2 覚醒前夜 その②
「よんひゃくきゅうじゅうはち、よんひゃくきゅうじゅうきゅう、ごひゃーく!」
今日の日課をやり切って、地面へ大の字に倒れ込む。
麓の山に向かった僕は、毎日、この巨大な木の下で片手剣の素振りを繰り返している。
ヴルカン村はお世辞にも裕福とは言えない。二軒隣のスミスおじさんのところはリーバイン城下町まで出稼ぎに出ているし、スウェインおじさんのパン屋も小麦の値段が高騰して生活が苦しいとぼやいていた。
そもそも村自体に商売の機会が少なく、あるのは牧場や農場といったところだ。
僕のとうさんは鍛冶屋を営んでいるけど、こんな田舎まで武具を買いに来る物好きは、正直言っていないと思う。
「もうすぐだ……」
だから僕は、リーバイン神皇国近衛騎士団の入団試験を志願した。
歴戦の剣士たちが集まる、実力も名声も一流の組織だ。
そこに入ることができれば、もらえる給金もとてつもない金額だと聞いている。
「はやく母さんたちを楽にしてあげたいな」
大の字から起き上がり、大木の幹に、小さな切れ込みを入れる。
鍛錬を行った日ごと一つ、印をつけている。
刻まれた跡は、膨大な数に上っていた。
今日で、その切れ込みは一四九九を数える。
努力だけは、誰にも負けてないつもりだ。
* * * * *
ヴルカン山頂付近で湧き出てくる水が、麓にくるまでに繋ぎ合わさってイヤフ川になる。井戸がないこの村唯一の水源だ。この山岳部で生きとし生けるものの恵みだった。
陽の光が最もまぶしくなる時刻が僕たちのお昼どきだ。
イヤフ川の近くに座り、弁当を広げる。今日はシロツメバターを塗った硬い三角パンと、家の畑で採れた野菜を煮込んだスープだ。
お昼までは入団試験に向けた鍛錬。
お昼から日暮れまでは、家に持って帰る食料探しだ。
今日は天気もよくて風もそんなに強くない。イヤフ川で釣りをするには絶好の機会だ。
近くに転がっていた丸太を担いで川べりまで持ってきて、その上に座る。
川の中央目掛けて釣り糸を垂らし、急がず慌てずゆっくりと待つ。
せせらぎの音が心地よく辺りに響き渡る。
川上からそよ風が吹き抜け、僕の頬を軽く撫でる。
そうしてしばらくして。
「っ! ここだ!」
釣り竿に反応があり、一気に引き抜く。
と、釣り糸の先端には丸々太った魚が引っかかっていた。
「や、やった! これマリィが好きなアカマスだ。持って帰ったら喜ぶぞ」
妹が今日の釣果を見てはしゃぐ姿が目に浮かぶ。
いそいで魚籠の準備をはじめるが――。
そのとき。
背後の茂みで、物音がした。
「!!」
とっさに身構え後ろを振り返ると、茂みの奥からなにかが飛び出してきた。
「シシシシッ!」
赤黒いトカゲ。
人間がいれば警戒して近づいても来ないはずの火蜥蜴族だ。なのに、こちらに向かってくる?
理由は単純だった。それに続いて、トカゲよりも一回りも二回りも大きな獣――キバオオカミだろうか――があとを追うように飛び出してくる。
「グァグウウウウウウ!!」
トカゲはがむしゃらに逃げ回ろうとしていたが、イヤフ川が邪魔をして追いつめられてしまう。普通のトカゲなら飛び跳ねながら水の上を逃げたかもしれない。でも目の前にいるのは火蜥蜴だ。むしろ退路を断たれたといってもおかしくない。
僕は、人間も襲うキバオオカミを見てとっさに剣を構えようとしたが、相手はトカゲにしか興味がないようだ。
追い詰められたトカゲはその小さな身体を十全に使って必死に威嚇をしている。
しかし獣の前ではその行為は何の効果もなさそうだった。
オオカミにトカゲが襲われそうになる直前。
「マリィ、ごめん!」
僕はさきほど釣り上げたアカマスをつまんで、トカゲからすこし離れたところに投げ込む。するとキバオオカミは魚に気付いて、即座に駆け寄って食べ始めた。
獣は当然腹が減っているからトカゲを襲っている。だとすれば、トカゲよりも美味しそうな餌を与えればそちらに夢中になる(そういう意味では一瞥したのち無視された僕も美味しい餌ではないのだろう)。
僕はトカゲに向かってなるべく優しい声音で、
「怖かったよな。でも大丈夫。ほら、今のうちに逃げな」
微笑みながら伝えた。
「シシッシシッ!」
トカゲはその言葉を理解したかのように、川べりを上流のほうへかけていき、再び茂みの中に姿を隠した。
火蜥蜴族は興奮させると山火事の原因になるし、小型の家畜を火傷させて殺してしまうと聞くから人族にとってあまり有益な生き物ではない。しっぽを煎じて飲めば万病に効くとも言われているが真偽は不明だ。もし信じて飲んでも、口の中を火傷する確率のほうが高いだろう。
つまりは人族にとって害ある種族なんだけど、なぜかあのトカゲを見殺しにする気になれなかった。まだ生きててほしい、なんとなくそう思ってしまった。
獣が魚を食べ続けている間に、僕もそそくさと身支度を整えてその場を離れた。
釣果を無くした僕は、山中でいくつかのきのこを採った。
麓からの帰り道、空を見上げると、もうあたりは夕暮れ時となっていた。
「そろそろアーシア神様の降臨祭が始まるな」