第八十八話 地図の距離
朝。
机の上に、二枚の紙を並べた。
一枚は父上から借りた地図。
もう一枚は白紙。
地図には道がある。
町がある。
村がある。
川がある。
そして、それぞれの場所までの距離が分かる。
でも昨日知りたかったのは、線の長さではなかった。
「近いのに遅い場所」
白紙の左側へ書く。
その右。
「遠いのに早い場所」
マリーが覗き込んだ。
「そんな場所があるんですか?」
「探す」
あると決めてはいない。
まず記録。
最近、屋敷へ届いた荷物の伝票と、御者たちから聞ける範囲の移動時間。
同じ日に走ったものだけを比べる必要はない。
ただし。
季節が大きく違うもの。
道が壊れていた日。
特別に急いだ配送。
そういうものは別にする。
「普通の日ってどれ?」
そこで早くも困る。
晴れ。
雨。
荷物が多い。
少ない。
馬が違う。
御者も違う。
完全に同じ条件などない。
「普通を一個に決めない」
俺は記録の横に条件を書くことにした。
天候。
荷物。
分かる範囲で馬。
途中の立ち寄り。
そして、何か特別なことがあればそれも。
「距離と時間だけ並べない?」
「それだけなら簡単ですが」
先生が答える。
簡単。
でも間違えやすい。
町甲。
屋敷から比較的近い。
到着まで長い。
町乙。
甲より地図上では遠い。
でも到着時間は短い記録がある。
「いた」
二つを地図で見る。
甲への道。
途中に坂。
細い区間。
川を越える場所。
乙への道。
主要な街道がかなりの区間を通っている。
「本当に道のせい?」
まだ分からない。
荷物が違う。
出発時刻も完全には分からない。
「御者に聞く」
甲方面へよく行く人。
乙方面へよく行く人。
一人ずつ。
まず甲。
「こっち、近いのに時間かかる?」
御者は地図を見る。
「荷車なら、かかりますね」
「なんで?」
「坂があります。それと、この辺りは道が狭い」
指で示す。
「馬なら?」
「一人で乗るだけなら、もっと早いですよ」
荷車だから遅い。
「荷物がなければ?」
「多少は早くなります」
でも坂は坂。
道の狭さも変わらない。
次。
乙。
「こっちは遠いのに早い?」
別の御者が頷く。
「街道へ出てしまえば走りやすいですから」
「ずっと速く走る?」
「ずっとではありません」
町。
人。
曲がり角。
休憩。
速度を落とす場所はある。
でも甲より一定の速さで進める区間が長い。
「道がいいって、速く走れるだけ?」
御者は考える。
「止まりにくいのもありますね」
「止まる?」
狭い場所で対向する荷車。
道を譲る。
ぬかるみ。
大きな石。
急な坂。
「一回の遅れは小さくても?」
「何度もあれば時間になります」
なるほど。
距離が少し短い。
でも何度も減速。
止まる。
また動く。
距離が少し長い。
でも進み続けられる。
「平均すると逆になる?」
正確な計算はしていない。
でも仕組みは見える。
俺は白紙に二本の線を引く。
短い線。
途中にいくつも印。
長い線。
印は少ない。
「地図ではこっちが短い」
でも荷車にとっては。
短い線が、短い時間とは限らない。
「道の長さと、使いやすさ」
別。
午前。
今度は同じ町へ行く二つの道を聞いた。
主な道。
回り道。
地図上では回り道の方が明らかに長い。
「橋が使えない時はこっち?」
「そうです」
「普段使わない?」
「荷物によっては使いますよ」
「橋使えるのに?」
「こっちの方が楽な時があります」
また。
長い方を選ぶ。
「なんで?」
大きな荷車。
橋の手前の道が狭い。
回り道は長いが広い。
「大きい荷車なら?」
回り道。
「小さいなら?」
主な道。
「同じ目的地でも荷車で道変わる」
荷物の重さでも変わる。
危険な荷物。
壊れやすい荷物。
「最短の道って一個じゃない?」
地図上の最短距離は一つあるかもしれない。
でも。
最短時間。
最も安全。
最も安い。
最も壊れにくい。
それぞれ違う道になることがある。
「どれが正しい道?」
「何を優先するかでしょうね」
先生の答え。
またそこへ戻る。
俺は書く。
『最短距離の経路と、最短時間・低負担・安全な経路は一致しない場合がある』
「地図に全部書ける?」
無理だ。
一本の道へ、
速い。
遅い。
安全。
危険。
雨に弱い。
大型荷車には不向き。
冬は?
