ハロウィン・キャッツ
海外に商談に行ったビジネスマン高井が、小さな死神に出会って姿を猫に変えられてしまった!
猫になったショックより、明日の商談が心配だー!
猫の特性を生かしてがんばる、社畜・高井=アメショのグレンの活躍を楽しんでくださいませ。
この作品は、ブログ「なせばなるかも」に推敲前のものを掲載しています。
ハロウィン・キャッツ
人は誰も、人生に一度ぐらい自分でも信じられないような出来事に遭遇するという。これは、俺に起こった不可思議な出来事だった。
俺は大口の商談がかかったプレゼンテイションに臨むべく本社のあるアラン共和国の地に赴き、本社に程近いコンドミニアムに滞在していた。アラン共和国は大陸内部の小さな国で、国土の多くが自然豊かな森で占められている。しかし、中心部は美しく整備されたビジネス街で、自然との調和がとれた計算された街が広がっている。今回俺が滞在している場所も、ビジネス街からすぐの場所にあるというのに、大きな森林公園に隣接している。まるで別世界を思わせる景色に包まれていて、十分に俺を楽しませてくれた。
本番のプレゼンはいよいよ明日だ。書類も資料もすべて整っている。俺は日本から持ってきた器具でじっくりと濃いコーヒーを淹れて、仲間と成功を誓い合った楽しい酒の酔いを醒まそうとしていた。カップを片手にベランダに出ると、冴え冴えとした月が輝いている。
ふいに、ドアをノックする音がした。そっとドアを小さく開くと、見覚えのない小さな死神が、チェーンのかかったドアの隙間をするりと抜けて入ってきた。大き目のマントを被り、顔のほとんどがフードの中に隠れてしまっている。幼さの残る口元がふいに動いた。
「トリック、オア、トリート」
「そうか、今夜はハロウィンだったか。」
だが仕事で出向いた異国でのことだ。ハロウィンのお菓子など用意しているはずもない。俺は仕方なくミントの入った小さなケースを差し出した。だが口臭予防のミントなど子どもの口に合うはずもない。幼げな口元がにやりとゆがみ、手にしていた大鎌を振り上げた。
「何をするんだ! あぶないじゃないか!」
反射的に身体を庇おうと腕を翳したが、なんの手応えもない。緊張したままそっと腕を下ろした時、すでに小さな死神の姿はなかった。チェーンのかかった扉からは森からあふれ出る冷たい夜風が入り込んで来るばかりだ。忽然と消えた、そんな感じだった。
そこから自分の身体の変調に気づくまで、そんなに時間はかからなかった。まず、ドアを閉めようとして、それがいかにも巨大なドアになっていることに驚いた。今まで過ごしていた部屋とは到底考えられない。奴はいったい何をしたんだ。ソファが、クローゼットが、自分のスーツケースが、みな巨大になっていたのだ。
ウソだろ。いや、今日は飲みすぎたんだ。早いとこ、寝てしまおう。明日にはこの出張のメインイベントである重要な会議が開催される。自分の資料にはさっき目を通しておいたし、あとはきちんと睡眠をとることだろう。俺は自分にそう言い聞かせてベッドへもぐりこんだ。
翌朝目が覚めると、いつものようにシャワーを浴びようとバスルームに向かった。巨大になってしまった部屋の中は目覚めても変わりなかったが、外に出てしまえばなんという事もないだろうとタカを括っていたのだ。だがそうはいかなかった。蛇口をひねる事すら、俺にはできなかったのだ。
蛇口の届く所まで行くと、そっと手を伸ばす。銀色によく磨かれた蛇口の取手に手を掛けるが回らない。いや、回せないのだ。なんだかいつもと違う。指が動かないのだ。ゴムのような丸いものがはりついている。蛇口に手を乗せると、自然に奥から爪がにゅっと伸びる。
爪が、だ!
俺は驚いて自分の手の平を観察した。丸い肉球にするどい爪。
な・ん・な・ん・だ・こ・れ・は!
俺はしばらくその丸い肉球を眺めていたが、無性に顔を洗いたい衝動に駆られ、無意識に耳から額、まぶたへと円を書くようにその肉球でマッサージした。それが事のほか心地いい。自然にノドがゴロゴロなった。
ノドがゴロゴロだって?!
俺はすぐさま洗面台の鏡のまえに飛び移った。そして自分の今現在の姿を目の当たりにしたのだ。グレイがかった縞模様のはいったごく普通の猫がそこにはいた。
しばらくは自分のような気がせず、ぼんやりと眺めた。しかし、すぐにゆっくりとしっぽがゆれ始める。参った、ちょっと気を抜くとすぐに猫の習性に負けてしまうらしい。
えらいことになった。ホテルのロビーに連絡して、病院にでも連れて行ってもらおうか、いや、会社にも連絡しなければ。まさか猫のままで会議には出られまい。部屋の電話に跳びついて、受話器を上げボタンを押す。ほどなくフロントが答えてくれた。
「もしもし、にわかに信じてもらえないだろうが、突然身体がおかしくなってしまって……」
俺は自分に思いつく限りの言葉で説明したが、フロントの声は冷たかった。
「もしもし? 困りますねぇ。室内に猫を連れ込まないで下さい。すぐにそちらに向かいますので、猫を捕まえておいてください。なんでしたら、ペットホテルを紹介して差し上げます。」
どういうことだ。なぜ猫だとわかる?電話で俺の姿が見えるわけでもないだろうに。
「どうしてわかったんだ? いや、そんなことはどうだっていい、頼むからどこか病院を紹介してくれ。」
言いながら、さっきから何処かでねこが鳴いているのに気が付いた。
いや、どこかではない、ここだ。
さっきから聞えていたのは自分の声だったのだ。どうりでフロントがあっさり猫だなんて言ったはずだ。ああ、そうだったか。いや、しかし今は感心している場合ではない。フロントの人間が来る前に、ここに部屋を借りている俺つまり高井忠信が、この猫を隣町にオフィスを構える仕事仲間サムのところに届けて欲しがっていることを伝えなければならないのだ。
俺は造り付けのデスクの下に回り込み、下からジャンプして引き出しを押し広げた。幸いにも引き出しは簡単に開き、昨夜使ったまま置かれていたペンも使うことが出来た。
ペンのふたがなかなか開かない。両足の肉球を使い、なんとかふたをもぎとると、今度は文字を書かなければならない。なんとか後足でペンを杖替わりにして立ちあがると、震える文字で送り状と記入した。それから大急ぎで持参していたノートパソコンを開き、サムにメールを送った。
