ボス猫
塀の上を歩き、住宅街の空き地を目指す。
大体いつも、彼はそこにいるから。
“トラ”
僕が呼ぶと、土管の上のキジ模様が振り返る。
その顔に、クロがビクッと身を引く。
トラの顔には、額から左頬にかけて大きな切り傷があり、傷の通り道である左目は閉じたままだ。
初めて会ったときは、僕も驚かされた。
“おう。なんだ、お前か”
トラがヒゲを撫でながら、欠伸をする。
“久しぶりだな”
“そうだね。僕、全然こっちに出てこないから”
人間を避けている僕は、こういう民家の多い所には近づかないようにしていた。
人間のいない代わりに食料の少ない僕の所に、トラは時々食料を持ってきてくれる。
“お前があの丘から降りてくるのは珍しいな。今日はどうした…、ん?何だ、そのガキ”
トラがクロに気付いたから、僕の後ろに隠れていたクロを前に押し出す。
“この子、最近捨てられてたんだ”
“つまり、新入りってことか?”
そうそう、と頷いてクロを見ると、明らかに警戒しきった顔をしている。
“ほら、挨拶しないと”
“………クロです”
辛うじて絞り出したクロに、トラは笑う。
“そのチビ、ガキな上にメスじゃねぇか。お前、そんなの連れてたら生き抜いていけねぇぞ”
“なっ…!”
“まぁまぁ”
今にも怒り出しそうなクロを宥めて、僕はトラに応える。
“何だか、放っておけなかったんだ。出来れば、顔を覚えてやってほしいんだけど”
“お前も甘いな。野良の世界なんて、俺みたいに強いか、お前みたいにのらりくらりと躱せる奴しか生き残れないって知ってるだろうに。そんなチビ、すぐ死んじまうぞ”
“誰を連れていようが、僕の勝手だよね”
“だがなぁ…”
“しつこい!”
僕が言ったのかと一瞬驚いたが、怒鳴ったのはクロだった。
“わたしが誰についていこうが勝手でしょうが!それに、生き抜けないなんてどうしてアンタに言い切れるのよ!”
“あぁ?”
明らかに、トラの視線が鋭くなる。
クロは少し身を引いたが、すぐに一歩踏み出した。
“何よ!文句があるなら言いなさいよ!”
トラはクロを見据えながら、静かに言う。
“調子に乗るなよ、チビ。お前如き、俺の爪なら一発で殺れるんだぞ”
“上等じゃないの!やってみなさいよ!”
“はい、止め止め”
僕は睨み合う二匹の間に割って入った。
“二匹とも、仲良く出来ないんだね。トラ、さようなら”
僕はクロを口に咥える。
子猫を運ぶときは、これが一番早い。
“ちょっと、シロ…っ!”
クロは何か言いたげだったけど、諦めたように力を抜いた。
僕はトラに頭を下げてから、もと来た道を引き返す。
“おい、お前。そのチビを置いてくるなら、また来いよ。俺はお前を気に入ってんだから”
置いてくることはないよ、というのは、クロを咥えているので言えなかった。
“ごめん…”
川原で毛繕いをしていると、僕に背中を向けたクロが小さく呟いた。
“何で?”
“せっかく、紹介してくれたのに、喧嘩しちゃって”
小さな背中がいつも以上に猫背なことが可笑しくて、笑って応える。
“まぁ、トラも大人げないところがあるからね”
“でも、偉い奴なんでしょ。…シロまで睨まれちゃったらどうするの”
小さな声で付け足された言葉に、目を見開く。
僕の心配をしてくれていたのか。
それが嬉しくて、クロの正面に回り込む。
“僕は平気だよ”
クロはまたそっぽを向いた。
“別に…あんたの心配なんてしてないわよ。どうするのかなって思っただけ”
“うん”
また、正面に回り込む。
“心配しないで。君は、僕が守るから”
“…あっそ”
クロは僕から目を逸らした。
でも、尻尾はご機嫌にピンと立っていた。