夏は?
全部書けば地図が読めなくなる。
「地図を分ける?」
目的別。
荷車用。
徒歩用。
大きな荷物。
季節。
「でも地図増えすぎる」
先生が言う。
「だから、必要な情報を選ぶのでしょう」
庭の地図と同じ。
地図は世界そのものではない。
目的のために情報を選んだもの。
「道の地図も選んでる」
父上から借りた地図に細い道が全部ない理由。
今ならよく分かる。
主要な移動を見るためなら。
全部はいらない。
でも俺が、
荷車がどれくらいで届くか。
を見たいなら。
道の太さ。
坂。
橋。
それが重要になる。
「別の地図がいる」
同じ土地。
違う地図。
午後。
俺は地図を写す許可をもらった。
全部ではない。
屋敷と、周辺の町や村。
主要な道だけ。
そこへ御者から聞いた情報を重ねる。
正確な所要時間ではなく。
まず。
『走りやすい』
『減速が多い』
『大型荷車は通りにくい』
『橋』
『急坂』
ただし。
俺が見たわけではない。
御者から聞いた。
だから印を変える。
「自分で見たのと、人から聞いたのを分ける?」
「うん」
庭の観測でもそうした。
測定値。
他人の記録。
推測。
混ぜない。
地図の端へ凡例を書く。
丸。
実際の配送記録あり。
三角。
御者からの聞き取り。
点線。
位置や条件が十分に確認できていない。
「増えてきましたね」
マリーが言う。
「まだ少ない」
でも。
少ない方がいい。
今は読める。
俺は甲と乙を見る。
地図上の距離。
配送時間の実例。
道の特徴。
「近いのに遅い理由、少し見える」
でも確定ではない。
甲の記録をもっと集めれば変わるかもしれない。
ある御者だけが遅い可能性もある。
「一回じゃ決めない」
それでも。
距離だけでは説明できない。
そこまでは言える。
少しして、父上が部屋へ来た。
「何の地図だ?」
「荷車から見た地図」
父上が笑う。
「荷車に目があるのか?」
「ない」
言い方を変える。
「荷車で運ぶ人が使う地図」
父上はしばらく眺めた。
「この道は雨の後に遅くなるぞ」
指されたのは東側。
「なんで?」
「水が残りやすい」
地面。
「晴れたら?」
「数日晴れれば問題ないことが多い」
道の状態が、今日の天気だけで決まらない。
昨日の雨。
その前。
「過去の天気も条件?」
「道によってはな」
増えた。
でも大事。
今日晴れ。
だから道が乾いている。
とは限らない。
「地図が毎日変わるみたい」
道そのものは同じ。
でも使いやすさが変わる。
「固定された線と、変わる状態」
別にする。
地図へ直接、
遅い道。
と書くのは危ない。
乾けば普通。
「道の性質と、今日の状態」
これも分ける。
急坂。
ほぼ変わらない。
橋の幅。
大きくは変わらない。
ぬかるみ。
変わる。
通行止め。
変わる。
「地図に残すものと、今日の情報」
二種類。
「昨日、橋が詰まったのも今日の情報?」
「そうですね」
先生が答える。
橋そのものが狭い。
これは比較的長く残る性質。
荷車が故障して塞がった。
一時的な状態。
「混ぜたら駄目」
同じ印にしたら。
翌日も通れないように見える。
「更新が必要になる」
変わる情報を地図へ入れるなら。
いつの情報か。
それが必要。
庭の魔素地図と同じ。
時間。
条件。
「道の地図まで観測記録みたいになる」
世界が動くから。
地図も固定できない。
でも全部を毎日書き直すのは無理。
「必要な変化だけ?」
父上が答える。
「実際、通れなくなった道などは伝達される」
「誰に?」
役人。
村。
商人。
御者。
必要な人へ。
「どうやって?」
人。
掲示。
使者。
商会。
場所によって違う。
「情報も移動する」
また。
荷物より先に。
道が塞がっている。
その情報が届けば。
荷車は最初から回り道を選べる。
「情報が荷物より速かったら得?」
「無駄足を減らせますね」
もし知らなければ。
橋まで行く。
通れない。
戻る。
回る。
時間を失う。
「道を直さなくても時間を減らせる」
情報だけで。
障害そのものは消えない。
