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第六十七話 水の中

翌朝。


庭へ出ると、昨日と同じ場所に桶が置かれていた。


水も入っている。


俺が頼んだわけではない。


マリーを見る。


「用意した?」


「昨日、ずっとご覧になっていましたので」


「やるって言ってない」


「では片づけますか?」


「やる」


マリーが笑った。


先生もすでに来ている。


クロムは桶には興味がないらしく、少し離れた石の上で丸くなっていた。


俺は帳面を開く。


昨日は木片だった。


薄い魔力の膜を木片へ触れさせると、その場所で形が変わった。


表面へ沿わせれば、端や単純な形もある程度分かった。


木片そのものを通り抜けることはできなかったが、周囲から裏へ回すことはできた。


今日は水。


木とは違う。


手を入れれば中へ入る。


物を落とせば沈むものも浮くものもある。


流れる。


形も変わる。


そして水そのものにも魔素は存在している。


「まず何を見る?」


先生に聞かれた。


「膜が水に入るか」


一番単純なところから。


帳面に書く。


『目的――薄い魔力の膜を水面へ接触させた時、および水中へ移動させた時の変化を見る』


その下。


『最初は静止した水を使用』


桶の水だ。


流れていない。


正確には完全に止まっているわけではない。


風もある。


温度差もある。


でも水路よりはずっと静かだ。


「木片と同じくらいの膜から始める」


小さな膜を作る。


輪郭は揃えない。


薄さも、昨日維持できた程度。


手の前。


維持。


そこから桶の上へ移動させる。


水面から少し上。


「ここまでは普通」


魔力の膜は残っている。


少し下げる。


水面へ近づく。


まだ触れない。


「何か分かる?」


先生に聞かれる。


集中する。


昨日の木片では、接触するまでははっきりしなかった。


今日も似ている。


水があることは目で知っている。


でも膜の感覚だけでは。


「分からない」


さらに下げる。


膜が水面へ触れた。


「あ」


木とは違う。


止まらない。


膜の一部がそのまま水面より下へ入った。


ただし何も変わらないわけではない。


「揺れた」


水面に小さな波ができた。


魔力の膜も少し歪んだ。


俺が下へ動かしたから水が動いたのか。


魔力そのものが水へ何かしたのか。


どちらもありそうだ。


「そのまま止めてみましょう」


先生が言う。


動かすのをやめる。


膜の一部だけが水中。


残りは空気中。


境目はちょうど水面にある。


維持。


「変な感じ」


「何がです?」


「上と下が違う」


空気中にある部分。


水中にある部分。


同じ一枚の膜なのに、操作した時の感じが少し違う。


水中側の方が、動かしにくいような。


いや。


「重い?」


言ってから首を振る。


重さなのかは分からない。


「動かした時の反応が違う」


それなら観察として残せる。


帳面へ書く。


『膜は水面で停止せず、水中へ進入した』


『空気中部分と水中部分で、操作時の感覚に差あり』


『水中側を「重い」と感じたが、重量変化を意味するかは不明』


先生がその一文を見て頷いた。


もう一度膜へ集中する。


今度は全体を水中へ入れる。


ゆっくり。


水面を越える。


膜が全部、水の中へ沈んだ。


「入った」


見える。


桶の中に淡い光がある。


ただし空気中より見え方が違う。


水面が揺れるたびに光も揺れて見える。


膜そのものが揺れているのか。


水越しにそう見えるだけなのか。


目だけでは分からない。


「止める」


水面が静まるまで待つ。


膜も維持する。


少しずつ波が小さくなる。


光の揺れも減った。


でも完全には消えない。


「俺が揺らしてる?」


自分の操作が不安定だからかもしれない。


水が動いているからかもしれない。


両方かもしれない。


先生が桶を横から見る。


「少なくとも維持はできていますね」


それは確かだ。


水中でも膜は消えない。


形は少し歪んでいる。


でも一枚の広がりとして残っている。


「水が魔力を消すわけじゃない」


また広すぎる言い方になった。


「この膜は、水に入れてもすぐには消えなかった」


書き直す。


今試したのは俺の魔力。


この桶の水。


この条件。


それだけだ。


水全部について決める必要はない。


二回目。


今度は最初から水中へ膜を作れるか試す。


さっきは空気中で作ってから入れた。


球から棒へ変えた時と同じで、作り方が違えば結果も変わるかもしれない。


右手を桶の横へ置く。


水には触れない。


桶の中。


水中の位置を意識する。


そこへ魔力を出す。


「……出た」


淡い光が水の中に現れた。


でも形が悪い。


膜ではない。


ぼんやりした塊。


薄く広げる。


「難しい」


空気中で作る時より、位置を掴みにくい。


目では見えている。


でも水越しなので輪郭が分かりにくい。


感覚も少し違う。


薄くする。


広げる。


なんとか膜に近い形になる。


維持。


できる。


「空気で作ってから入れる方が楽」


今のところは。


帳面へ書く。


『水中で直接形成することも可能』


『今回の試行では、空気中で形成してから水中へ移す方が形を整えやすく感じた』


