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蟠桃会  幼馴染みは白蛇の妖怪2  作者: 日向あおい(妹の方)
2/6

2.奇遇だな。俺もお前も大伴だ。

 

 居間に行くと、少年がソファに仰向けで寝そべりながらゲーム機をいじっていた。ジーパンにトレーナーという姿で、自分の家のように寛いでいる。

 大伴おおとも夕樹ゆうき

 夢月の従兄である。夕樹の母親は、夢月たち兄妹の父親の姉である。

 夕樹は友香とも面識がある。――というか、クラスメイトなので、今日も数時間前に学校で顔を合わせたばかりだ。

 友香が知らず知らず持ち歩いてしまっている霊やら何やらを、夢月よりも紳士的に指摘してくれて、さっと祓い落としてくれる友香にとって心優しき少年である。

「それ、私のじゃん」

 夢月が夕樹が遊んでいるゲーム機を指差して眉を潜めて言った。ちらりと夕樹が夢月に視線を向ける。

「お前さ、鞄、間違えただろう?」

 巧みに指を動かしながら夕樹は言った。

「お前が持って帰ったの、俺の鞄」

「えっ」

「仕方がないからお前のを持ってきてやった。そこ」

 顎をしゃくるようにしてソファの下に無造作に置かれた学生鞄を指し示す。

 夢月は訝しげな顔で鞄を確認してすぐに、ホントだと声を上げた。

「おかしいなぁ。だって『大伴』って書いてあったし」

「俺も大伴だ」

「あ、そっか。ややこしいなぁ。なんで同じクラスになるかなぁ」

 きっと一番ややこしいと思っているのは担任の先生だ。

「ついでに借りていたゲームを返して、他のを借りたからな」

「それまだクリアしてないやつ!」

「買って貰ったのはクリスマスの時だろ? お前がクリアするのを待っていたら高校受験が始まってしまう」

「むしろ受験終わった後かも。っていうか、わざわざ持って来てくれなくてよかったのに。学校で返すし」

「明日、土曜日。学校、休み。俺の鞄が月曜日までお前のところだなんて、い、や、だ」

「イタズラなんかしないし」

「そういう問題じゃない。――で、それは? さっきからすっげぇ怒ってるんだけど」

 ゲーム機を脇に置いて夕樹は起き上がると、夢月と友香が運んできた人形を目線で指し示した。

「人形らしいんだけど、夕樹も気になる?」

「だって、無視できないくらい怒ってんじゃん。早くどうにかしろよ、それ」

「どうにかって言われても、ねー」

 夢月が友香に向かって小首を傾げる。

 ここで友香に振られても友香には除霊などといった力はない。この場において、どうすることもできない人ナンバーワンだ。

 とりあえず、と友香は言った。

「開けてみようよ。美月さんの許可は出たのだから」

「そうだね」

 うん、と頷いて夢月は人形の前で片膝を着いた。

 夢月と友香は夕樹が見守る中、人形から気泡緩衝材を剥がし始める。気泡緩衝材はセロハンテープで止められており、夢月が人形の足元から、友香が人形の頭の方から慎重にセロハンテープを剥がし取る。

 全体に二周巻かれた気泡緩衝材を取り除くと、頭、腕、胴、足と、部分的に気泡緩衝材が巻かれている。

 それも取り除くと、同様に薄紙が巻かれている。全体に、それから部分的に巻かれた薄紙を夢月が慎重に取り除くと、ようやく人形が姿を現せた。

「これって……」

 大きさは八十センチほど。人形としてはかなり大きい。

 そして分かることは、お雛様ではないということ。友香がイメージしていた市松人形でもなかった。

 それは朱色の着物を身に纏った大人の女性の人形なのだが、彼女の着物は、ごく一般的な日本人が思い浮かべる『和服』ではなく、どうやら彼女自身も日本人ではないようだ。

 彼女が身に着けている着物は、例えるのなら七夕の織姫が着ている衣に似ている。日本人が『天女』と聞いてイメージする衣装である。

 もっとも織姫は天女ではなく、仙女らしいのだが、天女と仙女の違いはここでは置いておくことにする。

 とにかく、その衣装は全体的なイメージとしてひらひらとしている。布地で作られた爪先が上がったパンプスのような靴を履いているのだが、靴先以外は覆い隠してしまえるほどの超ロングのフリルスカートと、その上に重ねて膝下丈のスカートを穿いている。

