1.めんどくさい母親とお母さん級に怒っている人形。
「いらないって言ったじゃないの!」
握り締めたスマートフォンを片耳に当てながら祥子は怒鳴り声を響かせた。
夫の出勤を見送り、二歳になったばかりの娘を近くの公園に連れて行こうと支度を整えていた時のことである。インターホンが鳴り、身に覚えのない荷物が届けられた。
しかも、かなり大きな箱である。長方形の厚紙箱で、娘が中に入って寝そべっても余るほどの大きさだ。
重さもかなりのもので、祥子は玄関で配達員から受け取ると、フローリングの床の上を引きずりながら箱をリビングに運び入れた。
箱の蓋に貼られた伝票の差出人を確認すれば、愛媛に住む父親の名前が書いてある。だが、父親の名前で母親が送ってきた荷物であることは伝票の筆跡で分かった。
ミカンだろうか? いや、ミカンなら先日大量に届いたばかりだ。それに箱の大きさが明らかにおかしい。
しっかりと貼り付けられたガムテープを剝がし、箱の蓋を開けてみた。
「あ」
祥子は思わず短い声を漏らした。
中には気泡緩衝材にぐるぐる巻きにされた大きな塊が入っていた。
一瞬、子供のミイラかと見誤る。だが、気泡緩衝材から出す必要もなく、祥子にはそれが何であるかすぐに分かった。
それは幼児ほどの大きさの人形だ。
最初に沸いた感情は、これか、という落胆で、そして、それはすぐに怒りに変わる。
まさに瞬間湯沸かし器のような怒りだった。かっと燃え上がった感情は抑えきれないほど溢れ返り、捌け口を求めて祥子の中を荒れ狂う。
いらないって言ったのに!
送らないでって、何度も言ったのに!
あんなに、あんなに、何度も何度も言ったのに!
まったく理解していない母親の顔を思い浮かべながら祥子はすぐさまスマートフォンを握り締めたのだった。
「だけどね、あんた」
スマートフォから聞こえてくる母親の声はのんびりとしていてまったく悪びれるところがない。
「あれはうちに代々伝わっている物でね、次はあんたの娘の物なんだよ」
「あのね、うちはマンションなの。あんな大きな人形を置いておけるスペースなんてないの」
「ひな祭りの間だけよ」
「片付けておくスペースもないの!」
「だけどね、あんた。あんたも私もおばあちゃんもみぃんな、あの人形に護られて来たのよ。護られて今の今まで平穏に生きてきたんじゃないの。だからね、次は乃愛ちゃんの番なのよ」
「乃愛にはちゃんと乃愛のための人形を買ってあげたの! 何度も何度も言ったじゃないの!」
「でもね、あの人形はもう乃愛ちゃんの物なのよ。あんたに送ったんじゃないの。乃愛ちゃんに送ったのよ」
「だから、いらないって! 乃愛もいらないの!」
まったく話にならないと祥子は耳からスマートフォンを離した。
スマートフォンの画面を見下ろせば、『母』の一文字が目に付く。その文字がまだ長々としゃべり続けている。
母の話は完全にループしており、そのため祥子も何度も何度も同じ説明を繰り返さなければならなかった。
――疲れた。
祥子は箱の中に横たわる人形を横目で見やった。気泡緩衝材でぐるぐる巻きにされた人形はミイラにしか見えず、厚紙箱はミイラを眠らせておく棺桶のように思えた。
――気持ち悪い。
祥子が気泡緩衝材を取ろうとしないことには理由がある。気持ちが悪いのだ。人形が。
人形は着物のような衣を着た女性だ。王冠らしき物を頭に着けており、なぜか手に桃を持っていた。
なぜ桃なのか祥子には理解できなかったし、代々伝わってきたと言うだけに古臭く、そんなところも祥子には気に入らなかった。
――いや、古いことは悪くはない。古さは味になることを祥子は知っているからだ。
だが、違う。この人形の古さは味とは違う。そして、まったくキラキラしていないのだ。
「捨てるから」
ぽつんと、口から言葉が零れ落ちるように祥子は言った。
ひとたび口にしてしまえば、そうだ、そうしよう、としか思えなかった。
「捨てるから!」
今度は大きな声で怒鳴るようにスマートフォン越しに母親に宣言をした。