理由は分からない。


俺が空気中での形成に慣れているからかもしれない。


視覚の問題かもしれない。


水中では魔力の動きそのものが違う可能性もある。


候補だけ残す。


次に試すのは、移動。


水中の膜を横へ動かす。


ゆっくり。


水が動く。


膜の前側に小さな流れができる。


後ろ側にも揺れが残る。


「抵抗?」


前の世界で知っている。


水の中で手を動かせば、空気中より動かしにくい。


でも魔力の膜にも同じ言葉をそのまま使っていいのか。


「水が動いてる」


まず確実なこと。


膜を動かすと、水面に波が出る。


水中にも小さな流れが見える。


つまり少なくとも、俺の膜の移動と水の動きは無関係ではない。


「魔力って水を押してる?」


先生が答える前に、自分で考える。


木片も動いた。


膜を強く押しつけた時、木片そのものが揺れた。


なら魔力は物質へ何らかの作用を与えられる。


それ自体は不思議ではない。


魔法で物を動かすことは、この世界では普通にある。


ただ、今作っている薄い膜がどの程度物質へ力を伝えているのかは調べていない。


「速く動かしたら?」


やってみたい。


でも条件を変えるなら段階を分ける。


遅く。


少し速く。


速く。


まず遅く。


膜を桶の左から右へ。


水面に小さな波。


膜は維持できる。


次。


少し速く。


波が大きくなる。


膜も大きく歪む。


右端が後ろへ引かれるように曲がる。


「形が遅れる」


そう見える。


中央を動かした時、端が同じようには付いてこない。


空気中で膜を動かした時にも似たことがあった。


でも水中ではもっと大きい。


三回目。


速く。


膜が一気に歪んだ。


中央は進む。


上下の端が遅れる。


一枚の膜が斜めに引き伸ばされる。


「切れる」


そう思った直後。


右上が分断した。


そこから崩れ、全体が散った。


水面が揺れる。


「速いと壊れた」


先生が聞く。


「速度が原因ですか?」


「速く動かした時に壊れた」


言い直す。


速度そのものが原因とはまだ決めない。


速く動かしたことで、水の動きが大きくなった。


俺の操作が追いつかなかった可能性もある。


形を保つための修正が足りなかったかもしれない。


帳面へ、


『移動を速くした試行で膜の変形が増大し、端から分断』


と書く。


次。


『水の流動、操作遅延、修正不足など原因候補は未分離』


午前中だけでかなり増えた。


でもまだ本題がある。


「水の中の物」


桶の底に、小さな石を一つ沈めてもらう。


見えている。


まずは見えていていい。


膜を水中へ。


石へ近づける。


接触。


「分かる」


木片と同じように、膜の一部が石で止まる。


周囲は進む。


石の表面へ沿わせる。


曲面。


木片より難しい。


角がない。


ずっと少しずつ向きが変わる。


「丸い」


膜を沿わせることで分かる。


ただし目でも見ている。


次は見ない。


一度膜を消す。


先生に石の位置を変えてもらう。


俺は目を閉じる。


「桶そのものは動かしていません」


「うん」


水面の位置は分かっている。


膜を作る。


水へ入れる。


見えない。


昨日、視覚なしでも膜を維持できた。


でも水中では初めてだ。


「分かりにくい」


空気から水へ入った瞬間の変化は感じる。


その先。


ゆっくり下へ。


何もない。


少し横。


何かに当たった。


「石?」


目は開けない。


膜を広げる。


小さい。


表面が曲がっている。


「たぶん石」


目を開ける。


石だった。


「おお」


木片の時と同じことが水中でもできる。


魔力の膜を水中へ伸ばし、物体へ接触させる。


その変形から存在を感じる。


「水があっても探せる」


ただし桶は小さい。


距離も近い。


石の位置も『桶の中のどこか』と知っている。


条件はかなり簡単だ。


「もっと深い水なら?」


やりたくなる。


でも桶では無理。


水路なら深さも流れもある。


池ならさらに広い。


海。


そこまで考えて止める。


遠すぎる。


まず桶。


昼食前に、もう一つ試す。


膜ではなく球。


昨日までずっと基準にしてきた形だ。


球を水中へ入れる。


「膜より楽」


形が崩れにくい。


少なくとも俺には。


横へ動かす。


少し速く。


膜ほど大きく変形しない。


「形で違う」


これは面白い。


水中では、形によって移動した時の崩れ方が違う可能性がある。


球。


棒。


板。


膜。


全部試せる。


でも今日はやらない。


帳面の端へ、


『水中移動時の形状差』


とだけ書いた。


マリーが俺を見る。


「我慢できましたね」


「最近できる」


「海まで行くと言い出すかと思いました」


「まだ行かない」


まだ。


昼食後。


先生が提案した。


「水そのものを動かしてみますか?」


俺は桶を見る。


「膜を止めて?」


「はい」


午前中は膜を動かした。


今度は膜を止め、水を動かす。


同じように見えて、条件が違う。


「やる」


桶の中央に膜を作る。


水中。


固定。


できるだけ動かさない。


先生が細い棒を水へ入れる。


膜には触れない位置。


「動かします」


棒をゆっくり動かす。


水が流れる。


少し遅れて、膜が揺れた。


「来た」


水の流れが膜へ届いた。