 金色の糸で刺繍を施された帯を締め、領巾ひれという透け感のある生地のストールのようなものを肩から左右に垂らしている。

 黒髪は、もしかしたら人毛かもしれない。というのも、今でこそ人形の髪は絹糸やナイロンなどの合成繊維で作られているが、かつては、人形の髪に本物の人間の髪を使っていたからだ。

 この人形がいつ頃に作られた品物なのかは分からない。だけど、代々伝わってきた人形だというのだから、かなり古い物なのだと思う。

 そして、このサイズ。衣装の作り込みの丁寧さ。高級人形と言ってもいい。

 現代でも一部の高級人形は人毛を使っているらしいので、たとえこの人形がそう古い物でなかったとしても、人毛を使っている可能性は高い。

 人形は髪を真ん中で二つに分けて肩に付かない長さで折り返し、頭上でひとつの大きなお団子をつくっている。お団子には左右に二本ずつ櫛を差してあり、立派な金冠を被っている。

 眉間に花鈿かでんという赤い花のような模様が描かれている。顔は石膏だろうか。陶器だろうか。つるつると滑らかでキメ細かい顔をしている。

 温かみのある顔をしているから陶器ではなさそうだ。だとすると、石膏? 

 これは後から調べて知ったことだが、桐塑頭とうそがしらというものらしい。

 現在では、雛人形や市松人形などの衣装人形の顔は、そのほとんどがシリコン型に石膏を流し込んで作られているのだそうだ。だが、シリコンが登場する以前の江戸時代から昭和中期頃では、桐塑頭の技法で衣装人形の顔が作られていたらしい。

 この技法は、桐の木の粉や胡粉、膠などの天然素材を使う。

 桐の木の粉にしょうふ糊を混ぜて粘土をつくり、人形の顔の形を作る。その後、にかわを混ぜた胡粉を何度も何度も塗り重ねては乾燥させ、塗り重ね、乾燥させて、そして、目や鼻、口などを手彫りする。

 こうして作られた桐塑頭人形は、口が開き、歯や舌まで細かく彫られるので、ひとつひとつ異なった顔をしているのだそうだ。それはたぶん手縫いのぬいぐるみの顔がひとつひとつ違って見えるのと同じ感じなんだと思う。

 だとすると、シリコン型に石膏を流し込んで作った顔よりも手彫りされた顔の方が良いなぁと思ってしまう。だって、自分だけのたったひとつの人形って感じがするでしょ。

 さらに桐塑頭は軽くて丈夫で壊れにくく長持ちをするのだという。俄然、桐塑頭の方が石膏頭より良い。

 ところが、良いばかりではない。天然素材はコストが掛かり、加えて制作にとても手間と時間が掛かるのだ。大量生産には向かない。

 その上、現在では桐塑頭人形を作る職人が少なくなっている。そのため桐塑頭人形は貴重で高価なのだという。

「美人と言えば、美人かな」

 立膝を着いて人形を上から下にまじまじと見つめていた夢月が言った。

「美人だよ」

 人形が聞いているような気がして、友香はすかさず言い返した。

 実際、人形は綺麗な顔立ちをしている。白い肌に唇は艶やかに赤く、額に細く形の良い眉が引かれ、目尻には赤いアイラインが引かれている。

 ちょっと大げさかもしれないが、美しい人形を作ろうとした職人の魂を感じられた。

「けどさ、おばさんっぽくない?」

「ちょっと夢月!」

 本当に人形が話を聞いていたら、呪われそうな暴言だ。

 とはいえ、夢月の言葉は否定できない。

 少女ではないことは一目瞭然だし、二十代と言うには貫禄がありすぎる。体つきも全体的にガッチリ……いや、ふくよかで、美人は美人でも所謂『柳腰の美人』とは違ったタイプの美人だ。

「手に持っているのは桃かな?」

 人形の左手を見つめながら確認するような口調で夢月が言うと、夕樹が応える。

「桃だな。――ってことは、西王母せいおうぼなんじゃないのか?」

「西王母?」 

 友香が聞き返すと、夕樹は人形の前までやって来て友香と視線を合わせて深く頷いた。

「西王母は中国で信仰された仙女だ。でも、ただの仙女じゃない。仙女たちの頂点に立つ女神で、女王のような存在だ。伝説の山である崑崙山に住み、三千年に一度実るという桃の木を持っている」