「サム、急な頼みがあるんだ。セントラルホテルから猫と書類の束を送るから、書類は今朝の内に本社のJ.ウイリアムの秘書、マージ―女史に渡してくれないか。それから…」
猫について記述するのになんだか抵抗があったが、あまり時間がなかった。かすかな躊躇いをのりこえ続きを打ち込む。肉球はキーボードを打つのに案外適しているのかもしれない。
「それから、猫の方は俺の大切なペットで、君にだけは打ち明けるが、人間の言葉がわかるんだ。彼にはいつもノートパソコンを使えるようにしてやってくれ。それで俺の仕事を仲介してくれることになっている。俺自身がそこに行ければ問題なかったんだが、ちょっとした事故に巻き込まれてしまって動けないんだ。頼む!どうか俺の頼みを聞き入れてほしい!」
サムはいつも陽気な男だ。本社では警備の仕事を担当している。本社の中には彼らのような仕事をする者をばかにする奴もいるが、俺は本社に出向く時はいつだって、サムに挨拶をかかさなかった。なにがどうということはなかったが、なにか全てを心得てるというか、器の大きいところが俺を惹き付けた。
メールを送信し荷物を片付けていると、ホテルの従業員がやってきた。
「失礼いたします… あ、この猫か。ん?送り状?」
よしっ、どうやら気付いてくれたようだ。俺はやっと気持ちを落ちつけて、その従業員の腕に抱きとめられ、彼の持ってきたケージの中に大人しく収まった。
サムの家は快適だった。猫が来たことでサムの娘、キャシーには随分猫かわいがりされたが。
幸いにも、会議はマージ-女史の采配でうまく事が運んだようだ。俺の準備しておいたプレゼン用の資料は彼女の聡明な判断でアレンジされ、喝采を浴びたらしい。
先日、彼女がサムの家に寄った時、その栄光をタディ自身に浴びてほしかったと、彼女には珍しく興奮した様子で語って行った。俺を膝に抱き、頭を撫でながらだ。
俺の失踪については何度か話題に上がったものの、誰もそれを解き明かすことはできなかったようだ。ただ、本社内では、ハロウィンに猫と書類を残して姿をくらました、不思議な東洋人の噂だけがささやかれているようだった。なかには、事故で顔を大やけどしたに違いないなどとまことしやかな噂を流すやつもいたようだ。それでもメールのやりとりが出来ているので、仕事がなくなる事はなかった。日本支社の幹部連中はしばらく問題視していたようだったが、電話や会議に出ない代わり仕事はきちんとこなすヤツとして、今は様子見の状態のようだった。もちろん、それには今回の本社会議の大成功が大きく関わっているのだろう。
ある夜、サムが部屋の隅に作られた俺のコーナーに歩み寄ってつぶやいた。
「なあ、おまえ。タディはいったいどこにいるんだ? 今までの努力が実って、やっと本社のヤツらもタディを評価しているっていうのに、いま奴が本社に顔を出してくれたら、どんなにかうれしいのに。」
残念そうなサムの表情から、俺の扱いを巡って本社でもいろいろ話題に上っているのがわかった。今のところ、何の通達もないところをみると、マージー女史がうまく取り繕ってくれるのだろう。だがそれにも限界がある。そろそろこちらも動き出さないといけないだろう。俺はノートパソコンを開き、ワードで文章を打ち出した。
「忠信はどうしても顔を出せない事情をかかえている。でも、メールのやり取りは可能だ。彼になにか提言してもらえるなら、ありがたいよ。」
「驚いたなぁ。タディからお前が話せることは聞いていたが、まさか英語がしゃべれるとは知らなかったぜ。じゃあ、1つ頼みがあるんだ。俺はパソコンには弱いんだ。ヤツに元気でいるのかと伝えてくれないか。この平べったいパソコンで送れるんだろう?」
「sure」
サムはホッとしたように肩の力を抜いた。それを横目で見ながら、おれはノートのoutlookを開いた。肉球でカタカタキーボードを叩くと、サムが興味深げに眺めていた。
俺は、サムにも分かるように英語を使って俺自身宛てのメールを打ち込んだ。そして、最後に署名として、グレンと記した。送信ボタンを押して振り向くと、サムはひゅーっとかるく口笛を吹いた。
「やるじゃねえか。お前、グレンっていうのか。よろしくな、グレン。」
サムは俺のちいさな右前足を掴んで、握手するようにかるくもてあそんだ。
サムの家に居候して2週間が経とうとしていた。一時期は人間に戻るすべはないかと随分いろいろ調べてみたが、こんな突拍子もないことに巻き込まれた人間なんて、そうはいない。これといった資料も見つからないまま時間だけが過ぎていった。
それに、もう猫の生活にも随分なれた。決まった時間に出社しなくていい分、精神的には随分楽になったのかもしれない。生まれ変われるなら猫になりたいという人がいるが、あながち間違いではないような気がした。
今はただ、いつか人間に戻れると信じて、高井忠信である自分を見失わないようにするだけだ。
朝、サムが朝食を摂る7時を見計らって台所に出向き、キャットフードとミルクを頂く。
「うっ、今朝のミルクは熱すぎだ!」
クリスティーのくれるミルクはいつもながら要注意だな。サムを見送ると、しばらく朝寝を決め込む。この時間にうろつくと、キャシーに見つかってひげをいじられたり、前足を握り締めてダンスを踊らされたりと大変な目に遭うのだ。サムのワイフ、クリスティーがキャシーを学校に送りだし仕事に出かけると、家の中は無人になる。それからが俺の自由な時間だ。
この2週間の間にサムが作ってくれた俺専用の小さな扉を押し上げて、外に抜け出す。この辺りは本社から車で20分ほどの所になるはずだが、信じられないくらいのどかで自然に満ちたところだ。
サムの家の前を右に曲がって少し歩くとこの街のメインストリートに出くわす。それを再び右に曲がるとすぐに大きな樹木の生い茂った広い公園の敷地がある。
綺麗な落ち葉を踏み越えてお気に入りのベンチの上に飛び乗ると、そこだけ日溜りになっていてぽかぽかとあたたかさに溢れている。ゆったりと座って見晴らしのいい公園を眺めていると、すぐに睡魔が覆いかぶさってくるのだ。
仕事のメールはいつも午後からしか送られてこないから、午前中はしっかりと睡眠をとるのだ。11月半ばだというのに、今年は随分暖かい日が続いている。猫にとっては最高の気候だ。
遠くで時計台の鐘の音が聞えて来ると12時だ。まだまだ眠いがそろそろ仕事にかからないといけない。俺はまだ眠りから覚めきっていない身体を起こしてベンチから降り立った。