『母』という文字が再び騒がしく何かを懸命に話していたが、祥子には知ったことではなかった。
▲▽
簡単なお使いよ、と美月は言った。
確かにそうだ。話を聞く限り難しい点はひとつもないように素人の友香にもそう思えた。
「ただちょっと重いかもしれない」
それにかさ張るかもと、ここいらでは一番の美貌の持ち主である美月は折り畳み式の台車を持っていくように勧めてきた。
「本当は華月に行って貰おうと思ったのだけど、今日は別の用事でいないのよ。明日はどうですかって先方に聞いたんだけど、絶対に今日でないとダメって言うのよ」
「人形なんでしょ? 郵送にして貰えなかったの?」
友香の隣で夢月が聞くと、美月は色素が薄くふわふわとした長い髪を緩やかに揺らすように首を左右に振った。
「最初、郵送して貰ったの。でも、帰って来ちゃったんですって。それで先方はパニックよ。電話の向こうで泣き叫んでいたわ」
「あー。よほど怖かったんだろうね」
「帰って来ちゃったの、これが初めてじゃないみたいだから本当に怖かったんだと思うわ」
夢月と一緒に玄関の土間を降り、美月に振り向いて友香は聞いた。
「そんなに何度も帰って来ちゃうんですか?」
「ゴミ捨て場に持って行っても、翌日には玄関の扉の前にあったという話よ。だから粗大ゴミとして申し込んで、回収業者に手渡ししたんですって。そうやって確実に持って行って貰ったのに、翌日には玄関の前。それで人形供養で有名なお寺にも持って行ったみたい。でもダメで……」
「で、うち?」
「その前に他にもいろいろあちこちのお寺とか神社にも相談して、それでようやくうちに辿り着いたみたいなのよ。だから、ちょっと遠いんだけど、友香ちゃん、大丈夫かしら?」
美月にとって、弟の夢月をお使いに出すのは当然のことだ。この家では家業を手伝ってこそお小遣いを貰えるからだ。
一方、弟の幼馴染みである友香は、偶々遊びに来ていたため巻き込まれたようなものだ。気が引けるのだろう。
だけど、友香としては、遊びに行く度に夕飯までお世話になっているのだ、手伝えることがあるのなら喜んで手伝いたいと思っている。しかも、今回は本当に簡単なお使いだ。
「人形を受け取って持って帰ってくるだけですよね。二時間くらいで行って帰って来られそうだし、大丈夫です。夢月と行ってきます」
「ありがとう、友香ちゃん。ほら、ムッちゃんってちょっと方向音痴じゃない? 一人で行かせるのは不安だったのよ。助かるわ」
姉の言葉に夢月は心外だと眉を顰める。
そんな夢月は戸籍上『男』で、兄の華月も姉の美月も夢月のことを『弟』と言うが、夢月の性別に関してはかなりの問題があった。というか、大問題である。
『男』と言い切るにはアレが不足していて、とは言え『女』なのかと言えば、少女のように見えなくもないが、まったく丸みも柔らかさもない体つきをしている。
さらに周囲を困惑させることに、夢月は美月のお下がりの服を着ていることが多かった。
時々、華月のお下がりの服を着ることもあるが、中学校の制服も美月のお下がりであり、体育の授業の時には女子生徒たちと授業を受けている。
そして今日も、淡いピンク色のコートに丈の短い茶色のスカート、もふもふタイツを履き、ふわふわブーツを履いている。美月のお下がりである。
夢月は台車を折り畳んで片手で持つと、もう片方の手を友香に差し出す。
「ほら行こう。友香、玄関を開けて」
「うん」
行ってきますと美月に挨拶をしてから友香は夢月の手を握り、玄関の引き戸をガラガラと引き開けた。
ふわっと足の下が浮くような浮遊感があり、気が付くと二人は先詠神社の一の鳥居の前に佇んでいた。
後ろを振り返ると、鳥居の先に石階段がある。うまく移動できたことを確認して夢月は握り締めていた友香の手を離した。
「最近、成功率が高くない?」
「高いね。前はひどかったのに」
「私ひとりだけなら前から完璧にできたんだよ。友香と一緒だと調子が狂うの」
そんなことを口先を尖らせて言う夢月は、じつは瞬間移動が得意ではない。
え? 『瞬間移動』って、って?
