第4話 『The reason for being here』
「あれ? ない……どうして?」
モーニングブッフェを背にして、プールに面したテラスの窓を前に、持ち上げようとしていたカップを慌てて下ろした。
不可解な表情でその手帳をまじまじと見つめる。
いつもその手帳に挟んである筈の物がそこに存在しなかった。
真鍮でできた細かい彫り細工で、天体を模したデザインの栞。
ロンドンで一目惚れして、全種類揃えて買ったブックマークは、それぞれMy favorite booksに挟まっていてその業を成しているが、この手帳に挟んであるはずの一番のお気に入りのJupiterが何故か見当たらない。
バッグの中に栞が落ちていないか確認する。
中の物を取り出して探すも見当たらず、それならばきっと、どのページかに入り込んでるのだろうと思って手帳を大きく開いてみた。
「え! ちょっと……なに、これ……」
中にはびっしりと文字があった。
しかし、それは自分の筆跡ではない。
すべてが英語で書かれていた。
「……ウソでしょ!」
手帳を閉じて表紙を確認する。
間違いなく『Frances Georgette』の手帳。
なのに、中身は別の人の書いた文字で埋め尽くされていた。
「ダメ……混乱してるわ。ちょっと落ち着かなきゃ」
深呼吸して、再度その手帳を開いてみた。
書かれている内容をよく見てみると、それらはおそらく飲食店であろう店の名前で、それぞれにその店の感想、外観や内装についても詳しく書かれてある。
他のページにはアパレル系のブランドや、貴金属の有名店の店舗についても同様に、細かく記されていた。
「Parm Beach? これって、このフロリダのパームビーチのことよね?」
彼女はスマートフォンで、その中に書かれている一つの店を検索してみた。
「やっぱり! 間違いないわ」
自分ががこれから向かう予定のWorth Avenueの近くの店だった。
「じゃあ、この手帳の持ち主は……この辺りの人間ってこと?」
そこまで考えてから首を振る。
「ちょっと待って。おかしいじゃない! だって私は、昨日これをヒューストン空港で取り戻した……はずだったのよ。でも……」
誰かが落とした、全く同型の手帳であることは、紛れもない事実だった。
あの清掃員の彼が間違えて持ってきてしまったのか……
「いいえ、清掃員の彼は確かにコーヒーラウンジの前で拾ったと言っていたし……」
何より不思議なのは、この手帳が非売品で、ごく限られた人にしか渡らないものであるということ。
それが偶然にも同じタイミングで紛失物として出るなんて、あまりにも非現実的に思える。
「ああダメダメ、頭がおかしくなりそう……とにかく、出かけなきゃ」
今日この後に商談のアポイントメントを取っている相手こそ、そのハイブランド店が並ぶWorth Avenue全体を牛耳っている主だった。
とにかく一旦その手帳を閉じて、バッグに入れる。
そしてサッと立ち上がると、神妙な面持ちのままモーニングブッフェを出て、部屋へ向かった。
廊下ですれ違う人々も、エレベーターに乗り合わせている人々も、皆がこの夢のMagical Worldを堪能するべく、心踊らせて笑みを浮かべていた。
ここへ来てまた一段と周囲と大きな温度差を感じる。
部屋に戻ると、まっすぐに鏡の前に向かった。
決戦の火蓋を切る時。
気合いを入れて身支度を始める。
この日のために、多くの準備をしていたのだから……
遠く離れた日本から、どうしてフロリダくんだりまで、やって来ることになったのか……それには理由がある。
月刊『ファビュラス』
5年前からはWebマガジンとしても並行して発刊されている、日本を代表する女性ファッション誌。
日本国内のシェアは、業界の五本の指にも入る有力誌、そして大手企業『東雲グループ』を母体に持つ、イベント会社『ファビュラスJAPAN』から分岐した『相澤出版』の看板書籍でもあった。
彼女はその月刊『ファビラス』の最年少編集長だった。
創刊以来、飛ぶ鳥を落とす勢いで常に走り続けていた『ファビュラス』
しかし、紙媒体の低迷の時代には他社同様に打撃を受けた。
出版業界全体が不況となる昨今、その火の粉は大手であっても退けることは出来ない。
そこに突然『ファビラス』の買収話が浮上した。
相手は出版部門をこれから立ち上げようとしている外資系の企業ということだけ聞かされた。
その話に楯突いた跳ねっ返りの若き編集長に、会社は条件を出した。
新たな道筋として、海外にファビュラスのセレクトショップを出店し、自らバイヤーとなって提携してくれる有名ブランドに交渉、加えて新たなブランドを発掘し、日本で初出店させること。
そしてそれをシリーズ化して『ファビュラス』の誌面のメインコーナーとして掲載するために、自らが拠点をつくり、コンセプトを構築し、プロデュースすること。
absolute statusをあげるために、
その場所や企画内容は、彼女に一任された。
そして彼女がその拠点として選んだのが、この地だった。
イタリアやフランスでもなくアメリカ、それもビバリーヒルズでもロデオ・ドライブでもないこのフロリダを選んだのは、ずいぶん前に実施した改革プロジェクトで、この地の可能性についてのプレゼンをしたことがあったからだった。
古き良き老舗の立ち並ぶブランドアベニューは、まるで今の『ファビュラス』を象徴しているかのようだと感じていた。
威厳や気品があったとしても、かろうじて息だけをしているような佇まいでただそこに居座っているだけでは、いずれ朽ち果てていく。
そんな脆さを、懸念していた。
ファッション業界は、常に新風を取り入れ、鮮彩さや斬新さで人の目を惹き続けなければならない。
今、脂ののった地域を取り上げたところで、その嵩はほんの少ししか増さない。
目に見える大きな変化を期待できて、元々の計り知れない底力がある場所は、ここを置いて他にはないと思っていた。
「お前のその目にかけるんだ。その間、買収を引き延ばす。だからまだ息の有るうちに、急いで結果を出してこい」
本社の担当部長にそう言われて、何の猶予もないまま渡米した。
もちろん無傷では済まされなかった。
買収先に対しては、形式上は編集長罷免。
十歳年上の副編が編集長に繰り上がり、留守を守る形となった。
失敗した場合はこちらが全責任を負うことになる。
時折、副編は心の底では自分がこのまま帰ってこないことを望んでいるのかもしれないと、そんな思いに苛まれることもあった。
鏡の前でブラシを頬にすべらせて、ほんのりチークを入れる。
仕上げのルージュカラーはやわらかさを出すため、フェミニンなピンクアプリコットをチョイスした。
垢抜けたメイクに、ウェーブを加えセットした艶やかなヘアスタイル。
服をただし、左右から鏡に映しながら入念にチェックする。
ここの風土とリサーチをもとに、キメすぎないファッションチョイスを心がけ、まるでオーディションのごとく、高ぶる気持ちのままハイブランドの服に袖を通す。
ある意味、武装とも言えるトータルコーディネートが仕上がった。
ふうっと息を整え、部屋を出る。
このおとぎの国へ来ている観光客には見られない、異彩を放ったオーラをまとって、彼女は颯爽とロビーを歩いていった。
第4話 『The reason for being here』 - 終 -