「よう! 今日もご出勤かい。」
声をかけてきたのは公園の反対側にある手芸屋の猫、チェックだ。ここに来て最初に知り合った猫だが、チンチラの長い毛が優雅に見えるが、奴は人間でいうところの70すぎのじいさんだ。きれいなチェックのリボンが笑いを誘うほど、奴はオヤジくさい性格をしていた。
「今日もチェックのリボンをつけられたようだな。」
俺が水を向けてやると、大層なため息が返ってきた。
「まったく、ばばぁの趣味にも困ったもんだ。年寄りのワシにリボンなんぞ似合わないのに。人間ってやつは、猫が年をとらないとでも思っているんだろうかのぅ。おまえさんも気を付けな。最初が肝心だからな。うっかりご機嫌とりなんぞしようもんなら、次々余計なものをつけられるからな。」
俺は、気をつけるよと頷いてチェックにベンチを譲ると、サムの家に引き返した。猫の世界もいろいろあるもんだ。
サムの家にもどると、クレアが出勤して来たところだった。クレアは50代の温和な女性で、サムの家の家事やキャシーの下校後の世話をしてくれる家政婦だ。そして本当の猫好きでもある。やたらと抱きついたりせず、ちゃんとこちらの意志を見ぬいてくれる。大した女性だ。
「あら、グレン。おかえりなさい。お仕事前に、ミルクはいかが?」
クレアは時々ドキッとするようなことを言う。俺はにゃあと鳴きながら、クレアの足にまとわりついてみせた。クレアはそれがとても嬉しいのか、満面の笑みでトレイにミルクと崩したビスケットを入れてくれる。
熱いブラックコーヒーをいただきたいところだが、猫にコーヒーを飲ませる家は少ないだろう。人肌に温められたミルクは俺の好みにぴったりだ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。コーヒーを飲むように俺はいつもクレアの入れてくれたホットミルクを香りから楽しむようにしている。これは人間の時からのくせだ。
ビスケットとミルクをさっさと平らげると、俺はサムの部屋へと戻って行った。案の定、仕事のメールが届いている。会議のために、自分のもっていた重要なデータは全部CDに焼きつけて持って来ていた。お陰で人目さえしのべれば、ちゃんと仕事も出来るというものだ。
仕事が一段落した頃、変なメールが届いた。内容は空白でタイトルも「HELLO」のみだ。すぐにウイルスチェックが稼動し、幸い大事には至らなかったが、危ない所だ。日本にいた頃からこういった類のメールはあったが、このアドレスはとても特殊なもので、会社関係者以外にはもらしていない。俺はすぐ、送信者を調べた。
見覚えのあるアドレスではなかったが、念の為検索してみた。今までに名刺交換しているか、なにかで交流のある人物ならすぐに割り出せるはずだ。
やはりあった。J.ウイリアムの部下でK.マクレガーだ。彼は2年ほど前に他社から転職してきた人物で、大柄で目つきの鋭い赤ら顔がいかにも野心家といううわさに似合っていた。まして、先日の会議でのマージ-の活躍に対して出しぬかれたと回りの人間にもらしていたとも聞いていたところだ。何事もおこらなければいいのだが。いやな予感がする。
俺は早速マージーにウイルス警報を打診したが、やつのことだ、きっと同時にマージーや俺たちの仲間に一気にウイルスをばら撒いているに違いない。
しばらくして、マージーから返信が届いた。案の定、ウイルスはばら撒かれていたが、ワクチンのおかげでダメージはほとんどないとのことだった。しかし、今度はそのウイルスがマクレガー自身を陥れるために俺がやったのだとマクレガーが言い出したというのだ。本人が現れないのをいいことに、随分やりたい放題やってくれるじゃないか。転職以来、おとなしくウイリアムに従ってきたやつだったが、そろそろ本性を現したというわけか。俺はパソコンを閉めると、マクレガーが以前働いていたMM社近くまで足を運ぶことにした。
いつもの公園通りを横断しているすぐそばを、猛スピードで車が駆け抜けていった。もうちょっと気づくのが遅かったら巻き込まれていたかもしれない。まったく油断もすきもないものだ。あっという間に小さくなって、タイヤをきしませながら左折していくエメラルドグリーンの車体をにらみつける。
MM社は俺たちが働くS&U社のライバル会社で、いつも商品開発において凌ぎを削っている間柄だ。そんなところからのこのこ転職してきたこと自体、わが社内では良からぬうわさのタネになっていたのだ。マクレガーはウイリアムの親族にうまく取り入って引き抜かれたようなことを言っているらしいが、ここはきちんと調べた方がよさそうだ。
MM社まではうちの本社より5Km遠くなるが、そんなことを言っている場合ではない。ビルとビルの隙間をひた走り、MM社の通りまで出るのに1時間はかかった。日は傾き、そろそろ気の早いOLたちが化粧直しに取り掛かる頃だ。
俺はMM社の裏口に回り、業者の出入り口に陣取って様子を伺った。5時を回り商品の入出庫のトラックが一段落したのか、警備の人間ものんびりコーヒーなど飲んでいた。
「お、珍しいなぁ。こんなところに猫が迷い込んできたぞ。」
初老の警備員が俺を見つけて仲間に声をかけていた。
「かまうなよ。野良猫なんぞに住み着かれちゃかなわない。」
どうやらもう一人の方は猫が嫌いらしい。ここはいったん引き上げてMMビルの周りを視察させてもらうとするか。
俺は何食わぬ顔でビルの周りを走りぬけ、正面玄関へとまわった。物陰で様子を見ていると見覚えのある顔がビルを出てきた。同じ業界にいるとどうしても顔見知りが増えるものだ。厳しい顔つきで出てきた男はマクレガーと同じ部署にいたスタンリーだ。業界全体で催す見本市などでは必ず顔を合わせる好感のもてる人物だ。そのスタンリーが随分悩んでいる様子だった。
俺は静かに彼の後を追ってみた。
「先輩、元気出してくださいよ。しょうがないじゃないですか。マクレガーさんにはマクレガーさんのやり方があるんだし、僕たちには僕たちのやり方があるんですから。それに、この計画はもう2年も前から動き始めてしまっているんです。今更止めるなんで無理ですよ。ボスも承知の上でやっているんでしょ? それよりどうです?これから一杯気晴らしに飲みにいきましょうよ。」