右端が動く。


中央も歪む。


俺は位置を保とうと修正する。


「止めるの難しい」


先生が棒を止める。


水はすぐには止まらない。


膜も揺れ続ける。


少しずつ静かになる。


「膜を動かさなくても、水が動けば変わる」


これはかなりはっきりしている。


次は少し強く水を動かす。


膜の変形も大きい。


さらに強く。


維持できなくなった。


散る。


「流れの中だと難しい」


「今の桶では、ですね」


「うん」


水路ならもっと複雑だろう。


一定方向へ流れている。


場所によって速さも違う。


石や壁で流れも変わる。


そこで膜を維持できれば。


逆に、膜の変形から水の流れを感じられるかもしれない。


「水を見る道具になる?」


先生が俺を見る。


「もう用途を考えていますね」


「思いついただけ」


帳面の端へ書く。


『膜の変形から水の動きを知れる可能性』


可能性だけ。


まだ測定具ではない。


次は目を閉じる。


膜を水中へ固定。


先生に水を動かしてもらう。


いつ動かすかは教えない。


待つ。


膜を感じる。


静か。


少し揺れる。


「今?」


「まだです」


外れた。


俺自身の維持が揺れただけだった。


もう一度。


待つ。


変化。


右から押されたように感じる。


「動いた」


「はい」


当たった。


「右から?」


先生が少し考える。


「私から見れば、左側から右側へ流れるように動かしました」


俺から見ても同じ方向だ。


当たり。


次。


動いたことは分かった。


方向は外した。


次。


分からなかった。


何度か繰り返す。


木片を動かした時と似ている。


大きな変化は分かりやすい。


小さい変化は見落とす。


方向は間違えることがある。


それでも水の中で膜が変形すれば、視覚なしでも何かが変わったと認識できる場合がある。


「膜が感覚器みたい」


言ってから考える。


便利な言葉だ。


でもまだ早い。


膜そのものが感じているわけではない。


感じているのは俺だ。


膜の状態変化を俺が受け取っている。


「感覚器じゃない」


帳面へ書く。


『膜の状態変化を術者が認識することで、接触や周囲の変化を知ることができる』


長い。


でも今はこれでいい。


夕方。


最後に水路へ行った。


実験はしない。


見るだけ。


庭を一か月観測した場所。


水が流れている。


桶とは全然違う。


表面にも細かな波。


石の周りでは流れが分かれる。


端では遅く見える。


中央は少し速い。


落ち葉が流れていく。


「ここに膜を入れたら」


言う。


マリーがすぐに返した。


「今日は見るだけですよ」


「分かってる」


水路へ手を入れる。


冷たい。


手の周りで水が分かれる。


指の間を通る。


手の後ろには小さな渦ができる。


膜でも似たことが起きるのだろうか。


形を変えれば、水の受け方も変わる。


薄い膜を流れへ向ける。


横へ向ける。


球にする。


棒にする。


固定する。


流す。


試せることはいくらでもある。


でも、その前に一つ気になる。


水の中へ魔力を入れた時。


俺は水そのものを一つの塊として見ていた。


本当にそうか?


水面。


中央。


底。


石の近く。


流れている場所。


止まりかけている場所。


全部同じではない。


庭の魔素を地図にした時と同じだ。


『水の中』


という一つの条件では足りないかもしれない。


帳面を開く。


今日のまとめを書く。


『薄い魔力の膜は、今回の条件では水中でも維持できた』


『空気中と水中では操作感に差を感じた』


『水中で膜を移動させると水が動き、膜自身も変形した』


『水を動かした場合も、固定した膜に変形が生じた』


『水中の物体へ膜を接触させ、その存在を認識できた』


そして、


『水中では、膜と周囲の水が互いに無関係ではない』


最後の一文は少し曖昧だ。


でも今分かっている範囲なら、それくらいがちょうどいい。


もう一行。


『次――流れのある水』


書きかけて止めた。


水路へ行く前に、桶でもう少しやれる。


水の流れだけではない。


温度。


深さ。


入っているもの。


水そのものが変われば、魔力の膜はどうなる?


全部始めたら終わらない。


線を引いて消す。


代わりに、


『次に何を変えるかは明日決める』


と書いた。


先生がそれを見て笑った。


「ずいぶん慎重になりましたね」


「増えすぎるから」


一つ試すと三つ増える。


三つ試せば、もっと増える。


全部追いかけていたら、どこから始まったのか分からなくなる。


だから一つずつ。


水路の流れを見ながら帳面を閉じた。


木片では、魔力は表面で止まった。


水では、中へ入った。


同じ『物に触れる』でも、境目の越え方が違う。


なら魔力の形だけを考えていても足りない。


触れる相手によって、同じ魔法の振る舞いも変わる。


丸いか。


薄いか。


広いか。


それだけではない。


何の中にあるのか。


何に触れているのか。


魔法は術者だけで完成しているわけではない。


周りにあるものまで含めて、起きることが決まっている。


水の中で揺れた薄い膜は、そのことを初めてはっきり見せていた。

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