4 異世界への扉
ガチャリと。
小さな1K、一人暮らしの部屋でドアの鍵が開く音がする。
心身を疲労させた黒髪の女性が部屋の中に入ってきた。玄関で靴を脱ぎ、手に持つビニールの買い物袋と今日届いていた郵便物を丸テーブルの上に置く。スーツ姿のまま、ベッドへドサリとうつ伏せに倒れ込む。
部屋の中は彼女の性格通りきちんと整っており、清潔感がある反面、とにかく手狭だった。中央に位置する丸テーブルと、脇に置いたベッドだけでも既に窮屈な印象だ。にもかかわらず、大きな荷物が部屋の隅に鎮座している。
ピンク色のシーツに覆われ中身は窺い知れないが、この荷物が圧迫感を助長させていることに間違いはない。
凜々花はうつ伏せのまま、ピクリとも動かない。二、三分経ちようやくのそりと起き上がり、椅子の代わりにベッドに座る。コンビニで買ってきたサラダを買い物袋から取り出しながら、小型のタブレットを操作する。
メッセージアプリの通知があった。
その送信主の名前を見てドキッとする。
母からだ。すぐにアプリを開く。
『ちゃんとしたもの食べてるの?』
『いいよ、気にしないで』
『あなた、一度自分で頑張ってみるって言ってたけど、いつでも実家に戻ってきていいのよ』
『まだ勤め始めて一か月だよ。早すぎるよ』
『勤めるって、あなたいまアルバイトじゃない』
『それはそうだけど。仕事には変わりないんだから、馬鹿にしないで!』
母の無思慮な態度に、思わず強い言葉を使ってしまう。
『やりたいことがあるっていうから一人暮らしを認めてあげたんだから』
援助もしてくれないくせに、よくいうよ。
そう打とうとして、直前で指を止めることができた自分をほめてほしい。
『だから感謝してるって。そっちも頑張ってるから』
『結果がでなければ、わかってるわね』
『はいはい。それもわかってる』
『夢を追いかけるなんて、そういう才能があればいいけど……なかったときあなたどうするのよ。さっさと諦めて帰ってらっしゃい』
最後のメッセージには、既読をつけたまま返事をしなかった。
そもそも、才能のあるなしを判断できないからみんなが夢を追いかけるのだ。母からは自分には才能がないと烙印を押されたような気がして、さらに気持ちが沈んだ。
食欲が全くなくなってしまったが、食べないと生きていけない。サラダの上蓋を開けドレッシングをかける。
母のメッセージで中断させられたタブレット操作を再開する。ぎゅうぎゅうの満員電車で見ようとしていた小説投稿サイトの作者管理画面にアクセスした。
浅葱色をベースとしたレイアウトの左上のユーザー名には『如月水連』と記載されている。『魔法少女スターリィ☆ティアラ』の主人公の本名をもじったこの名前は、彼女のペンネームである。
急いで感想ページへ飛ぶ。
凜々花は自分で書いたオリジナルのアマチュア小説をこのサイトに投稿していた。ジャンルは『魔法少女モノ』。ただし、残念ながらこのサイトでは不利な作風で、かつ彼女の筆力はお世辞にも高いとは言えず、PV数は限りなく低い。つまり読まれている数自体が少ないため、感想も書き込まれることはなかった。
だから凜々花は、最愛の恋人と久しぶりの再会を果たしたような喜びようで、その自作品に対する『初の感想』に目を通す。
「良い点
とくになし。
気になる点
内容が少女趣味すぎる。作者の思惑が透けて見えるのがキツい。筆力が伴っていない。世界を股にかけるとか、地球を救うとかではなく、まずはもっとこぢんまりとしたところから書き始めたほうが良いのでは。
一言
まあ頑張ってください。素人くさいのが抜けるといいですね。
投稿者:る~ちゃん☆彡
15歳~17歳 女性」
「あ……」
かあっ! と顔が熱くなるのが分かる。
この、いてもたってもいられない感覚はなんだ。穴があったら入りたいとはこのことなのか。すごく自信があったわけじゃない。でも、読んだ人が楽しんでもらえるものを自分なりに創意工夫して書いたつもりだった。
自分の『魔法少女が好き』という大切な気持ちを小説というものに表現したつもりだった。そうすると、知らない誰かが自分の考えや想いに共感してくれる……そんな姿を想像していた。
結果は違った。
恥ずかしい。恥ずかしい! なんで自分はこんなものを全世界に公開してしまっていたんだろうか。身の程を知れ!!