後ろからやってきたスタンリーの後輩らしき若者が彼を励ます。やがて手を挙げてタクシーを止めると、落ち込むスタンリーを押し込めて自分も飛び乗り雑踏に消えた。
2年前から始まっている計画? 2年前と言えばマクレガーが転職してきた時期と一致する。いったい何を企んでいるんだろう。
俺はスタンリーを追うのをあきらめて、再び警備員室を訪れた。ちょうどさっきの初老の警備員が一人になっているところだった。
「よう、また来たのかい?」
初老の警備員は明るく声をかけてきた。俺はにゃーと愛想よく返事するとさっさと切り上げてサムの家に帰ることにした。しばらくはここに通うことになりそうだ。
サムの家に帰ると、中はなんだかどんよりと暗くなっていた。家政婦のクレアが困ったような顔つきで俺を出迎えてくれたが、なんとなく様子がおかしい。俺は急いでサムの部屋に向かった。室内は真っ暗だったがサムはベッドに寝転んでいるようだった。
「にゃー」
声をかけると、サムはがばっとおきだして俺を捕まえるなり早口でまくし立てた。
「グレン、大変なんだ!誰かがタディを、ウイルスばら撒き犯に仕立て上げようとしているんだ。あれは絶対にマクレガーの仕業に決まっているんだ。前から信用できない奴だと思っていたけど、ウイリアムがいない間にいったい何をしでかす気だ。今日は会社のコンピュータのデータを盗もうとしただろうってえらい剣幕で俺に捲くし立ててきた。人事部の連中はそんなこと鵜呑みにしているわけじゃないが、事が事だけにしばらく様子を見たいとさ。おかげでしばらくは自宅謹慎だ。冗談じゃないぜ。早くタディにメールで伝えてくれよ。ウイリアムは週末までオーストラリアに出張中だし、マージーはこんなときに限って交通事故に巻き込まれて入院しちまうし。」
正直言って、やつの動きの早さには驚いた。いや、なにもかも計画通りなのかもしれない。下手をしたら今頃人事部にも手を回しているかもしれない。社内の会議室は常時カメラが動いているから、使わないだろう。奴ならクラブあたりか。それに、マージーは大丈夫なんだろうか。俺はいそいでパソコンを立ち上げた。そして、サムにマージーの事故状況や病院を教えてもらった。
俺はもどかしい気持ちを抑えて俺宛のメールを打ち、そしてサムにマクレガーの行きそうなクラブへ連れて行ってくれと頼み込んだ。
「なんだよ、いきなり。お前さんが探偵にでもなるつもりか?」
もちろんだよっと、笑って見せたつもりだったが、サムに通じたかどうかは分からない。だが、しばらく俺の目を見ていたサムは、よしっと立ち上がった。
「じゃあ、俺がそのパソコンを持っていこう。グレンは俺の上着の内側にでも隠れてろよ。」
サムはすぐに出かける準備をし、俺を上着の中に押し込めて夜の街へと車を走らせた。
MM社の近くの飲み屋をしらみつぶしに探した。夜の匂いが俺の毛並みを湿らせるが、こういうのも悪くないと思った。
何軒目かのクラブで、マクレガーと2人の男たちが飲んでいるのに出くわすことができた。一人は人事部長のジーン、もう一人はその部下のケインだ。
「どうする?店内に入ってみるか?」
サムの質問に、俺はパソコンで答えた。
「サムはこのままこの近くで待機していてくれ。僕はほかの客にまぎれてやつらの足元まで行ってみる。」
「おい! 大丈夫なのか?」
後ろでサムの声が聞こえていたが俺はその上着から飛び出していった。
店の前で毛づくろいをして皮の首輪を整えると、客が流れ込んでいるところにまぎれてそそくさと店内に入った。店に入るとこそこそするのはうまくない。ドロボウ猫と思われては、つまみ出されてしまうのだ。俺は堂々とした態度で尻尾をピンと立て、うまくマクレガーの足元まで潜入することに成功した。
「珍しいね。君が私たちを誘ってくるなんて。」
ジーンがマクレガーに水を向けているところだった。
「いえね、僕はご存知のとおり競合相手のMM社から転職してきたわけだし、どうしても変なうわさを立てられてしまいますけど…、そう、誤解を解いておきたかったのです。
僕はこれでもウイリアムさんの強い要請でこの会社に引き抜かれたのですよ。それに社長のお嬢さんとは同じ大学で学んだ仲間なんです。わが社に損害を与えるようなことをするわけがないでしょう。それどころか、今まで培ってきたノウハウをこの会社でも存分に発揮して、盛り立てていこうと思っているんですよ。」
まったく、言いたい放題だ。そんなことを鵜呑みにするほど人事部の人間はバカじゃあるまい。
「ところが、どうもそれをおもしろくないと思う連中がいるようなんです。
この前のプレゼンではこちらの情報がどう盗まれたのかしらんが、まるっきり横取りされてしまいました。その次はウイルス騒ぎじゃないですか。この会社はいったいどういう管理をしているんです。これじゃ安心して仕事が出来ないですよ。週末にはウイリアムさんも帰社されるし、それまでにそういう不穏な動きをきちんと始末しておきたいのです。」
「随分な言い方ですね、マクレガーさん。まるでわが社にスパイでもいるかのような言い方だ。」
ケインがむっとしたように発言した。ジーンはそれを抑えてマクレガーの意図を探ろうとしている。
「何が言いたいんだ。」
「さすが、話が早いですね。もうスパイの目星はついているんです。その連中を会社から遠ざけてほしいのです。もちろんただとは言いません。こちらもそれなりの報酬を考えています。」
マクレガーは口元をにやりとゆがませた。
「報酬だって? われわれは君からそんなものを受け取る覚えはない。スパイがいるかどうか、そしてそれが誰なのか、それは私たちが調べて決断をくだす。君が指図することじゃないだろう。」
「ほう、随分強気ですねジーンさん。でも、僕だってなにもなしに言っているわけじゃないんですよ。ジーンさんの奥さんはもう長いこと病院にいらっしゃるそうですね。入院費だってばかにならないでしょう。そんなお金、どうしてらっしゃるんです? ケイン君、君は先週西海岸までドライブに行ったんだってね。随分派手に遊んだそうじゃないか。僕の友人にそちらで警官をやってるのがいてね、いろいろ教えてくれたよ。若いからって無茶してはいけないな。会社に傷がついてしまう。お二人ともよく考えていただいた方がよさそうですね。まぁ、お答えは今度で結構です。では。」
