孵らない産声
夏休みになると、毎年決まって思い出すことがある。
「知らないの?鳥って、卵から生まれるんだよ」
小学生になった最初の夏休み、学校で飼われている鶏の温かそうな懐に真っ白な卵がかくまわれているのを網越しに見つけたとき、隣で私と同じように鶏小屋を覗き込んでいた友だちはそう言って得意そうに教えてくれた。花壇の水やり当番で学校に出向いたときのことだ。
「弥生ちゃんだっておうちで卵くらい見たことあるでしょ?あれ、みんなああしてニワトリが産んでるんだよ。まさかリンゴみたいに木にぶら下がっているものだと思ってた?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
鶏小屋は糞尿でひどい匂いだったけど、私は顔を網に貼り付けんばかりに近づけた。目線にしっかり入るようにしゃがみこみ、鶏が身じろぎするたびに隠れてしまう卵の白に魅入った。
正直に言えば、私は本当に「卵」が「鶏の卵」であることを知らなかった。
木になっていると考えていたわけではないし、海で泳いでいるのだと思っていたわけでもない。
単純に、「何の」卵なのか考えたことがなかったのだ。さらに言えば、「卵」が「生き物が生まれてくる準備段階としての形」ということを知らなかった。
卵とはタマゴという食べ物で、かち割って焼くと目玉焼きになる、おいしい。そこで完結していた。続きがあるなんて知らなかった。
私に食べられ、なくなっていくものが、何かの始まりであるなんて考えたこともなかったのだ。
宇宙のすべてが手のひらに集まってくるような衝撃で、しばらくそこから動けなかった。
しかしその金縛りも一時的なもので、私はやがて立ち上がった。目線が上がる。元通りになっただけなのに、しゃがむ前の世界とは何かが違っているような気がした。
空の青にかすんで見えないはずの星たちが、強い日差しに光を重ねて私の目に映るものすべてを照らしていた。世界は少しだけまぶしさを増し、すべての色を濃くして私の目を焼いた。何もかもが鮮やかだった。
家に帰った私がしたことは3つ。
その1、冷蔵庫を開ける。
その2、エッグスタンドから卵を一つ引き抜く。
その3、壊さないように優しく手のひらで包み込む。
「ねえ、どれくらいで生まれるものなの?」
お母さんは微笑み、お父さんは渋い顔をした。私は本気で卵から雛を孵そうとしていた。
「ねえ、お母さん」
「うーん、すぐには孵らなかったんじゃなかったかな。ね、お父さん」
話をふられたお父さんは露骨に嫌そうな顔をしてお母さんを睨み、期待を込めて見つめる私に困ったように唇を引き結んだ。
「ちゃんと孵ったら、飼っていいでしょ?」
「そうね、孵ったらね」
「名前は私がつけていいでしょ?」
「そうね、孵ったらね」
「専用の部屋を用意してあげたいんだ。誕生日プレゼントってことで、ねえ、鳥かご買ってほしいな」
「そうね、孵ったらね」
お母さんは併せた私の手のひらに自分の手を重ね、私の手の甲は次第に温かくなっていく。卵まで熱が伝わるような気がして、ありがとうの意を込めて私はお母さんに笑いかけた。お母さんも私に笑い返してくれた。ほんの少しだけ、泣き顔に似ていた。
「あんまり期待するもんじゃない」
お父さんは結局、それしか言わなかった。
私は熱心だった。授業のない夏休みであることをいいことに、暇さえあれば卵を握って過ごした。お風呂にも入れた。体を洗っている間は湯船に浮かべ、私が湯船に浸かるときはお湯を入れた洗面器に入れ、たゆたう卵を眺めた。おかげで初日はのぼせた。
日光浴と称し、進んで外にも出かけた。間違っても卵を握ったままこけたりしないように、走ることもなくなった。公園で友だちと遊ぶとき、砂場から集めた砂を小さなバケツに入れ、卵を半分だけ埋めた。海水浴で浮かれた大人が砂を布団のようにかぶって寝そべるテレビの映像を参考にしたのだ。とても温かそうだったから。
私の溺愛ぶりにも関わらず、卵はなかなか孵る兆しを見せなかった。ヒビの一つも入らない。
私は卵を耳に当てた。小さな心臓が脈打つ音を求めて耳をすませた。セミの鳴き声がうるさくて聞こえないので、押し入れに籠って真っ暗ななかで目を閉じた。私の五感のすべては、卵のなかの命を探り当てるために注がれた。
すると、聞こえたのだ。
形容は出来ない。強いて言えば、それはプールの底から水面を見上げたときのことを連想させた。透明が色を持つときの、あの揺らめきを伴った静けさだ。
聴覚以外の何かで、私はその無音に形を見出していた。
終わりは呆気なかった。そして、何の前触れも見せてはくれなかった。
居間でテレビを見ていた私は、お父さんの「もう10時だぞ」の言葉と、お母さんの「明日もラジオ体操があるんでしょう」の言葉で、大人しく立ち上がり、廊下に続くドアに向かった。
「おやすみなさい」
卵を片手に持ったままドアに手をかけ、まだ居間に残る両親二人を振り返った。お母さんは「おやすみ」と笑いかけ、お父さんは無言で頷いた。
事は起こった。
何のことはない。正面に顔を戻すタイミングと、ドアノブをひねるタイミングが、ほんの少しだけずれた、というのが全貌だ。居間の外へと踏み出した私は、まだ開ききっていないドアにおでこを強くぶつけた。
自動ドアにぶつかってしまう人間と同じようなことになっていたというわけだ。傍から見るとマヌケでも、当の本人からしてみれば突然目の前に壁が現れたようなものだ。けっこう驚く。事実、ドアにぶつかった私は一瞬何が起きたのかわからなかった。
ぐしゃっ。
裸足の足の甲に、ぬめった何かがかかった。それは額を強く打ちつけた痛みよりも、なぜか鮮明に私に働きかけてきた。大丈夫ですか?耐えられますか?