「桃……」

「ただの桃じゃない。その桃を食べると長寿を得るらしい」

「長生きできる桃なのね。でも、桃を持った別の女性ってことはないの?」

 桃を持っているというだけで西王母だと断定するのは強引ではないだろうか。

 すると、夢月が横から口を挟んできた。

「西王母であってると思う。だって、雛祭りに飾るって言ってたじゃん? 西王母の誕生日って、三月三日なんだ」

「えっ、そうなの⁉」

 女神に誕生日があるなんて不思議な感じだ。

 日本には天照大神という同じく女王的な存在の女神がいるが、彼女の誕生日なんて知らない。あるのだろうか?

「旧暦の三月三日だ」

 ぽつんと呟くように夕樹が言った。

「え、旧暦? 新暦と旧暦って、だいたい一ヶ月くらい違うんだっけ? それなら、西王母の誕生日は四月でしょ。雛祭りと同じ日じゃないじゃん」

 夢月に振り返って言えば、むむっと夢月の眉間に皺がよる。

 いやでも、と夢月に代わって口を開いたのは夕樹だ。

「日本が今のこよみを使うようになったのは明治時代に入ってからだ。もしこの人形がそれ以前に作られた物なら、初めは旧暦の三月三日、つまり、雛祭りでもあり、西王母の誕生日でもあるその日に飾っていたんじゃないかな。そんで、明治政府が改暦を行って、雛祭りが新暦の三月三日に移動したように、本来、西王母の誕生日を祝って飾っていたこの人形も新暦の三月三日に飾るようになったのかもしれない」

「受け継がれていくうちに、雛祭りに飾る人形なんだという認識しかなくなれば、西王母の誕生日? 知らんわ。旧暦? いつだよ。ここは日本だ。日本の三月三日に飾ってれば良くない? ってなりそうだよね」

 夢月がうんうん頷きながら夕樹に便乗するように言った。

「分かった、この人形は西王母なのね。でも、なんで西王母の人形? 西王母って、中国の女神様なんでしょ? 代々受け継いできた人形が、中国の女神様の人形って、そんなことある?」

「例えば、祖先が西王母大好きだったとか?」

「それか、祖先が日本に移り住んだ中国人だったとか」

「あ、なるほど! そっちだ!」

 夕樹の言葉に手を叩き、簡単に持論を覆す夢月だ。

「この人形自体は、日本人の職人によって作られているみたいだ。ほら、中国人が作った人形の顔って、日本人の俺らから見ると、なんかちょっと違うって感じがするだろ?」

「するする! 顔が怖いって言うか」

「中国に限らず他の国の人形も同じことが言えるんだけどさ。日本人とはちょっと違った顔なんだよな。でも、この人形は俺から見ても綺麗だと思う」

「うん、分かる。日本人から見て違和感のない顔をしてるよね」

「それと、気になるのはこの人形の衣装と髪型なんだけど。一見、中国っぽいように見えるけど、俺には奈良時代の身分の高い女性の格好に見える」

「え? 奈良時代?」

天平てんぴょう文化っていうんだけど、遣唐使が中国から持って帰って来た唐の文化の影響を受けた奈良時代の文化がある。日本で仏教がもっとも栄えた時代で、仏像や仏画がたくさん作られたんだ。その天平文化が栄えた頃の女性の格好っぽく見える」

「そうなの? うーん、よく分からない。遣唐使は授業で聞いた覚えがあるけど。菅原道真が廃止したやつでしょ? あー、もしかしたら天平文化っていうのも授業で聞いたかも。でも、だめ。思い出せない」

「かんぴょうなら知ってる」

「えっ、かんぴょう?」

「かんぴょうって、ずっと干からびた大根だと思ってたんだけど、ゆうがおっていうウリ科の植物の果実だったんだ」

「うん、知ってた。今、かんぴょうの情報はいらない」

 夢月のかんぴょう話をバッサリ切り捨ててから友香は夕樹に向き直った。

「夕樹くんが天平文化っぽいって言うのはどうしてなの?」

「ふと『鳥毛立ち女屏風』を思い出したんだ」

「何それ?」

「天平文化で代表的な絵だ。教科書に載ってる。髪型がこんな感じなんだ。額にもこんな感じの模様があって……」

「とにかくさ、日本人の職人が作ったってことで良いんじゃないの? たぶん、この西王母の人形をつくった職人さんはさ、西王母っぽくするために、中国っぽい衣装を着せたかったんだよ。そのために大昔の絵とかをさ、いろいろ参考に見たんじゃん?」