マクレガーはしたり顔で席を立つと、さっさとクラブを後にした。ジーンとケインは蒼白な顔でうなだれる。マクレガーのやつ、ますます侮れない。何もかも手配済みのご様子だ。ここはひとつ、名探偵グレンが人肌脱いでやらねばなるまい。他の客の足元にまとわりついてゆったりとした足取りで店を出ると、すぐさまサムの胸元に飛び込んだ。
すぐさま膝の上のパソコンを開けるよう催促した。
「今日はとりあえず家に帰ろう。明日は謹慎で出社しないんだろ?悪いけどこれから言うとおりにうまく動いてほしいんだ。マクレガーはとんでもない奴だよ。俺たちで奴の化けの皮をはいでやろうぜ。」
「さすがはタディの猫だ。いい乗りしてるぜ、まったく!」
サムはうれしそうにウインクして見せた。
「その前に、ちょっとマージーを見舞いたいんだ。どうも今回のウイルス騒ぎとマージーの事故がどこかでつながっているような気がしてしょうがない。サムからうまく事故の時の状況を聞きだしてくれないか?」
「いいねぇ。俺もマージーのことは気になってたんだ。今からならギリギリ間に合うだろう。行ってみよう!」
推敲ここまで
俺たちは早速サムの車に乗り込み、マージーの入院する病院へと急いだ。面会時間は7時までとなっている。あまり時間はなかった。
俺を上着の内側に隠したサムが面会を求めて受付に行くと、受付嬢は上辺だけ申し訳なさそうに面会謝絶だと断った。
「おかしいなぁ。単純な追突事故で軽い打撲だって聞いたんだが…」
「失礼ですが、患者さんとはどういうご関係ですか?」
戸惑っているサムに受付嬢は追い討ちをかけるように問いただした。
「いやぁ、ただの仕事仲間だよ。しかし、それじゃあだいぶ重症だな。また来るよ。あ、そうそう。ちょっとトイレ借りていい?」
「トイレなら、そちらの階段を上がられて左側です。」
サムは軽く手を上げて礼を言うと、そそくさと階段を上がった。そして回りに人がいないのを確かめて独り言のようにつぶやいた。
「よう、やっこさん。どう思う? 今のお嬢ちゃんの対応振りはちょっとうそ臭かったと思わなかったか?ここはひとつ外科病棟の捜索と行きたいんだが。」
「同感だね。単純に俺たちとの接触を遮断するためだけならいいが…」
「おい、それどういう意味なんだよ!」
突然サムに前足を掴まれて、全身の毛が総立ちになった。落ち着け!と言いたいがニャーとしか伝わらないだろう。俺は猫がするようにファっと警告してサムの手を振りほどいて続きを打ち込んだ。
「さっきの店でマクレガーが話していたんだ。奴には警察にも仲間がいるらしい。人事部のジーンとケインはそれぞれの弱みを握られてぐうの音もでなかったよ。
事故が起こってけが人が出れば、警察や救急車が来るだろう?どこそこの病院に連れて行けなんて、簡単に操作できるかもしれないじゃないか。ここまで用意周到なんだ、奴はなにかとんでもないことを企んでいるとしか思えない。社長のウイリアムは高齢だし、次に有力な人物が狙われてもおかしくはないだろう?」
画面の文字を読み終えたサムの顔色が変わった。俺の想像していることがやっと飲み込めたらしい。早々に外科病棟を探し当てると、病室の名札をチェックした。
「マージー・J・ヒューストン、ここだな。」
サムの合図でちょっと顔を出すと、目の前はごくありふれた個室だった。サムは静かにドアに耳を当て、誰も来ていないのを確かめると静かにノックした。
「はい。」
中から割りとしっかりした聞きなれたマージーの声がした。サムがそっとドアを開けると、マージーは柔和な笑顔で迎えてくれた。そうか、髪を落として肩の辺りでゆるく束ねていたのか。道理で雰囲気が柔らかいはずだ。
「随分ひどい目にあったんだな。大丈夫かい?」
「助かったわ。よくここまで来れたわね。この病院、どうも変なのよ。」
マージーは現れたのがサムだと分かると、待ってましたとばかりに機関銃のごとく言葉を発した。どうやら、今までだれも面会に来ていないらしい。
マージーの話によると、彼女は昨日、帰宅の際にスーパーに買い物に寄って事故に巻き込まれたという。と言っても単純な追突事故で、相手の車はすぐに逃走してしまった。
「ぶつかって焦るのはわかるけど、わざわざライトを上向きに切り替えて、こちらが相手の車を認識出来ないようにするなんて、なんだか胡散臭いじゃない? うらまれるようなことはした覚えがないんだけど、どうも変なのよねぇ。おまけにここの病院は…」
マージーは声を低くしてサムと額を寄せ合うような形でしゃべり続けている。どうやらこの病室に何かが仕掛けられていると感じているようだ。
彼女の話では、軽い打撲だと言うのに痛み止め以外の効能の分からない薬をやたら飲ませようとするらしい。確かにいつものマージーと比べるとろれつは回っていない。そのことに気づいたは今朝のことだったというから、彼女の判断はすばやい方だろう。昼食時以降の薬を控え、ぼんやりしたふりをしながら、病院の窓から周りの状況を探っていたというのだ。そして、近々この病院を脱出するつもりだと言い放った。
「私、看護婦同士が話しているのを聞いてしまったのよ。いつも薬を運んでくる看護婦あてに、マクレガーって名前の男性から頻繁に電話がかかってるって話しているのを。 マクレガーなんてどこにでもある名前なんだけど、どうもひっかかってしょうがないのよね。これって被害妄想かしら。」
マージーはちょっと悲しげに笑って見せた。被害妄想のはずがない、どんな薬を飲まされても、彼女の頭脳明晰ぶりは健在だと俺は確信した。
サムはその丸まった背中を軽くたたいて笑って見せた。
「もうちょっとの辛抱だ。もしも助けが必要になったら、とりあえず俺のところに連絡してくれよ!探偵チームサム&グレンがすぐに力になってやるよ。」
俺は上着の中で体中の毛を逆立てていた。なにが探偵チームサム&グレンだ!調子に乗りやがって!俺は前足のつめを少しだけ立てて、サムをつついてやった。
「おおっとそうだった。その事故のときや、病院に運ばれてくるときなんかに、なにかに気がつかなかったか?」
サムは何を勘違いしたのか、俺につつかれて気の利いた質問をした。
「何、それ? ホントに探偵でも始めたの? そうねぇ。私が寄ったスーパーからだと、このマクサイバーホスピタルよりジョンソンクリニックの方がはるかに近いはずだわ。それには救急隊員もちょっと戸惑っている様子だったわ。どこから指示があったのかは分からないけどね。なにかお役に立ったかしら?」
