第三夢十夜 工業地帯を行く列車(第二十四夜)
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私は眼下に粗末な家並を並べる工場地帯の高架の上を列車に乗って走っていた。最早夕暮時で遠く西の海側からオレンジ色の眩しい陽射しが横に射している。遠近に工場の建物と煙突が並んでおりその時刻であっても煙を吐き出していた。高架の鉄道橋は不思議な事にコンクリート製ではなくずっと続く鉄橋だった。だから列車の走行音がごんごんと大きく響いていた。
私は何故その列車に乗っているのか、何処を目指しているのかも知らなかった。ただ自分の身を委ね任せる以外に無かった。しかし不思議と不安は感じなかった。自分に出来る唯一の在り方、辿る事の出来るただ一つの道、何故かそんな気がしていたのである。
私は見下ろす事の出来る近くの家並を見詰めた。夕方だが誰も通りを歩いていない。自動車や自転車に乗る人間も居ない。夕陽が幾本ものそんなに広くない通りの端から端までを染め、列車の騒音の中に居ながら視覚的な静寂が私の心に広がっていた。
「何か、何か用事があったんだが……、思い出せない。誰かに会いに行くところなのか、何かの品物を届けに行く途中なのか」
しかし粗末な作業着の私は何の荷物ももってはおらず、訪ねるべき誰かを思い出す事も出来なかった。列車はそんなに早い速度で走ってはいなかったが減速する様子も無い。海の方角に向かって走っており、もうその海も近いというのに。
この列車は何処に行く列車なのか。何処に向かっているのだろうか。どうせまたろくでもない所に私を導いていって其処で私にとんでもない難題を突き出し解決を迫るのだろう。そうに決まっている。こんな風に何が何だか判らないまま私が何処かに連れられていって嬉しかった事など、今までの私の経験で一度だってあった事は無い。全身が硬直する様な恐怖か、逃げ出したくなる程の苦悩か、息も出来ないくらいの後悔か、どうせそんなものが私を待ち受けているのに違い無いのだ。それが私の運命だ。逃げ様が無い。この私が慰められ心を休ませる事が出来るなどと、そんな事態を期待してはいけない。その期待の分だけ私は運命に裏切られるから。何一つ良い有難いものなどやって来ない、そう思っている時だけ私にはほんの少しの本当の慰めがあるのだ。
窓の外、列車の進行方向に海岸が目前に迫ってきた。幾らとんでもないものが待ち受けているからといってこのまま海の中に突入する事は無いと思っていたが、列車は海岸の直ぐ傍で急に左にカーブし、速度を落として停車した。私は列車を降りそのまま小さな改札口を出たが、其処は海の堤防で一方が堰き止められ他に何処に向かう事も出来ない突端の場所であるだけだった。何故此処に駅が在るのだろう。降りても何処にも行けないし何も出来ない。私が鉄道線の薄暗いじめじめした高架下で途方に暮れていると、私の他にも人間が集まり始めた。そんなに多い人数ではない。十数人といったところだ。ところが彼らは灯りも無い鉄道の高架下の床に茣蓙を敷いて続々と座り込み、そのうちの殆どの人間が横になり始めた。様子を見ているとどうもそのまま眠って仕舞いそうな感じである。それにその行動に関して彼らには全く躊躇も迷いも無い様子だった。まるでこの駅、否駅の高架の下は行く先の無い人間の溜まり場であるかの様に……。
ここで私ははっと気が付いた。若しかして、若しかして此処は、この駅というのは、居場所を失って行先の無い人間が集まって来て時間を過ごす、いや死ぬのを待つ、人間が最後に行き着く終末の場所ではないのか。
私は彼らの茣蓙の横を通り抜けその高架下を歩いて抜け向こう側に出てみた。そして息を呑んだ。反対側に居た時には見えなかったが其処には既に飢死にして半分骨になっている者、今まさに死の直前にある者、病気らしい者、要するに今までにこの場所に着いて居座りその当然の運命を引き受けている者達が多く居たのである。それは勿論悲惨な光景だった。しかしどういう訳が既に私は知っていた。
「この連中はもうずっと前に生きていきたいという願いを自分から棄てたのだ。それはそうなって当然という様な過酷な運命を与えられた結果という場合もあるし、そうではなかったのに生きるまともな目標をもつ事に努力せず流れ流されて生きたいとは思わなくなった。それで最早あるのか無いのか判らない意志とも謂えないものに引き摺られて此処に来た。他に来る場所が無かったのだ」
こういう光景を目にした私は普通なら彼らに同情した筈だった。しかし現実にはその感情が私の胸を満たす事はなかった。勿論忌まわしいとも思わなかったけれど、そこに私は人間が健全に生きる事の難しさ、希望を胸に抱き続けて生きていく事の著しい困難を覚えただけだった。彼らに声を掛けようとは思わなかった。既に手遅れ、そうとしか私には感じられなかったのである。
私は思った。
「私は彼らの様にはならないだろうか。彼らは私に比してずっと善くなかったから斯くなったのか。いいや、違う。そういう事ではないのだ。この運命に彼らが相当しているかどうかは私には絶対に判らない。今私が此処で汲み取らねばならないのはそういうものではない。現在の私が彼らと同じなのか、それともそうではないのかという事だ。私がそうなのか、そうでないのか、ただそれだけだ」
私は自分がこれ以上無い程自然に、滑らかに、列車に乗って此処にやって来た事を想った。そうだ。此処にやって来る列車の中に居た私は間違い無く彼らと『同じ』だった。だから私は気が付いたらあの列車に乗っていたのだ。けれども彼らを見て現在の私を自覚した途端、私は彼らと同じであってはいけない、私は彼らと違うという強い感覚が湧き起こってきた。
「私の未来が如何なるものか、どうして今の私に予期されよう。どんなに考えてもそれは虚しい。何の具体的な観念もそれは私に齎さない。私はただ今の私がしなければならない役目をもっている事、その事実を強く思う。詰まり、それが私の真実なのだ。若しかしたら遠い未来、本当に私はまた此処に来る事になるかも知れない。私には此処を嫌い遠ざかりたいという欲求が湧いて来ないからだ。私はとても落ち着いている。寧ろ心は静かだ。しかし今は違う。今私が居るべき場所は此処ではない。別の場所だ」
私は帰りの列車があるのか無いのかも知らないまま、私が列車を降りたこの駅の改札に向かって歩き出した。予想通りこの駅には此処から出発して何処かに向かう切符は売っていなかった。だから私は線路敷に飛び降りそのまま軌道上を歩き始めた。鉄道線は高架の鉄橋だ。対向列車が来たら御終いだ。けれども私は歩き続けた。
「そう、これでいい。どうせ何も出来ないのかも知れない。生きてまた何かとんでもない後悔を背負って苦しむだけなのかも知れない。けれどそれでも此処は現在の私の居場所ではない。私の居るべき場所は、私が苦しいと感じるか否かで決まるのではない。苦しかろうが嬉しかろうが、私が其処に居なければならないと思う、そう感じる場所だ」
遠く軌道上には何も見えなかった。対向列車も、私が行くべき場所も。ただ陽が落ちて暗くなった夜空があった。
此処で目が覚めた。
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