第一条 到着の気配 5
夜の間に雨が降り始めていたらしい。
一枚二万四千パルもする安全壁はシアが防げなかった侵入者の開けた穴もものともせず、きっちりと雨と温度変化を防いでくれたようだった。ケチらなかったおかげで音からも遮断されている。静かな空間は快適に保たれていた。
シアが目を覚ますと、すでに身支度を済ませたレインが珍しそうに透明の膜を見上げていた。水滴が滑り落ちるさまは、まるで滝の内側にいるようだ。激しい雨は無音で形を変えている。
「しばらくやみそうに無いんだけど、これ以上行程を遅らせるわけにもいかないしな」
こんな場所で雨がやむのを待つより、あと半日ほどの場所にある調査地についてから休むほうが賢明だろう。今から出発すれば、遅くても夕方前にはたどり着けるはずだ。たどり着けば、神殿で体を温めることも、もちろん地面ではなく快適な寝台で寝ることも可能だ。シアは「もちろん」と返して、勢いよく体を起こした。
シアたちが所属している地方神殿は、帝都マルジャの北西に位置するヴィッカリーという地方都市にある。一年を通して気温は帝国平均よりやや低く、冬は雪が降ることが多いが、夏は水都と名高い地方なだけあって快適。地下に張り巡らされた水路が住人の足になっており、神殿はその水路を束ねた中心に存在している。生憎、東のように医療や機会設備が発達しているわけではないため、神殿には東への「遠路」を使用するための長蛇の列ができることも珍しくない。特に医療費の割引がある毎月朔日はほとんどの事務職員が整列業務にあたらなくてはならないくらいだった。
その行列もほとんどが船だ。住んでいる人の数だけ船がある。ヴィッカリーとはそういう都市だった。つまりはほとんどの人が長距離を歩かない。
レインは肩で息をしながら木に手をついていた。
「大丈夫じゃないけど、どうしようもないから我慢する」
「賢明だな。運んでやるにしろ、この荷物だからな。同じように後ろにくくりつける羽目になる」
シアはレインの倍はあろうかという荷物をゆすって答えた。
「……我慢するって言ってるだろ」
レインはため息をついて腰を伸ばした。
大柄なレインより頭一つ分小さなレインは、雨にぬれた濃さを増した黒髪を掻きあげた。地図を広げると方石を使って方向を確かめる。
「……やっぱ。やめた。我慢しない」
レインはそう言ってすっと一点を指差した。
そこには古びた石の塚があった。
「あ、ほんとだ」
掻きわけて見れば、見慣れた神殿のシンボルマーク。ここには「遠路」のマーキングがあるらしい。公務員特権の一つである「遠路」を使って目的地までひとっ飛びできるというわけだ。
レインは恐ろしいほどの速さで荷物から法律書を取り出した。
「公務員特別法第78条 移動手段「遠路」要請。目的地修正なし」
これはまかり間違って失敗なんてしたときには、昨日の比じゃない文句が返ってくるだろう。何せ疲れに疲れて手負いの獣のような気配を発しているのだ。この相棒は。
シアは手の先に集まる力を丁寧に感じながら杖を取り出した。右手に構えたその杖を、余すところなく緑色にひからせてから塚に軽く触れる。大丈夫だと確信した。
「発動」
次の瞬間。塚からは波紋のように魔法陣が生み出され、二人を取り囲んだ。そして二人の姿はぬかるんだ山道から消え去った。