サムは大きくうなずくと、すぐに立ち上がった。
「ありがとう。よく分かったよ。マージーも脱出するときはくれぐれも気をつけてな。」
「あ、ねぇ! もしももう一度忍び込めるなら、女性用の外出着を持ってきてくれないかしら。あとサングラスとね」
マージーはすっかり元気を取り戻したようだった。
「サム! そういえば、もう一つ思い出したわ。この前のウイルス騒ぎの件だけど、あれはマクレガーの仕業よ。前の会議では随分でしゃばったまねをしたなって、自分で白状するようなメールを送ってきたの。もちろんしっかり保管してあるわ。ボスが帰ってきたらすぐにでも提出する予定よ。」
マージーはそれだけ言うとウインクを送って手を振った。さすがは才女、すでに証拠物件も手に入れているとは、恐れ入る。
サムの自宅に帰ると、クレア女史が心配そうに出迎えてくれた。なんでも、外出中に人事部のジーンから何度か電話が入っていたらしい。
俺は早速、ジーン宛にメールを送った。もちろん、サムが着替えに行っている間にタディと名乗ってのことだ。ジーンがそんなに簡単に悪事に手を染める人間とも思えないが、細君の6ヶ月にも及ぶ入院に疲れ果てているのも事実だ。こんなことでくじけてほしくはなかった。
あとはマージーに怪我を負わせた相手が分かればいいのだが、車の修理工場なんぞ、この街にはうんざりするほどある。気持ちばかりが焦るが、どこからも連絡がはいらないまま、夜は明けた。
俺はいつもどおり公園に出向き、ゆっくりと思考をめぐらせた。ウイリアムが帰ってくるのは2日後だ。このままマクレガーが一気に事を進めるのは間違いないだろう。
「どうしたんだ。今日はやけに怖い顔してるじゃないか。」
気がつくと、チェックが隣に座っていた。
「ん? ああ、あの猫かい? あれはシルバーって言ってね、ここから二筋南に行ったところにある修理工場の猫だよ。だけど珍しいねぇ。あいつ、午前中はめったに公園に出てこないのに、公園のゴミ箱漁るなんてどうしちまったんだろう。」
どうやらチェックは、俺が考え事をしていると思わずに、公園の向こう側にあるゴミ箱をにらみつけていると思ったらしい。気がつくと、公園の向こう側のゴミ箱でシルバーのトラ猫が残飯を見つけて引き釣り出していた。
「あいつはあれでも血統書付のアメリカンショートヘアとかで、随分飼い主にもかわいがられているって聞いてたんだけどねぇ。 悲しいねぇ。人間のわがままに振り回されるのはいつも猫だ。」
チェックはため息混じりに言うと、昨日飼い主がやっている手芸店にやってきた猫嫌いの客の話を延々と始めた。俺は適当に相槌を打つと、ゆっくり伸びをして立ち上がった。
「おっさん、悪いな。今日はちょっと用事を思い出したんだ。続きは明日聞かせてもらうよ。」
俺がそういってチェックの話をさえぎると、チェックもすぐに意図するところがわかったのか、にやりと笑って付け足した。
「わしの話はどうでもいいが、お前さん、なにか楽しそうなことでも企んでいるのか? シルバーの家なら二筋南に行ってガソリンスタンドを左の曲がった3軒目だよ。
どうせ暇にしているんだ。なにか手伝えることがあったら言ってくれ。これでもわしはここの最古参なんだ。情報収集には役に立つかもしれんぞ。」
チェックはいたずらっぽくウインクを投げて、俺を見送った。
たどり着いた修理工場は、想像通り忙しそうだった。初老の親父が若い工員にどなりつけている。
「それは後からでも間に合うって言ってるだろう! 先にこっちの車に取り掛かれよ。」
怒鳴りつけている後ろで電話が鳴り出した。
「はい。ああ、今塗装をしているところです。はいはい、しかしお客さん、今日中にこれを完成させるのはちょっと無理がありますよ。いくら積まれたって、できることとできないことがあるでしょう。はいはいはい。分かってますよ。努力してるんですから…」
おやじはげんなりした顔で電話の相手に相槌を打っていた。よほど急ぎの仕事らしい。工員たちもうんざりした様子でばらしたドアを運んでいる。陽の光を浴びてエメラルドグリーンに輝くラメの入った高級車のようだ。それをいきなり削り落とすと、マットは赤の塗装をほどこしてゆく。随分ひどい扱いだ。
「どういう趣味してるんだろうなぁ。俺だったら絶対エメラルドグリーンの方が高値で売れると思うけどな。」
「やばい仕事なんじゃねぇの? おやっさんもうんざりしてるじゃねぇか。いきなり事故車を持ち込んで、修理だ、色を変えろだ、しまいには2日以内に仕上げろだ。無茶ばっかり言ってるじゃねぇか。不景気でもなけりゃ、おやっさんだって請けない仕事だろうよ。」
「事故車って、人殺しでもしたのかな。フロントはぐちゃぐちゃだぜ。」
「ばーか。これは追突だよ。ほら、よく見ろよ。フロントバンパーに赤い塗料やブレーキランプの破片が残ってるだろ? それにしても、随分と派手にぶつかったもんだな。やっこさん、余所見でしてたのかな。」
「わざとぶつけたんだよ。相手を殺すつもりでさぁ。この赤い塗料とブレーキランプ、ちょっと証拠物件としてとっといた方がいいんじゃねぇの?」
工場のドラム缶の影で聞いていると、すぐ隣にチェックがやってきた。
「どうだい?収穫はあったかい?」
「ああ、爺さんのおかげでいい情報が入ったぜ。」
チェックはふふっと含み笑いをして、もう一つ情報を提供してくれた。
「さっきシルバーに聞いたんだが、昨日赤ら顔の図体のでかい客が来て、急ぎの仕事だと言って大金を置いていったらしいぜ。そいつの仕事が随分急ぎらしくて、飼い主は猫におまんまを与える暇もないんだとさ。」
「ひでぇ話だな。チェックのリボンをつけられてる方がマシって事だな。なぁ、爺さん。」
チェックはまったくだと言って笑いながら、公園へ帰っていった。
勢い込む若者に、年配の工員はちょっと肩をあげてみせただけで仕事に集中していった。若い工員にはどうも胡散臭さが残っているようで、車の窓から中の様子をうかがったりしていたが、すぐに見つかるようなあやしいものを発見することはできなかったようだ。赤い塗料か…。 マージーのカマロも赤だったっけ。赤ら顔の客に赤い車、そんな都合のいい話はないだろうが、その急がせぶりはどうもひっかかる。