思わず頭をぐしゃぐしゃと掻いたあと、膝の上に固定していたタブレットを丸テーブルの上に放り出す。
「うう、ううう……」
俯いて、真っ赤に火照った顔を両手で覆い隠した。
凜々花はもう二度と、自作品『明日の天気は、雨のち魔女』を更新しないと誓う。
艶のある長い黒髪が肩からハラリと滑り落ちた。
* * * * *
はぁー、とため息をつく。
プチトマトをプラスチック製のフォークで突き刺して口に入れる。
あれから一〇分。
ようやく羞恥から立ち直った凜々花は、むぐむぐ、とミニトマトを咀嚼しながら、
「……」
おもむろに丸テーブルの上に置いた小型のタブレットを見つめていた。
「……でも、やっぱり」
ポツリとひとりごちると、タブレットを再び手に取り、食事をしながらキーボード入力を開始する。
――やっぱり私は、今日も小説を書く。
――誰に読まれることもないのに。
――読まれたとしても、良いことは言われないのに。
――私には、これしかないから。
一〇分前、彼女が強く心に決めたはずの誓いは、もう一面の心の強さによって早々に破られた。
* * * * *
しばらくして。
「あ、待って。今日って……!」
ふと顔を上げ、凜々花はベッド側の壁に吊り下げていたカレンダーを確認する。本日の日付に花丸がついていた。
急いで小説執筆を止め、ブックマーク登録をしていた目指す先に飛ぶ。
それは、とある出版社の小説新人賞の公式サイト。何階層か下のページまでタップして進んでいく。たどり着いたそこには「一次選考通過者」の記載がある。
凜々花は、一心不乱に自分の名前を探す。
そう。彼女はこの出版社の小説新人賞に『明日の天気は、雨のち魔女』を応募していたのだ。
しかし。当然のごとく。
『如月水連』の名前はどこにもなかった。
「やっぱり、そうだよね……」
再び、はー、とため息をつく。
実は、小説新人賞に作品を投稿するのはこれが初めてではない。学生時代、こっそりと書き続けたものを応募し続けており、今回で五度目だった。
「どうしよう……本当に……」
母から宣告された『夢を追いかけてもいい』期限は、一年だ。
それで結果を出さなければ、実家に戻される。正直にいうと、息が詰まる。今はもう昔のような自分ではない。だから、あそこは窮屈な家庭だと感じてしまう。『いい子』で居続けた結果がそれなのだから、凜々花にとっては皮肉的だ。
そして、家に戻れば家族の団欒を今まで以上に優先しなければならなくなるだろう。それはつまり、今のような執筆時間をとることはもうできないという意味だ。小説家になる夢は諦めて、お堅い企業へ就職するための活動も再開しないといけない。
両親が彼女に望む『次の願い』は結婚だ。……でもこれだけは無理だ。三次元はまだ好きになれない。
――夢を追いかけるなんて、そういう才能があればいいけど……なかったときあなたどうするのよ。
「うるさいなあ……ほんと、うるさいなあ!!」
思わず、目の前の丸テーブルを右足でガンと蹴りつける。そこに乗っていたサラダとパスタがバランスを崩し床に落ちる。
「あ……!」
麺と野菜が散乱したその状況を見て、凜々花はベットにうずくまった。
「もう落ちるのはいや……落ちるのは……」
* * * * *
ちゃぷ、という水音が浴室に響く。
「はぁ〜♡ 気持ちいい……」
艶のある長い黒髪を浴槽に広げ、天井を見上げる。
凜々花は唯一の楽しみな時間を味わっていた。
風呂場のシャワー近くの床には、ティアラたんシャンプーとリンス(ただし中身は別メーカーのお気に入り洗髪液に入れ替えている)が置かれている。
「うう……明日図書館行くのやだな……またあの先輩に何か言われるのかな……」
悩みは尽きないが、このリラックスタイムは疲れた彼女に無くてはならないものだった。
浴槽の端に頭をコツンとつけ、ぷかぷかとその細い身体を浮かしてぼんやりと天井を見つめているこの時間が、身体も心も癒してくれる。
そうして、自然と彼女はウトウトし始めた。
――あ、ダメだ。このままだと寝ちゃう……。
――でも、気持ちいい……。
――ちょっとだけ……。
いつものことだった。
数分経って目が覚めて、ゆっくりと浴槽から出て身体を洗う。それが彼女のルーティンだ。
しかし今日に限っては。
いっときの幸せをかみしめる彼女に、不運が訪れる。
浴室の閉めた扉の隙間から、黒く濁った煙が侵入してきていた。
嫌悪性がある泥のような色をした煙。
それは静かに音もなく室内に充満する。
しかし、睡魔に誘われて浴槽で眠る凜々花は気づかない。
致死性のある毒の煙が、鼻から吸い込まれ、彼女の肺に到達する。
その寸前まで、彼女は気づかない。
この1Kアパートが、火事になっていることにも。
十五分後。
凜々花は浴室で意識を失ったまま、一酸化炭素中毒で死亡した。