「十分にあり得ると思うけど、でも、なんでその職人さんはその当時の中国人を参考にしなかったの?」

「ネットがなかったから……?」

 夢月が真顔で首を傾げながら言う。たぶん冗談で言ったのだ……と思う。うん、そう信じたい。

「この西王母の人形が江戸時代に作られたものだとしたら、その時、中国は清王朝だ。満州族だから漢民族とは衣装がかなり異なる。西王母のイメージではないと思ったんじゃないかな。とすると、やっぱりネットがないから、本なんかで調べなきゃならないだろ。だけど、図書館があるわけじゃない。本も気軽に手に入らないとなったら、どうする?」

 ネットがないからという夢月の言葉を受けて話している夕樹くん、なんて優しいんだろう。密かに感動しながら友香は聞き返す。

「どうするの?」

「寺に行けば仏像がある。仏画もある。先人たちの作品だ。そういうのを参考にしたんじゃないのかな」

 想像だけど、と夕樹。

「仏像や仏画を? 仏像って中国っぽいかなぁ」

「仏の姿っていうのは、観音なら髪型はこんな感じ、衣はこんな感じ、菩薩なら髪型はこんな感じで、衣はこんな感じっていう風に大まかだけど決まりがある。だから、好き勝手につくっていいわけではなく、知識をもって造るわけだけど、知識を得るためには先人たちの作品を模倣して学ぶんだ。さっき天平文化に仏像や仏画がたくさん作られたって話したけど、その時代に作られたものをそれ以後の時代の人々は倣って仏像や仏画を作ったんだ」

「天平文化は中国っぽい日本文化だから、仏像や仏画は中国っぽいってことね」

「この人形の場合、弁天とか吉祥天とかを参考にしたんじゃないのかな」

「あ、そっか! 仏像って聞くと、奈良の大仏とか鎌倉の大仏を思い浮かべちゃうからピンとこなかったんだ。でも、弁天様とか吉祥天とかなら分かる! っぽい! 中国っぽい! って言っても、中国のどの時代なのかって聞かれると微妙。だから、そうなんだよね。日本人が思い描く弁天様や吉祥天は、日本人の思い描いた中国っぽい姿なのね」

 なるほどねと友香が頷きかけたその時、家の奥の方から複数名の足音が聞こえて、どやどやと近付いてくる。男たちと美月の話し声も聞こえた。友香たち三人は顔を見合わせ、口を閉ざす。

