮で起こる怪異事件を解決していく話よ」
「後半は?」
「カメとの戦い」
「は? 亀?」
「そこまでに。私はこれから読むのだ」
姉弟の会話に早季が割って入る。ごもっともである。おそらく今後その話を読む予定のない夢月相手に、まさに今から読もうとしている早季の前でネタバレされては、早季にとって害でしかない。
「とにかく早季ちゃんにお薦めよ。主人公の少女の口調が早季ちゃんにそっくりで面白いの」
「そのようなところに面白さを感じてお薦めされているのか。期待できぬな」
「まさか。それだけじゃないわよ。きっと読んだら、早季ちゃん、ふぅーってやりたくなるわよ」
言いながら美月は手の平を天井に向け、口元に運ぶと、まるで手の平に乗っている何かを吹き飛ばすかのように、ふぅーっと息を手の平に吹きかけた。
早季の眉が歪む。
「分からぬ。……だが、読む」
早季は文庫の一巻目を手に取ると、残り六冊をガラステーブルに重ねて置き、ソファーに深く座り直した。そして、じろりと周囲に視線を向け、彼女には珍しく声を張って言った。
「よぉーい、スタート!」
「えっ、ええーっ‼」
「ちょっ、友香! 早く出かける支度をしよう!」
「待って。何これ⁉ 競争なの⁉ スタートって、何⁉」
何と聞いても急に無言になり、まるで波のない水面のような静けさと集中力で小説に没頭し始める早季は答えない。
なんというか、競争っていうよりも時限爆弾的な何かな雰囲気である。早季様が読み終わるまでにどうにかしなければ爆発する的な!
いやいや、冷静に考えよう。七冊もあるのだから、それなりに時間はかかるはずだし、七冊読み終わったとしても爆発するわけがないのだ。
と思いつつも黙々と小説を読み進めている早季を横目に夢月と友香は大慌てで朝食を取り、出かける支度を整えることとなった。
なんというか、寝起きの競争といい、さすが夢月の従妹。血縁関係を感じさせる所業だ。
▽▲ ▽▲
片方の手で夢月と手を繋ぎ、もう片方の手で夕樹と手を繋いだ。
夢月と夕樹も手を繋ぎ、三人で輪になると、言葉の通り、一瞬だった。
一瞬前まで夢月の家の玄関だったはずなのに、瞬きをした一瞬後には目の前に駅舎があった。背後には大きなバスロータリーがあり、バスロータリーの空間を囲む壁のように高層マンションがぼこぼこと建っている。
マンションの前には商業施設が並んでおり、右に左に人々が行きかっている。土曜の午前中は、どの店も大賑わいである。
三人はほぼ同時に、パッと手を離した。その直後に辺りを見渡して周囲の視線を確認したのは友香だけである。
「誰かに見られたんじゃないの?」
「大丈夫。見ても気にしないようにって半径百メートル以内にいた人たちに集団暗示をかけたから。気のせいかなぁ、見間違いかなぁ、って思ってくれるよ」
と答えたのは夢月だ。
夢月は瞬間移動は苦手でも、こういうことは得意なのだと言う。
「でも、もっと遠くから見ていたら?」
「それこそ見間違いかと思うじゃん? でも、まあ、偶々録っていた動画に映り込んでたらどうすることもできないけどね」
言って、夢月はけらけらと笑った。
というのも、彼ら一族は、別段、世間に自分たちの力を隠しているわけではないのだ。知られたら知られたで一向に構わないのだ。むしろ依頼が増えて、依頼料が貰えて、がっぽ、がっぽ……というくらいに思っているのかもしれない。
よくぞまあ今までテレビや週刊誌のネタとして晒されなかったものだと不思議に思う。
もしかすると、彼らが世間にうまく溶け込んでいるのは、彼らの暗示能力の賜物なのではないだろうか。
彼らの能力を目の当たりにしてしまった人が必要以上に驚かないようにする暗示。気にせず、騒ぎ立てず、受け流すようにする暗示を彼らは依頼人はもちろん、普段から接している周囲の者にかけているのではないだろうか。
(――ということは、私も?)