先詠神社の一の鳥居の後ろに続く石階段を上った先には長い長い参道があり、二の鳥居がある。
二の鳥居からさらに参道を進むと楼門があり、楼門の先に拝殿がある。
拝殿を正面にして右手の方に進むと授与所と社務所あり、この建物と渡り廊下で繋がっている日本家屋がつい一瞬前までいた夢月の自宅なのだ。
夢月の自宅の玄関から一の鳥居までの距離を、まさに瞬きをするような一瞬で移動してしまったわけで、これぞ『瞬間移動』なのである。
え? なんでそんなことができるのか、って?
普通の人間ならできるわけがない、って?
うんうん。その通り。じつは夢月は『普通の人間』とは大幅にズレた人間なのだ。だから、できてしまうのだ。
ちょっと理解しがたい話をする。
夢月のお母さんは白蛇の妖怪だ。
え? そんなことあるの⁉ という疑問はよく分かる。分かるけれど、今は『あるんです』という前提で話を進めさせて頂く。
お父さんが人間で、お母さんが妖怪なら、夢月は人間と妖怪のハーフで、つまり半妖ということになる。
ところが、ここで問題点が発生。
夢月のお父さんも『普通の人間』ではないのだ。
聞いた話だと、たしか、夢月のお父さんのおばあちゃんの父親がイタチの妖怪だったとか……。
そうなると、夢月は『半妖』どころではない。たぶん半妖よりも、もう少し妖怪寄りだ。
はい! もう意味が分からないよね?
うんうん、その気持ちはよく分かるよ。だけど、夢月が属する一族って、つまりそんな感じなのだ。
そもそも彼らの始祖は、人間の男と妖狼の間に産まれた半妖の娘で、彼女はその時代に大活躍していた陰陽師の安倍晴明に匹敵するほどの力を持って人間社会で暮らしていたわけなんだけど、その子孫たちは人間社会で暮らし、世代を重ねていくうちに妖怪の血が薄まっていき、それにつれて力も弱まっていったそうだ。
力を失うことを恐れた子孫たちは、そのスピードを緩やかなものにするために親族婚を繰り返し、時には妖怪との異種族婚を繰り返してきたらしい。
そして、その結果が夢月なのである。
夢月たち親族はみんな『普通の人間』から外れた人たちで、彼らは代々生まれ持った力を利用して食い扶持を稼いでいる。つまり、彼らが営んでいる神社に寄せられてくる困りごとを解決して報酬を得ているのだ。
困りごと。いろいろあるが、他の寺社では歯が立たないことが多い。今回の案件がまさにそれだ。
夢月と友香は駅まで歩くと、のんびりと走ってきた電車に乗り込んだ。
単線の黄色い電車は四両編成で、午後三時というこの時間ならば、どの車両もほとんど乗客がいない。二人が乗り込んだ車両には二人以外の乗客がいなかったので、ぞれぞれ縦座席を独り占めするように真ん中に座り、夢月と友香は向かい合った。
ガタンと音を立ててからゆっくりと走り出した電車の中で、二人は他愛もない話をしながら電車が目的の駅に着くのを待った。
しばらくして乗り継ぎ駅に着いたので黄色い電車を降り、次の電車に乗り込む。都心に向かう電車なので、さすがに乗客が多い。座ることができず、台車が邪魔にならないようにドア付近に立った。
周囲に人がいるので、おしゃべりは控えてジッと耐えるように電車に揺られること数十分。美月から教えられた駅名を告げるアナウンスを聞いて、ようやく二人は電車を降りた。
「ええっと。駅近のマンションだって聞いたけど、どれだろう?」
人の流れに従いながら駅の外に出ると、大きなバスロータリーがあり、そこを囲むように高く分厚い壁がぼこぼこと建っていた。
その壁があまりにも高いため、友香は自身が蟻になったような心地がした。そして、閉じ込められてしまったという気持ちになる。
壁には等間隔に四角い窓が付いている。やがて友香は、ああ、と理解する。壁ではないのだ。それらは高層マンションなのだ。
マンションの前には商業施設が並んでおり、右に左に人々が行きかっている。大型スーパーの前で横断歩道を渡り、マンション群の方に向かうと、辺りをぐるりと見渡し、それからマンションのてっぺんを見上げるようにして夢月が言った。