 じっと耳をそばだてていると、彼らは居間には入って来ず、廊下をそのまままっすぐに進み玄関へと向かって行った。

 カラカラと引き戸が開く音が響く。

「それでは美月さん、また近いうちに」

「まだまだ寒いですからね、体調に気を付けてください」

「次にお会いする時にも美味しいスイーツをお持ちしますね」

 男たちはそれぞれひと言つげてから玄関の引き戸を出て行ったようだ。しばらくすると美月の気配だけが残り、彼女の足音がこちらに近付いてくる。

「夕樹くん、お兄さん帰ったわよ」

 声と共に美月が居間に顔を出した。

「そうみたいですね。俺も帰った方が良いですか?」

 ちらりと壁掛けの時計を見やれば、時刻は十八時を過ぎたところだ。友香も自分の家に帰らなければならない。

 夕樹と友香の顔を順に見て美月はにっこりとした。

「夕食を食べて行かない? 泊っても良いわよ。明日は学校お休みでしょ?」

「え、いいんですか?」

「うん、良いわよ。友香ちゃんも泊っていってね」

 夕食の支度をしなくっちゃ、と台所に向かう美月の背に向かって夢月が小首を傾げて問う。

「にいちゃんは?」

 美月の足がぴたりと止まって、ゆっくりとこちらに振り返った。

 その表情を見て、友香たち三人は言葉を失う。美月は口角を上げてにっこりと微笑んでいるが、不気味なほどに、その目はまったく笑っていなかった。

「華月はね」

 声のトーンが普段よりも低い。

「今日は帰れないんですって。手こずっているみたい」

 すぐ帰るって言ったのに! と美月は吐き捨てるように言うと、くるりと背を向けて台所へと姿を消した。

「華月さん、おつ」

 夕樹が両手を合わせる。

「手こずっているって、どういうこと?」

「にいちゃん、悪霊に憑りつかれたらしいっていう人のところに行ったんだけど、にいちゃんが思っていたよりもめんどくさい事態になってたってことじゃん?」

「大丈夫なのかなぁ」

「にいちゃんが思っていたより、ってところがやばいね」

 と言うのも、夢月の兄――華月は、少し先の未来が曖昧に分かるという特殊能力の持ち主だからだ。一族随一勘が良い。

 その華月が読み違えたというのは、ただ事ではない。

「けど、まあ、にいちゃんひとりじゃあ手に負えないってなったら助っ人が行くと思う。早季ちゃんとか」

「そっか。早季ちゃんが行けば絶対大丈夫だよね」

 九堂早季くどうさきは夢月や夕樹の従妹で、いろいろと桁違いな少女なのである。

「美月さんは華月さんが心配なのね」

 様子のおかしい美月を思って言えば、夢月は、うーんと声を漏らしながら首を傾げた。

「にいちゃんが心配っていうか。いや、もちろん心配なんだろうけど。でも、それより父さんも母さんも留守なのに、にいちゃんまで帰って来られなくなって、ねえちゃんは不安なんだと思う。先詠さきよみもいるのかいないのかよく分からないし。ああ、でも、友香がいるのに出て来ないってことは、やっぱりいないのかな」

「美月さんが不安って? 華月さんが心配だから不安なんじゃないの?」

「違う違う。ほら、前に話したじゃん? ねえちゃん、小さい頃に夢魔に襲われたことがあるって」

 夢月は台所の様子を伺いながら声を潜めて言った。友香も同様に声を潜める。

「私たちが生まれる前の話ね」

「そうそう。私が孵化する前の話」

 はい、ここ。スルーするところ。

 事情を知らない人からしたら『孵化? なに言ってんだ、こいつ』って感じだろうけど、今はスルーする。

「その夢魔がかなり力を持った嫌なヤツで、一族総出で戦ったんだけど、逃げられちゃって倒すことができなかったんだ。そんで、ねえちゃんは助かったけど、それ以来、ねえちゃんは家から出られなくなった。よほど怖かったんだと思う」

「その夢魔って、優香さんを襲った夢魔と同じヤツだろ?」

 優香さんというのは、夢月や夕樹の親戚の女性だ。夕樹の母親と夢月の父親は姉弟の関係なのだが、優香さんはその二人の従妹にあたる。

「そう、同じヤツ。だから、優香さんが何度もうちに来てくれて、ねえちゃんと話したって言ってたよ。それで、ねえちゃんは何とか学校に行く時だけは家から出られるようになったんだけど、ほんと大変で、にいちゃんが一緒でなきゃ絶対に行かなかったらしい。んで、今も極力家から出ないし、にいちゃんがいないと、あんな感じ」

 華月が家を空ける時には必ず求婚者たちを家に招くのだという。

 美月は常に誰かが一緒でないと不安なのだ。もちろん一番一緒にいて欲しい相手は孵化した時から一緒にいる華月なのだろうが、とにかく大人数に囲まれていたいのかもしれない。だから、やたらと友香を家に泊めたがるのかもしれない。