でも避けられる。
「これも改善?」
新しい橋を作る。
道を広げる。
荷車を速くする。
それだけではない。
今の道の状態を早く知る。
それでも配送時間を短くできる場合がある。
「道具を変えない改善」
最近何度も出てくる。
運用。
情報。
順番。
使い方。
それらでも結果は変わる。
俺は地図の横に書く。
『経路を選ぶためには、地図上の固定情報だけでなく、現在の道路状態に関する情報が役立つ場合がある』
「現在っていつまで?」
昨日の情報。
今日は変わっているかもしれない。
「情報も古くなる」
食材みたいだ。
届くまでに時間がかかる。
古くなる。
「道の情報にも保存期間ある?」
先生が笑った。
「内容によるでしょう」
橋が壊れた。
数日は有効かもしれない。
荷車が道を塞いだ。
一時間後には動いているかもしれない。
「情報ごとに寿命違う」
地図の情報。
長い。
今日の通行情報。
短い。
「古い情報で回り道したら?」
本当はもう通れる。
余計に時間がかかる。
情報がない。
困る。
古い情報。
それも困る。
「新しいだけでも駄目?」
間違っていれば駄目。
誰が見た。
いつ。
どこ。
また観測記録と同じ。
「全部同じところに戻るな」
条件。
記録。
時間。
出所。
それが違うだけ。
夕方。
朝から作った地図を見る。
屋敷を中心に。
道。
町。
村。
その上に。
配送実例。
御者の聞き取り。
道の特徴。
一時的な状態は書き込まず、横の紙へ。
かなり見えるようになった。
でも。
まだ距離を時間へ変えられたわけではない。
「この道、何時間?」
一つの答えにはできない。
晴れ。
雨。
荷物。
荷車。
馬。
途中の停車。
「範囲で書く?」
まだ記録が足りない。
無理に数字を作らない。
代わりに。
『確認済みの実例』
を残す。
これが増えれば。
そのうち普段の幅が見えるかもしれない。
「地図の距離は間違ってない」
線の長さ。
それはそれで必要。
「でも時間を教えてくれない」
地図が悪いのではない。
目的が違う。
距離を知りたいなら、今の地図でいい。
配送時間を知りたいなら。
別の情報が必要。
部屋へ戻り、帳面をまとめる。
『地図上の距離が短い経路でも、坂・狭路・橋・路面などによって移動時間が長くなる場合がある』
『より長い経路でも、走りやすく停止や減速が少なければ、短時間で到着する場合がある』
次。
『最短距離、最短時間、安全性、荷車への負担、費用などを優先した経路は一致しない場合がある』
『使用する荷車や荷物によって、適した経路が変わることもある』
さらに。
『道路には、坂や幅のように比較的変わりにくい特徴と、ぬかるみ・事故・通行障害など時間とともに変化する状態がある』
『変化する情報には、いつ確認された情報かを残す必要がある』
そして。
『道路状態を早く知ることで、障害そのものを除去しなくても迂回や出発調整によって損失時間を減らせる場合がある』
最後。
『地図は距離を示せても、それだけでは荷物にとっての遠さを示さない』
ここを囲む。
荷物にとっての遠さ。
距離。
時間。
保存。
費用。
危険。
いろいろある。
でも今、一番気になるのは時間。
一日の中で。
荷車はどこまで進める?
そして。
一日を越えたら何が増える?
御者は帰れない。
馬を休ませる場所がいる。
荷物を置く場所。
食事。
宿。
夜。
保存。
「一日って境目になる?」
数時間の配送と。
一泊する配送。
ただ時間が少し増えるだけではない気がする。
日帰りなら必要なかったものが。
夜を越えるだけで必要になる。
俺は新しい頁を開いた。
『一日という壁』
その下へ書く。
『荷物が夜を越えると、何が増える?』
距離が少し伸びる。
それだけなら。
一日の終わりに特別な意味はない。
でも人も馬も眠る。
店も閉まる。
道も暗くなる。
荷物だけが時間を止めることはできない。
次に見るのは。
地図の上の距離ではなく。
荷物が一晩、
目的地へ着かないまま過ごすということだった。