友香の場合は、暗示のせいかっていうよりも、幼い頃からの慣れのような気がする。
大型スーパーの前で横断歩道を渡り、マンション群の方に向かう。
今日は真っ直ぐにクレセントレジデンス――目的のマンションへと歩き進んだ。
自動ドア越しにクレセントレジデンスのエントランスが見える。どこかのホテルのロビーの中央に大きなオブジェがある。よくよく見てみると、それは自転車に乗った人のように見えなくもないが、極めてピカソ的だ。違う角度から眺めれば違う物のようにも見えた。
夢月には巨大なカマキリに見えたようだし、夕樹には巨大ハサミの怪物に見えたらしい。
自動ドアの前で部屋番号を押して呼び出した。
『……はい』
「先詠神社から来ました。大伴です」
『……どうぞ』
女性の声と共に自動ドアがガァーと音を立てて開いた。
インターフォンのカメラを通して彼女からは友香たちの様子が見えていたはずだ。また子供が来たのかと思われたに違い。しかも、一人増えている。
『どうぞ』の短い言葉の中に不信感がひしひしと伝わってくるようだった。
三人は昨日と同じ一番奥のエレベーターに乗り込んだ。
二十一階のボタンを押すと、エレベーターが静かに動き出す。
やがて、ちんっという音と共にエレベーターの扉が開き、三人は二十一階の外廊下に出た。
ヒュー、ヒュー、と高く長い笛音が耳元を掠める。今日は昨日よりも風が強い。足元がぐらぐら揺れているように感じた。
「高い」
同意を求めてというよりも、思わず口をついたように夕樹が言った。
「高いね」
求められていないと知りつつも、友香も同じように思ったのだから同意しても構わないだろう。
足が竦むような景色を横目に友香たちは外廊下を進む。そして、昨日と同じ場所まで来て、あっと短く声を上げた。
「あった。あった」
「ちゃんと帰ってきてたな。ある意味すごい」
「うん。怖い通り越して、すごい」
「どうやって移動したのかなぁ。不思議」
友香たちが歩み寄ると、西王母は玄関の扉の前で仁王立ちして怒り狂っていた。
「台車とプチプチを持ってくるべきだったかな?」
「俺が瞬間移動で運ぶから大丈夫だろう。悪いけど、二人は電車で帰ってくれ」
「そうだね。さすがの夕樹でも怒り狂って何をするか分からない西王母と友香を同時に運べないよね。分かった。私と友香は電車で一時間かけて帰るよ」
「一時間かけて頑張れ」
「めんどいなぁ、一時間」
ぶつぶつ言いながら夢月は腕を伸ばし、玄関扉の横に備え付けられたインターホンを押した。
『……はい』
「大伴です。少しお話いいですか?」
『そこにあります。持って行ってください』
「人形についてお話を伺いたいんです」
「このままだと、この人形、何度でも帰ってきますよ。帰ってくる原因をちゃんと突き止めないことには解決しません」
夢月の言葉に付け加えるように夕樹がインターホンに向かって言えば、プツとインターホンが切れる音がした。二人は顔を見合わせる。
ダメか? ダメだったのか? 友香はどうすることもできず、ただ玄関の扉を見つめた。
と、その時。ガチャリと音が響いて、細く玄関の扉が開いた。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、三十代半ばくらいの女だった。ゆるくパーマのかかったショートボブの髪型で、耳たぶには大きめのリングピアスが見える。ばっちり化粧をしていて、服装も部屋着には見えず、今まさに出掛けようと身支度を整えたところのように見えた。
「すみません。ご予定がありましたか?」
「えっ、いいえ?」
夕樹が聞けば逆に驚かれてしまった。普段、自宅にいてもその格好なのだろう。
「あの……、人形について話といっても、私も母から聞いた程度にしかよく知りません」
「とりあえず部屋を見せて貰ってもいいですか?」
「え、部屋を?」
なぜ部屋に上げなければならないのかと彼女は不信感と嫌悪感をあらわにするが、ここは強引に夢月が玄関の扉を引き開けて足を中に入れてしまう。
「おじゃましまーす。わーお、綺麗な玄関ですね!」
足に続いて体を滑り込ませ、相手が何か言う前に目に映った物すべてを褒めちぎる作戦である。
「何ですか、この絵。どっかで見たことある気がする。この花瓶、綺麗! 高そう! 絶対百均じゃない! っていうか、玄関に生花を飾ってある家って、素敵です! そして、余計な靴が一つもない! すごい! うちなんて、常に誰かの靴が出てるし、サンダルが転がってますよ。タイルも床もピカピカ!」
夢月は女性の肩を押して促し、一緒に玄関を上がると、どんどん中に入っていく。すごい。何かの押し売りみたいだ。
西王母には申し訳ないが、玄関前で引き続き怒り狂っていて貰っておいて、友香と夕樹も後に続いて靴を脱いで玄関を上がった。
夢月を追ってリビングに入ると、友香は思わず声を漏らした。
「すごい」
モデルルームのように綺麗に片付いている。片付き過ぎていて生活感がない。来客の予定があったわけではないのにこれほど綺麗な状態を保っているのは、すごいとしか言いようがない。