俺はサムの家まで全速力で戻ると、すぐにマクレガーの住所を確認した。マクレガーはサムの家とは会社をはさんで反対側にある郊外の住宅地に住んでいたが、猫の足で行くには遠すぎる。俺は早速サムを呼びつけて、マクレガーの自宅に行ってみようと誘った。
「なんだよ、朝勝手に出かけてしまったと思ったら。なにか見つけてきたのか? 事情は途中で教えてもらおう。すぐに出発だ。」
サムは上着を片手にすぐに車に向かってくれた。マクレガーの車がエメラルドグリーンでしかもそれが昨日から自宅に帰っていないとすれば、事態はほぼ決定的となるだろう。
マクレガーの自宅はすぐに見つかった。瀟洒な住宅街の中でも、ひときわ派手さを伴ったヨーロピアンスタイルの庭とバラのアーチが目を引いたのだ。車庫は残念ながらガレージが閉じられたままで、中を確認することはできない。サムは適当なところで車を止めると、俺を手元に抱いて、人待ち顔で車に寄りかかった。しばらくすると、犬の散歩をする婦人に出会った。
「やぁ。こんにちは。賢そうなワンちゃんですねぇ。」
「こんにちは。あら、お宅の猫ちゃんも上品そうで素敵ですわね。」
婦人はペットをほめられて、すぐに笑顔になった。
「ところで、マクレガーさんのお宅はこの辺りですかねぇ。 今度庭をつくり変えようと思ってね、マクレガーさんがヨーロピアンスタイルを薦めてくれるもんで、見せてもらおうと思ってるんですよ。」
なにがヨーロピアンスタイルだ。よく言うよ、まったく。俺はちらっとすかしたサムの顔をにらみつけた。
「ああ、マクレガーさんちなら、そこの門を曲がったところよ。お宅もお庭を?素敵じゃない。あ、そうそう。バラのアーチになさるなら、四季咲きのバラがよくってよ。うちもそうしているんだけど、小ぶりの花が上品でいいわ。」
「上品といえば、マクレガーさんちは車も随分上品な色になさってますよねぇ。たしかエメラルドグリーンだったかなぁ。」
サムは白々しく続けている。しかし婦人はちょっと怪訝な顔になった。
「あら、マクレガーさんちの車は、漆黒のマーキュリーじゃなくて?」
「あれ? じゃあ、僕の勘違いだったのかな? あっいや。失礼しました。さて、それでは私はこの辺で失礼いたします。そこの門を曲がるんですね。どうもありがとうございました。では、ごきげんよう」
サムは優雅に会釈すると、すぐに車に乗りこんだ。そして門を曲がったまま一目散にその場を後にした。
「おかしいじゃないか!マクレガーの車じゃないらしいぜ。」
サムは歯軋りするような顔つきでハンドルを握っている。確かにこれは大誤算だ。しかし奴がマージーの事件に絡んでいるような気がしてならない。俺は一度サムの自宅に戻ると、サムに例の修理工場への聞き込みを頼んで、MM社の近くに張り込むことにした。今から行けば、ちょうどランチタイムに間に合うかもしれない。なにか情報が聞き出せればいいんだが。
MM社の警備員室は、ラッキーなことに初老の警備員のみになっていた。
「おお、こないだの猫だな。ちょうどいい、今日は俺が昼間の当番なんだ。一人でランチを食べてもうまくもないし、お前も付き合えよ。」
初老の警備員は俺を救い上げるように抱えると、狭い警備員室に連れ込んだ。中には暖房がたかれていて、思いのほか暖かい。警備員がミルクとフライドポテトをくれたので、予定外の昼食にまでありつけた。
「よお、ジャック! 今日はお前さんが昼当番だと聞いて遊びに来てやったよ。俺もここで飯にしていいかい? おや、先客がいるのかい?」
「ああ、さっき無理行ってきてもらったんだ。イスならまだあるから、一緒にどうだいスタンリー。」
暖房の前でのんびりしていた俺は、おもわず顔を上げた。スタンリーだ!これはラッキーかもしれないぞ。
「最近随分疲れた顔しているな。どうしたんだよ、お前らしくもない。」
「ああ、どうも最近のうちの社のやり方は、納得が行かないんだよなぁ。ライバルの会社と競い合うのはしょうがないが、なにもスパイを送り込んで内乱を起こすなんて事しなくてもいいだろうに。MM社にはMM社の誇りがあるはずじゃないか。」
「マクレガーのことかい。奴なら上司に止められていてもやっているさ。だけど世の中そんなに甘いもんじゃないはずだよ。そのうち痛い目にあって戻ってくるだろうけど、その頃には奴の居場所はなくなっているだろうな。」
スタンリーはまゆをひそめて、言葉の主を見た。警備員はちょっと肩をあげて言った。
「奴は何も知らないで調子に乗っているようだけど…。ちょっと前の夕方だったか、奴がいきなりやってきて、車を一台回せと行ってきた。周りにいた連中が止めるのも聞かずに何を興奮したのか手前に止めてあった高級車に飛び乗って、さっさと行っちまいやがったんだよ。それ以来やつからは何の連絡もないが、あの車、ジョンソン社長の客人の車だったんだ。普通、幹部以上の客人の車は地下の駐車場に直行するんだが、その日は客人がお急ぎだからと、正門前に鍵付きのまま止めてあったのさ。このところ、マクレガーの暴走はひどいもんだったからね。いつかこんなことをしでかすんじゃないかと思っていたんだが。」
淡々と話すと、ゆっくりとアメリカンコーヒーを入れてスタンリーにも勧めた。
「じゃあ、ジョンソン社長はまだマクレガーの動きをご存じないってことなのか?」
「ああ、あれはマクレガーを疎ましく思っていた上司のアイスマンの策略さ。どっちもどっちってことだよ。あっと、お前さんにとってもアイスマンは上司になるんだな。すまんすまん。」
警備員は言い過ぎたことを謝ったが、スタンリーの表情は意外に明るかった。
「有意義な昼休みになったよ。これで私の身の振り方も決まった。もう迷いはない。長いこと、世話になったな。来月、息子が建築中の小さなリゾートマンションが完成するんだ。息子が、そっちの管理人になってほしいと俺に頼んできたもんでね。そろそろこの業界にも飽きてきた。余生はそちらでゆっくりするよ。あんたも良かったら骨休めに来るといい。悪いようにはしないよ。じゃあな。」
年老いた企業戦士はコーヒーカップを洗うと、俺の頭をちょんとつついて警備員室を後にした。スタンリー、あんたは本当にまっすぐな人だよ。俺はその後姿に敬礼したい気分だった。
警備員室を抜け出すと、一つの決意を胸にもと来た道を戻った。たぶんマクレガーは、俺たちが何もしなくても奈落の底に落ちていくだろう。だけど、それでは俺の気が治まらない。
