アイとはなんですか。
やんわりと焦らすように降り続ける雨の下、揺れる水たまりを踏みつけ歩く青空ワンピースを着た女。
20代の女にしては珍しい、薄く古びた革のショルダーバッグに、転ぶこともなさそうなぺったり靴。
意志の強い瞳を携えて、一直線に大きく歩いてゆく。
女が目的地に着く頃には、青空もとうとう夜空に変わっていた。
女が訪れた場所は、ある一軒家。
東京の高層ビルが立ち並んでいるなかにポツンと存在する昔ながらの平屋。
女はその存在に違和感を感じながらも一歩足を踏み入れる。
簡素な、しかし何処か華やかな空間がそこには広がり、女は懐かしさを感じながらその家の主の許可もなく敷地を制覇してゆく。
女が最後の砦として残しておいたのは、清々しく突き抜けるように開放された、
わずか六畳ほどの間だった。 開放されているのはこの家の主のこだわりだ。
そのせいで風が吹くたび、雨が畳にシミを作るのだが、家の主は気にした素振りを一切見せない。
その主が、開放された間にいる。
まるで存在を隠しているかのように壁と文机の隙間に収まっている。
家の主である男は、30代後半であるもののこの平成の時代に渋い麻の色をした着物を着ていた。
家と男の姿を見れば、時代を遡ったかと錯覚するほどに、外と内は違いすぎて、
先ほどまでは車と人の声で耳をふさぎたかったぐらいだったが、この家にいれば、
雨と風の音しか耳に入らない。
男は、そんな状況にも慣れ始めた女を、使い古した万年筆でものを書きながらも認識したようだった。
「また、君ですか」
「・・・来ちゃ、悪いですか」
二人の間に、歪なようでいて、実はおさまりの良い空気が出来上がる。
「まだ、出来ないですよ。...残念ながら、全く進まないのです」
「そうですか。」
女は、その場で静かにあぐらをかき座り込んだ。
女は男の視線を感じ取る。
「そこに座られては困るのですが。
せっかくの美しい直線が乱れてしまうでしょう。」
男が言う直線とは開放された左の出入り口から流れ込み、
右の出入り口から出てゆく空気のこの流れのことだ。
女が顔をしかめて間の端へと移動すると、男は満足そうにまたもの書きに集中し始めた。
「なるべく早く、書き終えてくださいね。
先生の新作を楽しみにしている読者が沢山いるんですから」
「それはどうでしょうねぇ。
よくいただくんですよ。 お手紙。」
先生と呼ばれた男は、紫色をした薄い笑みを漏らす。
「手紙の何がいけないんです。良い事じゃないですか」
男は、小さくため息を吐き、万年筆を袂に入れた後隙間から抜け出した。
ゆったりと、しかし速い男の歩みに女は駆けてついてゆく。
雨の音を耳にしながら縁側を歩く二人の姿は、まるで兄と妹のよう。
男は若干の猫背だが、女はピンとした背筋をもっているし、
男は内気だが、女はどのような社会でもやっていけるような外交的な性格である。
ところが、どちらとも外で降り続ける雨を見ては煩わしそうにため息を吐く。
兄妹とはそういうものだ。
二人が足を踏み入れた場所は、女ですらも未だに入ったことのない古びた蔵だ。
「こんなにたくさん...」
女は、そこで高々と乱雑に積み上げられた紙を見た。
よくよく見てみれば、全ては手紙で、全て封が切られている。
「どんなに手紙を頂いても、書いてることは皆同じ。
非常につまらない、ただの紙切れですよ。」
女は思い出す。
大学生の頃に必死になってある人へと手紙を書いたこと。
「誰もが、私の書いた本を読み、手紙をくれるのです。
しかし、そのなかの誰一人、私の欲しい言葉をくれはしないのです。」
女は目に涙を溜め、雑に扱われた手紙の山を見つめる。
「誰も、あなたの欲しい言葉なんて分かるわけないじゃないですか。
でも、理解しようとしているんです。読者は、読者なりに。」
女も、かつてはそのなかの一人であった。
ある時、女は一冊の本を愛し、またその作者に恋をした。
時を経てつのった愛は溢れだし、女は衝動的に想いを手紙に託す。
女は昔から知っていた。
男の書く文章から哀しみと苦悩がにじみ出ていることを。
そして、男が何かを求めているということ。
その”何か”を知って理解するために、女は男の隣りに在ることを目指した。
「私が、あなたの担当になって5年。
あなたが文章を書く姿、縁側から庭を見る姿、ずっと見てきました。
けれど、私にはあなたが何を欲しているのかわからないです。
...それでも、理解しようとする事は私にだってできます。」
「何故、君はそんな顔をしてまで私を理解しようとするのですか。」
男は表情を変えない。
女は、その男の表情こそが男の哀しみそのものであると知った。
男は、いつも笑うことをしない。
「あなたは昔から孤独でした。
いつもいつも、何かに悩んで。 けれど、それを口に出すことは一度もない。
あなたは、誰も理解してくれないと言うけれど、そう思うのは、あなたがそれを拒むから。
感情を殺して、あなた自身をすっかりと隠してしまうから。
... ...理解しようと努力することの何が悪いんですか。
あなたの幸せを願って、何が悪いんですか。」
「... ...君には呆れる。
君が、昔に一週間一通ずつ手紙をくれたのも、
こうやって今、私のすぐ隣で涙を流しているのも、その全てが暖かい。
...それは、...何故だろう。」
男の瞳は哀しみを帯び、
同時に男の胸は息が出来なくなるほどに縮み始めた。
男は、膨大な数の手紙の中、女の名を覚えていた。
そして、その名の女はある時、男のもとへとやってきて無表情で立ち尽くす男に満面の笑みを向けた。
偶然でいて、実は必然的な出会いであった。
それは、男も女も知るはずのないこと。
「その全てが、私の愛ですから。」
「アイ?」
予想外な言葉を聞いた男の顔は緩み、色々な顔を女に見せる。
女はそんな男を見て、久しぶりに満面の笑みを向け感情を露わにする。
「はい。
あなたのすぐ傍を歩いて、あなたを理解しようと精一杯努力することが、
私にとってのアイです。」
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平成21年 10月28日 22時30分 雨 のち晴れ
今日は、私の担当であるあの女が私の仕事場を訪れた。
私の仕事場を歩き回っては荒らし、美しい直線を乱すのも彼女の役目だが、
今日は珍しくそれだけではなかったようだ。
まさか、私が彼女に教わることがあろうとは思ってもみなかったが、
そのおかげでなんとか筆は進みそうだ。
ところで、私の小説にはいつも何かが足りないと思っていた。
どうやらその”何か”はアイだったようだ。
アイには、様々な形があるのだとか。
しかし、私にはまだそこまで考えは及ばない。
小説家として経験を積んだと思っていた私だが、まだまだ未熟だったようだ。
そもそも家族も恋人も友も居ないわたしが小説で人間ドラマを描くということが間違いであったろうか。
今になっても、彼女のあの青いワンピースの半乾きの深い色が目にちらついている。
若者だからというのもわかるが、せめてここに来るときなどはもう少し落ち着いた色のものを
着て欲しいものだ。 このような勝手な要望は、中年男のただの我が儘だろうか。