第2話『深夜のディズニー・ワールド』
すれ違い様に声をかけてきたオトコと、今度はぶつかるなんて……
しかも……よりにもよって、あの香りとは……
奇しくもこの地で遭遇したその匂いは、彼女の記憶を乱暴に引きずり出した。
彼女は首を振る。
「まぁ、あのhigh-end気取りのオトコなら、好みそうな香りかもね」
気を取り直して荷物を引きながらコーヒーラウンジへ入る。
「Here you are」
「あっ、あ……Thank you」
店員が差し出したコーヒーがたてる香りは、彼女の中のその懐かしい余韻を瞬時にかき消した。
ゆったりとした一人掛け用のシックなキャンバス地のソファーに腰を下ろし、ウッドデコールが全面に施された壁の大きな|Clock hands《時計の針》に目をやる。
「まだ一時間あるわね」
彼女はおもむろにバッグに手をやった。
「あ……ヤダ私、またやってるわ」
バッグの口がまた開いている。
コーヒーの支払いの時に財布をしまって、またそのままだったようだ。
「ダメね……ここは平和な日本じゃないんだから。これからは気をつけなきゃ」
「Take care」と言ったあのオトコの皮肉な口元がよみがえる。
「ったく、イヤミなヤツ!」
そう言いながらバッグの中を探った。
明日からの行程に目を通しておく為に、手帳を取り出そうと奥まで手を入れる。
「え? ウソ! ない!」
バッグを最大限まで開けて探しても、そこにその手帳はなかった。
あわててスマートフォンを取り出し、フォルダーを開く。
「良かった! スキャン取っといて」
その手帳には、事業プランやアイデア、今回の旅の行程など、あらゆる事を事細かに書き込んでいた。
毎回不思議とパソコンや端末に向かうより、ペンを持ってノートに書き込んだ方がいいアイデアが浮かんだり、斬新なイメージにたどり着ける。
彼女はこの感覚を大切にしていた。
だから毎年、高級ブランド『Frances Georgette』のレセプションパーティーでsouvenirとして配布られる、その手帳を大いに活用していたのだった。
「ウソでしょう! ここへ来て、失くすなんて!」
バッグをひっくり返そうかと悩んだ時、ハッと気付いた。
「そうだ! さっきあそこで……」
彼女は荷物を全部持って、コーヒーラウンジの出口へ向かった。
「絶対そうよ……バッグの中の物をほとんどぶちまけちゃったし。きっとあの時に落としたんだわ!」
イミテーショングリーンの周囲りまで隅々見たが、何も落ちていない。
それでも諦めきれず、地面を見て回っていると、先ほどコーヒーを出してくれた黒人の店員の女の子が声をかけてくれた。
事情を説明すると、さっきクリーナーがいたから彼に聞いてみると言って、電話をしてくれた。
革製の純白の手帳で、表紙には『F G』という文字が大きく刻印されていると言うと、その説明を電話口で忠実に伝えていた彼女が、耳に受話器を当てながらパッと顔を輝かせる。
「|Good for you !」
その笑顔に、安堵の笑みがこぼれた。
「I'm so glad to hear that《それを聞いてホッとしたわ》」
彼女にチップを渡して、再度店を出る。
ほどなくして恰幅のいい男性がやって来て「Have a nice trip !」と言いながらその手帳を渡してくれた。
「Oh, God ! Now I can relax. Thank you !」
彼にもチップを渡し、手を振りながら腕時計を確認した。
「あら、もうこんな時間。搭乗ゲートに向かわなくちゃ」
彼女は受け取った手帳をポイとバッグに入れて、今度はしっかりとその留め金を閉めた。
日本から12時間の空の旅、トランジットで降り立ったヒューストン空港ではテイクオフまで足止めをくらい、そこから更に約3時間あまりのフライトを要す。
オーランド空港に到着したのはもう夜も更けた頃だった。
しかしここはThe Happiest Place On Earth。
ラスベガスに次いで、眠らない街でもある。
夜更けにも関わらず、ホテルに向かうバスを探すのは容易なことだった。
ホテルに着く前に、車窓から幾重にも花火が上がり、乗客を魅了した。
ここでは、毎夜「Happy New Year !」と皆で歓声をあげながら0時を迎える。
毎日がカーニバルだ。
親友は、初日からディズニーリゾートに宿泊すると言うと、あきれたように笑った。
そしてこうも脅してきた。
「周りのHappy atmosphereにやられて、病むんじゃない?」と。
その時は笑い返して反論したが、なるほどここは表現豊かなアメリカの地、しかもこんな夢の国に来たとならば、誰もが自分達の世界に嵌まり込むのも無理はない。
前に座ったカップルの熱い雰囲気に、伏し目がちに苦笑いした。
ホテルまでUber に乗っても良かったが、そこを節約して、部屋に入ってすぐにルームサービスで夕食をとった。
アントレはアトランティックサーモンのマリネ、メインはプライムリブステーキ。
注文するところでその大きさを聞かれ、受話器を片手に慌ててスマホを起動する。
「グラムじゃなくてオンスなわけね」
12オンスが基本だと言われたが、到底食べられる訳もないので、深夜ということを理由に、さらに小さく100gramほどのquarterにしてくれと頼み、赤ワインをハーフボトルで注文した。
こちらのルームサービスが遅いことは知っていたので、それまでの間にざっと荷物を解いて、ある程度クローゼットに収める。
食事を取りながら今後のスケジュールを確認しようと、バッグに手を伸ばす。
今度はちゃんとその口は閉まっていた。
サービススタッフにチップを渡した後も、ちゃんと財布をバッグに入れて留め金を閉める自分がいた。
その度に、ほんのりとしたアルマーニの香りが鼻先に漂うような気がして、息をつく。
今回このフロリダの地に来たのは、旅行が目的ではない。
自分の今後の人生をも変えるような、そんなビジネスチャンスを掴むため。
そこには、自分が今勤める出版社の社運も少なからずかかっていた。
しかし、実際に商談が行われる場所に程近い『パームビーチ国際空港』ではなく、一旦ここオーランドに降り立ったのは、個人的な理由からだった。
あれからもう何年経ったのだろう。
あの時の、大切な約束……
それをようやく果たすことが出来る。
あの、アルマーニの香りと共に……
また爽やかなシトラスのアロマティックな匂いが蘇り、頭の中を巡りながら、苦く押さえつけた感情を今にも解き放とうとする。
『Ray of sunshine』 - Stunning sky in Florida -
第2話 『深夜のディズニー・ワールド』 - 終 -