パッと見、フローリングの床や家具などの焦げ茶の色味が強く、部屋の印象が重く暗く感じられるが、その家具がどれもお洒落で、大量生産された物ではないことが素人目にも分かる。
「アンティーク家具なの。拘りがあって」
夢月がどれもこれも目に写るすべてのものを褒めまくるなかで、家具に話題が触れると、彼女はまんざらでもない表情になった。
「この机の足のこの膨らみが素敵でしょ? このテーブルはこのカーブと、ここの彫りが素敵で。ほら、このキャビネット! 見て、ここ!」
急に饒舌になって家具について語りだす。
「素敵ですね」
「でしょ。全部フランスの物なの。バロック様式の物を集めてて」
「ばろっく?」
「宮廷の一室みたい雰囲気にしたくて」
「あ、宮廷! ……っぽい! わかります! っぽいです!」
バロックのなんたるは分からなくても宮廷っぽさ、ていうか、貴族っぽさ? とにかく、お洒落な雰囲気は感じ取れて友香は大きく頷いた。
「私ね、ベルばらが好きで、マリー・アントワネットに憧れて、彼女みたいになりたくて、アンティークを集め出したの。最初は小物ばかり集めていたんだけど、小さい頃からマリー・アントワネットが住んでいたような部屋に住むのが夢だったのよ」
「マリー・アントワネット」
聞き返したわけじゃない。当然、知っている名前だ。
オーストリアのマリア・テレジアの末娘であり、フランスの王妃である。ルイ16世の妃であり、ギロチンで処刑されたことでも有名だ。
彼女みたいになりたいというのは、もちろんギロチンで死にたいという意味ではないことは、三人とも承知している。
おそらく彼女は少女漫画に描かれていたような綺羅びらかなドレスを身に纏い、綺羅びらやかな暮らしをしていたマリー・アントワネットをイメージして、マリー・アントワネットのようにと言っているのだろう。
「ほら、見て、この人形。この子もアンティークなんだけど、マリー・アントワネットっぽいでしょ?」
と言って見せられたフランス人形に三人は顔を見合わせた。
っぽい。うん、っぽいよ。マリー・アントワネットっぽい。わかる。ベルばらのマリー・アントワネットっぽい。もっと言えば、宝塚のベルばらのマリー・アントワネットっぽい。
ボリュームのあるひらひらドレスに、豊かな金髪を結い上げて豪華な帽子を被っている。
「この人形は娘が産まれてすぐに娘のために買ったの。雛人形のつもりで」
「え、雛人形の……?」
一瞬、耳を疑った。
見せられている『ザ・西洋人形!』と雛人形がまるで結びつかなかったからだ。
だけど、思い出してみる。昨日、夢月と市松人形について話をしたことを。
たしか市松人形も雛人形同様、持ち主の災厄を代わりに受けてくれる身代わり人形であり、長女には雛人形を、次女以降の娘たちには市松人形を買い与え、ひな祭りに飾っていたという。
そうであれば、ひな祭りに飾る人形は必ず雛人形である必要はないことになる。
さらに依頼人の実家では代々雛人形の代わりに西王母の人形を飾っていた。依頼人が『雛人形』というものにまったく拘りがないことも分かる。
雛人形の代わりに市松人形を飾っても構わない。
市松人形ではなく、西王母の人形を飾っても構わない。
そして、ひな祭りには、とにかく人形を飾れば良いという考えに至ったわけだ。
「雛人形というのは身代わり人形なので、そのマリー・アントワネット人形が身代わり人形の役目を担ってくれるのなら構わないと思います」
「でしょ! 私もそう思って」
夢月の言葉に大きく何度も頷いて彼女はますます機嫌良く話し続ける。
「私自身が普通の雛人形に縁がなかったというのもあるんだけど。ほら、うちにはあの人形があったから。普通に雛人形が欲しいって言っても、母は絶対に買ってくれなかったの。でも、今となっては、雛人形なんてなくて良かったなぁって。だって、この部屋には合わないから。結婚して、ここに引っ越してからアンティーク家具を集め出したの。それで、ようやく憧れに近付いたって感じられるようになってきて。そんな時に、あの人形が……」
上機嫌だった彼女が不意に何かを思い出したかのように顔を歪め、唇を噛み締めた。
彼女が何を言いたくて、言わずに呑み込んだのか分かった。
ここは――この部屋は、マリー・アントワネットの部屋だ。彼女の幼い頃からの憧れと夢が詰まっている。
憧れに近付くために彼女は労力を尽くし、夢を守るために彼女はこの生活感のない部屋を日々の生活に汚されないように厳格に保ち続けている。
並み大抵のことではないはずだ。いくら好きでやっていることであっても、楽しいだけでは済まされない努力あってのこの部屋だろう。
そこに意図せず現れたのが、西王母だ。
聞けば、母親から無理やり送り付けられてきたらしい。
思わぬ侵入者。
思わぬ刺客。
このマリー・アントワネットの部屋に西王母は似合わない。
マリー・アントワネット風の人形は飾ることができても、西王母の人形は飾れないのだ。たとえ、先祖代々伝わる貴重な人形だとしても。
彼女の憧れと夢の聖域に、西王母はいらない。