思考に風穴が空いた。痛みはなく、ひゅうと通り抜けた何かが、ひどく冷たかった。
肩幅に開かれた私の足の間で、卵は割れていた。
「あら」
何事かと近寄って来たお母さんは、私の後ろから覗き見て、抑揚のない声を上げた。
「大変。お父さん、ティッシュ」
お母さんは冷静だった。動けないでいる私の両肩を掴んで真横にスライドさせてその場からどかすと、手際良く一番大きな欠片から拾い集めていく。
ティッシュを持ってくるようにと指示されただけのお父さんは、おろおろと辺りを見回し、すぐ手元にあったリモコンを手にしてはこれじゃないと放り出し、近くにあった棚に設置された子機を持ち上げてはこれでもないと放り出し、しまいには足をもつれさせて危うく転びかけた。どんな酔っぱらいだって、あのときのお父さんに比べればいくらか沈着だったと言えるだろう。
ようやく渡されたティッシュで、お母さんは無造作に卵から溢れた粘液をかき集め、拭いとっていく。
「お父さん、これゴミ箱」
はい、とお母さんはしゃがんだままティッシュの塊をお父さんに差し出す。白いティッシュの薄膜から、水気をたっぷり含んだ黄色が覗いていた。つつっ、と糸を引いて光りながら落ちていく液体がくっきりと目に映る。それは床に落ちる前にぷっつりと切れ、目で追うことも叶わずに消えてしまった。
「弥生」
お父さんが焦ったように私の名前を呼んだ。その次にどんなセリフを続けようとしたのかわからない。というのも、私の行動によって遮られたからだ。
「ああああっ」
私は叫んでいた。これ以上は無理というところまで目を見開いたおかげで、普段は空気に触れない白眼の部分がちりちりと痛んだ。喉の内側がとんでもない速さで震えている。自分の発した声で私自身がぶっ壊れてしまいそうだった。
いや、実際、あのときすでに壊れていたのだ。卵は孵らないまま帰らない存在になってしまった。ダジャレにも取れる語呂も、つなぎ合わせると電流を通し、私をズタズタにした。
割れた卵のなかに雛はいなかった。歪んだ黄身が血だまりのように広がった白身の上に横たわっていた。
死んでしまった。進化の過程を、私が絶ってしまったのだ。
喉をねじ切るような悲鳴を止めたのは、お母さんだった。
「弥生」
お母さんはごく自然な動作で私を抱きしめた。鼻先に、風呂上がりから乾ききっていないお母さんの髪が触れる。その繊細なくすぐりを受けて、私はようやく息継ぎのために鼻を使わなくてはならないことを思い出す。
吸い込んだ息がダイレクトに喉を通っていく。出すことしか許さなかった通路が、生きるためにまた開いた。
「私、が」
「うん」
「私が、死なせちゃった。ニワトリに、して、あげられなかった」
小学校の鶏が卵を温めていたのは、温めなければ卵のなかで雛としての形になれないからだと思っていた。カメラの裏蓋を開ければ映したすべてが消し飛ぶように、不用意にこじ開ければなくなってしまう育みが殻のなかで進んでいて、私はそれを台無しにしたのだと。
「私の、せいで」
「弥生、それは違うよ」
お母さんは、あやすようにゆっくりと私の背中をさすった。
「卵には当たりとハズレがあるの。当たりにはヒヨコが入っていて、ハズレには私たちがいつも食べている黄身と白身だけ。弥生が温めてた卵は最初からハズレだったの。だからヒヨコは出てこなかったけど、それは弥生のせいじゃないわ。仕方ないの。そういうものなの」
あなたは決して悪くない。だって、あなたのしたことはすべて無駄だったのだから。
真逆のベクトルに私を引っ張り込む強い力をお母さんの言葉に感じた。ぬくもりと薄ら寒さが、弛緩と痺れが、許容と裏切りが、一度に私の腕を引く。それぞれの善意と正しさで、私を車裂きにする。
私はお母さんの優しい腕のなかで泣いた。
手のひらがすっかり覚え込んだ殻のなめらかさは、私が壊してしまった。
もうどこにもないのよと言われたくもなかったし、冷蔵庫にまだストックがあるわよとも言われたくなかった。
ただ、痛かった。だから声をあげて泣きじゃくった。産声のように聞こえなくもなかった。
それ以来、毎年夏休みになると、とうとう孵らなかった、いるはずのない雛のことを思い出す。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
野暮かもしれませんが、これはフィクションであって私はちゃんと雛がいないって知ってましたよ。本当です。