「どのマンションだろう?」
先程と同様の呟きだが、今回の方がより困った感が滲み出ている。友香は夢月からメモを受け取り、そこに書かれた住所を眺めた。
「クレセントレジデンス? ……たぶん、あれかな?」
辺りを見渡してそれらしき文字が書かれたマンションを見付けると、友香はそこを指差した。
二十六階建てのマンション――クレセントレジデンスのエントランスは、まるでどこかのホテルのロビーのようだった。中央によく分からない大きなオブジェがあり、それを眺めるようにソファが置かれている。
エントランスに入るための一つ目の自動ドアは前に立つだけで開いたが、すぐに二つ目の自動ドアがあり、こちらは住人の許可がないと開かない。壁面に取り付けられたカメラ付きのインターホンを見付けて、部屋番号を押して呼び出した。
『はい』
「先詠神社から来ました。大伴です」
『どうぞ』
女性の声と共に自動ドアがガァーと音を立てて開いた。
次に見付けなければならないのはエレベーターだ。エントランスホールを見渡すと、エレベーターの扉が八つ並んでいるのを見付けた。八つのうち奥の二つは二十階以上の直通だ。
二人は一番奥のエレベーターのボタンを押して、扉が開くと中に乗り込んだ。
「二十一階?」
「うん、二十一階」
夢月に確認しながら階数ボタンを押すと、エレベーターが動き出す。
ちんっと音と共にエレベーターの扉が再び開き、二人は中から出ると、目的の部屋を捜して外廊下を歩き出す。
とたんに目に飛び込んできた景色に友香は思わず息を呑んだ。
(高い)
足元がぐらぐらと揺れているような感覚に襲われた。
駅舎の屋根が見える。駅ビルの屋上も見える。バスロータリーを行き交うバスも車も人々も見えるが、それらみんな模型サイズだ。
電車が走る音が風に乗って小さく聞こえ、わずかにカーブした線路の上を電車が駅に向かって滑るように走って来る。こんなにも駅に近いのだから、電車の騒音がもっと聞こえても良いはずなのだが、あまりに高すぎて音が僅かにしか届かないのだ。
見なければ良いのに、友香は駅から歩いてきた道を辿って商業施設が並んでいた辺りを見下ろした。ほぼ真下である。
案の定、ぐらりと眩暈を感じて立ち止まる。
「大丈夫?」
すぐに気づいて夢月が振り返る。友香は大丈夫と小さく頷いて再び歩き出す。
「ねえ、ぐらぐらしてない? 風で揺れてる気がする。二十一階って、こんなに高いんだね」
「落ちたら死ぬね」
「そんなところでよく暮らせるよね」
「五十階とかのタワーマンションに住んでいる人もいるよ。このマンションだって一番上は二十六階じゃん。もっと高いよ」
「信じられない。エレベーターが止まったら無理じゃん。火事になったら?」
「梯子車の梯子は届かない」
「無理じゃん」
「代わりの消火設備が義務付けられているみたいだけどね。……あ」
今度は夢月が不意に立ち止まる。何事かと夢月の視線の先を見やれば、不可解な物体が目に映った。
「何あれ?」
縦長の白い塊だ。気泡緩衝材でぐるぐる巻きにされていて、パッと見、直立した子供のミイラのように思えて、ぎょっとする。
「まさかと思うけれど、あれが人形なんじゃない?」
「まさかじゃなくて、そうだと思う」
それは玄関の扉の前に佇んでいる。
そして、それは怒っていた。
気泡緩衝材にぐるぐる巻きにされているので人形の顔は見えないが、感じるのだ。人形を中心にドス暗く重苦しい空気がゆっくりと渦巻いている。
思わず回れ右をしかかったが、ここまで来ておきながらそんなことをするわけにはいかず、夢月と友香は人形が置かれた玄関へと歩み寄った。
玄関扉の横に着けられたインターホンに部屋番号が書かれている。やはりそこが目的の部屋だった。
夢月が腕を伸ばして、人形にぶつからないように気を付けながらインターホンを押した。
『はい』
「大伴です。取りに来ました」
『そこにあります。持って行ってください』