「でも、だったら、さっきの人たちも泊めてあげれば良くない?」

「さっきの人たち? ……ああ、求婚者たち? だめだめ。あの人たちはねえちゃんに下心があるんだよ」

「そっか。それはだめだね」

「とにかくね。私は、ねえちゃんから自信と自由を奪い、恐怖を植え付けた夢魔を許さない。いつか絶対私の手で倒してやるんだ」

「……うん」

 一族総出でも敵わなかった相手なのに? と言い掛かったけれど、友香はぐっと胸の奥に吞み込んだ。

「っていうわけだから、夕樹、遠慮なく泊まっていって良いよ」

「いや、俺が遠慮する相手はお前じゃないから。あれこれやってくれる美月さんだから。お前、何もしないじゃん。……っていうか、これ。どうするんだ?」

 こんな話をしている時でも無視できないくらいに怒っている人形を指差して夕樹が眉を歪めた。

「ここに置きっぱなしにするのか? 本殿に運ぶのか? 誰がお祓いするんだ? 華月さん待ち?」

「どうするんだろう? ねえちゃーん!」

 夢月が台所に向かって大声を上げると、エプロン姿の美月がエプロンで手を拭きながら居間に顔を出す。

「様子を見たいから、そのままそこに置いておいて」

「えー、ここにこのまま?」

「華月かお父さんが帰って来たら本殿でお祓いして貰うから」

「でも、ここにいられたら怖いよ。怒っているもん」

「私たちに対して怒っているわけじゃないでしょ」

「そうだけど……」

 ねー、と同意を求めるように夢月が視線を向けてくる。うんうんと同意してあげたい気持ちはやまやまだった。

 だって、いくら高価そうな人形だとしても、曰く付きのどでかい人形が居間で陣取っているのは、正直、嬉しくない。自分の家だと想像してみる。うん、やっぱり嬉しくない。というか、嫌だ。

 だけど、美月お姉さまの決定はこの家ではほぼ最終決定だ。覆せることができるのは彼女の父親しかいない。

 そして、その父親は現在、留守だ。残念! 故に、夢月の視線に対して夕樹は苦笑し、友香もなんと返したら良いのか分からず曖昧な表情を浮かべた。

 そんなわけで、その晩は夕食を取っている間も、食後に寛いでいる間も、ぐるぐると渦巻くような怒りを居間の方から感じ続けることとなった。普段だったらもっと遅い時間まで居間でだらだらと過ごすのだが、いくら自分に対して怒っているわけじゃないとしても、怒り狂っている存在の近くでゆったりとできるわけがなく、皆、居心地が悪くなってそれぞれの部屋に移動していった。

 友香は用意された客間――頻繁に泊る上に泊る時には毎回この部屋を使うので、ほぼ友香の部屋化している――で、少しだけ小説を読んで、いつもより早く寝入った。

 起きていると居間の方から怒気を感じるので、小説に集中できなかったのだ。

 翌朝。早く寝たのだから早く目覚めたかというと、そうでもない。障子越しに眩しいほど朝日を感じてから瞼を開いた。

 隣室で眠っていた夢月も同じようだ。襖越しに夢月が布団をめくり上げる音がした。

「おはよう」

 襖越しに声を掛けてみる。

「おはよう。もう着替えた?」

「ちょっと待って。すぐ着替える」

「大丈夫。私も今から着替えるから。じゃあ、どっちが早く着替え終わるか勝負ね!」

「いや、しないから。そんな勝負」

 この部屋に置かせて貰っている洋服を箪笥から出すと、友香は素早く着替えた。隣の部屋からバタバタと物音が響いてくる。勝負なんかしていない。しっかりと提案を却下したつもりだが、念のため身支度を急ぐ。

 すると、案の定。

「私の勝ちぃーっ‼」

 すばぁーん! と襖が開いた音に友香の肩がびくんっと跳ね上がる。振り向けば、夢月が部屋と部屋の境で仁王立ちしている。

 良かった。なんとか着替え終わってて。

 友香はスカートの皺を伸ばしながら畳の上で立ち上がり、布団を片付け始める。ちらりと夢月の部屋の方を見やれば、抜け殻のように丸まった掛布団が見えた。もちろん敷布団は敷きっぱなしままだ。

 友香の視線の先に気が付いた夢月が自分の布団の方に戻って、掛布団を中に挟んで敷布団を二つ折りにして部屋の隅の方に押しやった。

 こういう感じの和菓子に見覚えがある。なんだろう。……ああ、そうだ。桜餅だ。いや、柏餅か。

「夕樹のやつ、まだ寝てるかな。寝てたら顔に落書きしてやろうよ」

「させるかよ」

 夢月の部屋の障子戸が開き、縁側に面した廊下に夕樹が立っているのが見えた。ちゃんと身支度を整えている。友香たちよりも早く目覚めたに違いない。

「早く居間に来いよ」

「なに? もう朝ご飯?」

「あの人形がいなくなった」

 えっ、と短く声を上げて夢月と友香はお互いの顔を見合わせた。






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