サムの家にたどり着くと、マージーが病院を脱出して来ていた。サムは俺を見るなりすぐに抱き上げて叫んだ。
「グレン、マージーにお前のことを話してもいいか? 修理工場では確実な裏が取れている。マージーの持っているメールも証拠になるだろう。このままでじっとしているわけにはいかないんだよ。」
「にゃー!」
俺の意思を汲み取ったように、サムは自室にパソコンを取りに行った。マージーは、あっけにとられた様子で俺を見つめている。そこに俺の帰宅に気づいたクレアが、あたたかいミルクを持ってきてくれた。
ん、このミルクの甘い香りもまたいいものだ。穏やかな香りを楽しんで、おれはさっさとミルクを飲み干した。
パソコンを片手にサムが戻ると、マージーは困ったように笑った。
「何が始まるの? かわいい猫だけど、この子に言葉が通じるとは思えないわ。」
「まあ見てなって。」
サムはちょっと得意げに笑うと、パソコンを俺に向けて開いてくれた。俺はとりあえず、自分の名前とタディとの関係をサムに伝えた時と同じようにキーボードを使って伝えた。マージーは感嘆の声をあげ、俺を抱き上げた。
「タディにこんなにかしこいアシスタントがいたなんて、知らなかったわ!なんて素敵なんでしょう!」
マージーに喜んでもらえたのはうれしいが、そんなに喜んでばかりもいられない。俺はなんとかマージーの頬擦りをかわしてキーボードの前に下りると、さっきMM社で聞いてきた事を克明に打ち出した。そして、今度の件を俺たちS&U社流に筋をとおして処理させてもらおうと提案した。
大筋の部分はサムと俺がつかんでいたので打ち出し、マージーが補足と証拠物件を添付して、メールは送信された。もちろん、ジーンやケインにもある程度の情報は届けた。彼らがどんな身の振り方をするかは自身で考えればいい。彼らにプライドがあるなら、とる道は決まっているが。
静かにうなずくマージーとサムを見ると、俺はこの会社の社員であることを誇りに思った。
マージーが帰ってしばらくすると、サムが買い物に行った。俺は午前にできなかった昼寝の続きがしたくなって、公園まで足を伸ばした。
秋の深まりが夕日の色にも反映されて公園を染めていた。2日後にはすべてが落ち着きを取り戻すだろう。澄みあがった空を渡り鳥が飛んでいった。冬はもうすぐそこまで来ているのだろう。こんな風に陽だまりで昼寝をできるのもあと数日のことになりそうだ。
その日の遅く、サムはジーンから電話を受け取っていた。どうやら誤解が解けて、明日から出社することになりそうだ。後でサムから聞いた話だが、ジーンは細君の入院費を稼ぐため会社に内緒で別の仕事をしていたらしい。会社の公金横領などでなかったことに心底ほっとした。ジーンはそれについてウイリアムの指示を仰ぎ、明日から謹慎するそうだ。ケインについては街で馬鹿騒ぎしていただけのことだったらしく、問題にはならなかった。サムは明日からまだがんばるんだと、いつも以上にご機嫌だ。これで一件落着というところだ。
翌日、サムを見送っていつもの公園でうつらうつらしていると、背後から枯葉を踏みしめる足音が近づいてきた。振り向いてみると、そこには出社しているはずのマージーがいた。
「ここがあなたのお気に入りの場所なのね。ホント、クレアはあなたのことをよく理解しているわ」
マージーは俺のいるベンチに腰掛けながら当たり前のように話しかけた。
「驚いた? その体じゃ返事も質問もできないものね。 でも、私にはちゃんとわかったわ。あなたはグレンじゃなくて、タディ。そうでしょ? こんな都会の真ん中で、いきなり人間が猫になるなんて、ありえないとは思うけど。情報収集の早さや推理力、事後処理能力をみればあなたがタディだってことはすぐに分かるわ。それに、コーヒーを飲むときの癖。ふふ。猫なのに、ちゃんと出るのね。」
俺はただ驚いて返事もできず、いや、もちろん驚いていなくても自分の意思を伝えるすべがないのだが、じっとマージーを見つめていた。マージーは腰を下ろしたばかりなのに、すぐに立ち上がって俺の前にまっすぐに立ち、深々と頭を下げた。
「タダノブ・タカイ、今回はS&U社の危機をすばらしい機転で助けてくれて、本当にありがとう。社長ウイリアムに代わって、お礼申し上げます。」
マージー…。俺は心臓が張り裂けそうだった。あのハロウィンの夜以来、俺は自分が人間であるということを忘れたくないがために、必死で仕事をこなしてきたんだ。もちろん、S&U社に対する愛社精神がなかったわけではないけれど、ただただ孤独を紛らわせるために。それなのに、マージーは俺の仕事振りをそんな風にしっかりと評価していてくれたのか。頭を上げたマージーはふっと肩の力を抜いて照れくさそうに言った。
「今朝、ウイリアム社長から辞令が下りたの。ウイリアム社長は次期理事長、つまり、事実上のトップになることが決定されているそうよ。そして、私への辞令は社長就任命令。部下の人事については、そのすべてを一任されたわ。」
すごいじゃないか、マージー! 俺は、マージーにおめでとうが言えない自分の身の上が歯がゆかった。
「それでね、タディには、是非私の右腕としてサポートしてもらいたいの。もちろん、猫のままの姿でいいわ。出社も自由にする!どう?」
マージーは腰をかがめて俺の目の前に顔を近づけた。俺はあまりのうれしさにどうしていいのかわからなくなってしまった。
「タディ? 副社長じゃいや? それとも、ホントにただの猫になってしまったの?」
マージーは、静かに俺の前に手を差し伸べてきた。俺は、その大きな手のひらに肉球のついたちっぽけな前足を乗せることで意思を伝えた。
「ありがとう。がんばりましょうね。サムが帰ってきたら、彼の家で祝杯をあげましょう。」
マージーの握力は思いのほか強かった。俺は振り回されるままにその握手に答えた。こんな小さな前足でも役に立つというなら、やってやろうじゃないか。いつか人間に戻れるまで、お気楽な猫として過ごすのも悪くないと、俺はやっと自分を受け入れることを決意した。
― end ―
「結局、猫のままなんかーい!!」というつっこみはなしでお願いします。
猫の副社長。。。 いいですね。
午前中はひなたぼっこ、午後からがお仕事。
この作品、ずいぶん前に書いたのですが、今の時期なら、リモートワークで
実現できちゃうかもですね。
感想、お待ちしております。