プツとインターホンが切れる音がする。部屋の主は姿を見せるつもりがないらしい。言葉も素っ気なく、なんというか、感じが悪い。
「仕方がないよ、友香。そんだけ人形が怖いってことだよ。てか、実際めちゃくちゃ怒ってて怖いし」
「うん」
怖い。……だけど、この怖さは『怒ってて怖い』の怖さだ。
お母さんが怒ってて怖いとか、先生に怒られて怖いとか、そういう怖さと同じだ。
昨年末、友香は雪女と遭遇したのだが、その時の恐ろしさは命の危機を感じる怖さだった。見つかったら殺されるー‼ というものだ。
人形から感じる怖さにはそういう命の危機は感じられない。怒っているお母さんや先生に殺されるとは思わないのと同じだ。
また、人間は正体が分からないもの、己が理解できないものに対して恐怖を感じるものだが、それらの恐怖とも違う。たしかに、普通の人形は怒らないもので、そもそも感情はないものだと考えられているのに、それが『怒っている』のだから不可解なことに違いない。
怒っている人形は不可解で怖い。そう思って当然なのだが、不思議と友香には不可解さの恐怖はなかった。
「どんな人形なんだろう? 見てみたいね」
「友香もそう思う? 私もだ。うわぁっ怒ってる、近寄りがたい、っていう感じもあるんだけど、怖いもの見たさっていうの? 人形が怒っている相手が自分ではないから好奇心がうずくっていうか。この人形ってさ、たしかに怒ってて怖いけど、嫌な感じはしないんだよなぁ。――ここじゃあ開けられないから早く帰ろう」
うん、と頷いて友香は夢月が台車に人形を乗せるのを手伝った。
来た道をなぞるように戻り、ガラガラと台車を転がしながら電車に乗った。
帰宅ラッシュ時間が迫っているのか、来た時よりも電車の中が混んでいる。となると、台車がなかなかのスペースを取るので肩身が狭く、乗っていて居心地が悪い。早く乗り継ぎ駅に着くことを祈って夢月と友香は黙って時間をやり過ごした。
一方、黄色い電車はと言うと、そこはいつものように乗客が少なく、のんびりと座席に座ることができた。
都心からの帰りにこの黄色い電車に乗ると、もう家に着いたような気持ちになるのは、のんびりと寛いで座れるからだ。夢月と友香は隣り合って座り、数十分ぶりに口を開いた。
「どういう人形なのか聞いてる?」
「あんまり。……代々、女系祖先から女系子孫に受け継がれている人形っていうことくらいかな」
「女系? ええっと、つまり……お母さんから娘?」
「そう。息子は受け継げない」
「珍しいね」
「今どき、代々受け継がれている物があるっていうだけでも珍しいけど、それが女系ってなると、かなり珍しいね。ひな祭りに飾る人形らしいよ」
「ひな祭りに? お雛様なのかなぁ」
ごくごく一般的な雛人形をイメージして友香が言うと、夢月が悪戯っ子の笑みを浮かべて言った。
「市松人形かも」
「市松人形って?」
「おかっぱ頭で振袖を着た、五、六歳くらいの女の子の人形だよ。本当は一人の女の子に対してひとつのお雛様が必要なんだけど、昔って子だくさんじゃん? 女の子が四人も五人も生まれたら、お雛様が四セットも五セットも買わなきゃいけなくなる。金銭的にも厳しいし、スペース的にも無理じゃん。だから、長女には雛人形を買って飾り、次女以降は市松人形を買って飾る風習のある地域もあるらしいよ」
「へえ」
「だから、市松人形も雛人形と同じで、持ち主に代わって災厄を受けてくれる身代わり人形なんだ」
「……ねえ、もしかして市松人形って、『日本人形』と聞いて、誰もがイメージする人形のこと?」
「誰もがかどうかは分からないけど」
「よくテレビのホラー特番で髪の毛が伸びてる人形でしょ?」
「そうだね。持ち主の厄を受けて、そういう現象が起きることもなくもないからね。ああ、あと、もともと市松人形は着せ替え人形で、昔は女の子の遊び道具っていうだけじゃなくて、お金持ちの大人の男が、現代のフィギュア的な感覚で、着せ替えを楽しんでいたらしいから、そのへんの情念が宿っている人形もあるかも」
「こわっ‼」
別の意味で怖い!
お金を持て余した男が、五、六歳の女の子の人形を着替えさせて楽しんでいる姿を想像してしまった。
なんて恐ろしい……。
そうこう話しているうちに電車を降りる駅に着いた。
駅から先詠神社まで瞬間移動できればラクなのだが、夢月は瞬間移動があまり得意ではないので、台車をガラガラ押しながら歩く。
先詠神社の一の鳥居の前まで帰り着くと、ようやく夢月は友香に向かって右手を差し出した。その手を友香が握ると、もうそこは夢月の自宅の玄関前だった。
「ただいまー」
玄関の引き戸を引き開けながら夢月が言う。返事があるまでしばらく間があって、家の奥の方から、おかえり、と美月の声が聞こえた。
「お客さんかなぁ」
土間に男性の靴が並んでいる。革靴もあれば、スニーカーもあって、全部で六足あった。
夢月はすぐに、ああ、と言った。
「兄ちゃんがいないから、あの人たちが来ているんだよ。ほら、姉ちゃんの」
「求婚者さんたちね」
友香も合点がいって頷いた。
美人というだけでも引く手あまたな美月なのだが、九狼一族にとっては美人以上に得難い価値をもっている。つまり、妖怪の血が濃いということだ。
双子の華月が先詠神社の跡取りであるなら、美月は先詠神社から他に嫁ぐことが定められている。
となれば、ぜひにと手を上げている一族の者は多く、美月が誕生した時から美月の嫁ぎ先は一族の争いの種だった。
特に本家から血筋が遠い者ほど必死である。本家が一族の頂点であり、最強の力を持っているということは、そこから遠ざかれば遠ざかるほど妖怪の血は薄まり、力が弱まっているものだからだ。
弱まってしまった血と力に焦り、ここいらで妖怪の血を濃く持つ娘を嫁に迎えたいという彼らの想いは切実だ。
求婚者本人よりもむしろその家族――大人たちの方が必死になって美月との婚姻を望んだ。
大人たちが争い続けているうちに美月は自分の意思を他人に告げられるような年齢になっていた。ならば、結婚相手は彼女自身に選ばせようということになった。もはや、大人たちでは遺恨なく解決することが不可能な状況になっていた。
ところが、美月は求婚者たちを一同に集めてニコニコとするだけだった。そして、今日に至る。
「このことについては、姉ちゃんが何を考えているのか誰にも分からないんだよ」
誰が好きなのか、誰なら嫁いでも良いと思っているのか、美月は自分の思いを口にしない。
そのため、美月は生れた当初は十四人ほどいた候補者は、もう待てないと言って年々減り、今では五人までに減っている。
当初の十四人の中には、最年長で十七歳差、他にも十歳以上年の離れた者が何人もいたらしいので、美月が是と言うのを待てないのも致し方がない。
残った五人の求婚者たちは比較的美月と年齢が近い。幼い頃から華月や美月と一緒に遊び、育ってきた者たちだ。
「あともう少しで決まりそうって気もするんだけどね。わかんない」
弟としては、姉の結婚相手が誰に決まるのか気になるようだ。
「夢月は誰がいいとかあるの? お義兄さんになるわけじゃない?」
「うーん。……どうだろう。分かんないや。そもそも姉ちゃんが『嫁ぐ』っていうのがイメージできなくてさ」
シスコンだもんね、と友香は心の中で返した。
美月は夢月にとって姉である以上に『母親』だ。実母が妖蛇のため、実母では行き届かない世話を美月があれこれ焼いてくれている。
そんな姉が家から出ていく日が来ることが夢月には想像つかないのだろう。
「ありがとう。人形、重かった?」
足音が聞こえ、玄関からまっすぐに伸びた廊下に美月が姿を現す。
「重かった。――で、どうすればいいの?」
土間から上がらずに夢月が問う。
彼女は玄関までやって来て、台車に紐で括り付けられている人形を見下ろした。
「……怒っているのね」
ぽつんと呟くように言ってから、居間に運ぶようにと夢月に言った。
「開けていい? どんな人形なのか見てみたい」
「いいわよ。そのままでは可哀そうだもの。そうそう、夕樹くんが来ているわよ」
「え、夕樹が?」
夢月は驚いたように美月の顔を見上げたが、すぐに思い至って、ああ、と言った。
夕樹の兄が美月の求婚者のひとりなのだ。一緒にやって来たのだろう。
「夕樹のやつ、自分にもワンチャンあると思っているんじゃない?」
「さあ」
美月はにっこり笑みを浮かべてから五人の求婚者たちが待つ客間の方へ引っ込んでいった。
おそらく夕樹のワンチャンはない。そんな笑みだった。
夢月と友香は人形を台車に縛り付けていた紐を解いて台車から下すと、二人で抱えて居間に運び入れた。