『前世が過労死秘書だった元王太子妃、有給休暇を使って隣国の路地裏に現地調査に来た結果』 ~出会うべくして出会った、という話~ ep-18
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです
「とんかつ」
その一言が、シルヴィアの手を止めた。
領地の小さなオフィス。麦の収穫予測を確認していた万年筆が、羊皮紙の上で静止した。
報告してきたのは、国境の村から戻ったばかりの使用人だった。
「隣国の王都の路地裏に、見たことのない料理を出す店が最近できたそうで。揚げた豚肉を、これまた揚げた衣で包んで、刻んだ葉野菜と甘辛い汁と一緒に食べるのだとか」
使用人は続けた。
「店主は隣国の言葉がうまくない外国人らしく、食べた人が全員泣くと評判で」
シルヴィアは万年筆を置いた。
(とんかつだ)
間違いなく、とんかつだ。
あのサクサクとした衣の食感。じゅわりと広がる肉汁。千切りキャベツの清涼感。ソースの甘みと酸味。前世で終電後に一人で食べた、あの深夜のとんかつ定食。
胃袋が、前世の記憶と一緒に叫んでいる。
だがそれだけではなかった。
(……食べた人が全員泣く)
シルヴィアの脳内が、静かに回転し始めた。
揚げた豚肉。外国人の店主。隣国の言葉がうまくない。食べた人が全員泣く。
(……転移者、あるいは転生者か)
前世が日本の過労死秘書だったシルヴィアには、この世界に日本人がいる可能性が、ゼロではないとわかっていた。
だがこれほど直接的な形で噂が届くとは、思っていなかった。
シルヴィアは手帳を開いた。
来月の欄に一行書き込んだ。
「隣国王都、とんかつ現地調査。休暇を利用して」
いつかの自分への、業務命令だ。
◇
一ヶ月後。
シルヴィアは馬車の中にいた。
今日は休暇だ。
本当の意味での、休暇。
書類もない。依頼もない。ルーカスからの報告もない。
ただ、現地調査に来た。
念のため手帳は持ってきた。調査報告書を書く必要があるかもしれないので。
マリアに「お休みなのに手帳を持っていくんですか」と言われた。
「現地調査です」と答えたら、マリアが「かしこまりました……」と困惑した顔をした。
馬車の窓から、隣国の街並みを見た。
前世の記憶が、じわりと動いている。
あの頃も、終電で揺れる電車の窓から、夜の街を見ていた。明日もまた残業だと思いながら、それでも悪くないと思っていた。
過労死するとは、思っていなかった。
(……でも、今は定時で終われる)
シルヴィアは窓の外を見ながら、静かに思った。
前世より、ぜんぜんましかもしれない。
◇
路地裏の暖簾は、噂通りだった。
煤けていて、字が汚くて、小さい。
シルヴィアは暖簾の前で立ち止まった。
手帳を開いた。
「現地視察、開始。対象店舗外観、特記事項なし。暖簾、煤けている。看板、字が汚い」
書き込んだ。
暖簾をくぐった。
カウンターの奥で、男が振り向いた。
「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」
シルヴィアは席に着いた。
手帳を開いたまま、店内を観察し始めた。
狭い。カウンターが六席。厨房は一人で回している。清潔。食材の状態、良好。料理人の所作、無駄がない。
「定食を一つ」
「わかった」
シルヴィアは手帳にペンを走らせながら、男の手元を観察した。
包丁の入れ方。衣のつけ方。油の温度管理。
全部、理にかなっている。
油が鍋に注がれた瞬間、匂いが来た。
シルヴィアの手が、止まった。
(……本物だ)
前世の深夜のとんかつ屋と、同じ匂いがした。
肉が油に沈んだ。
ジュワァァァ……ゴボゴボゴボ……。
シルヴィアは手帳を持ったまま、その音を聞いていた。
この音を最後に聞いたのは、前世だった。
残業を終えて、終電ギリギリで滑り込んだ駅前のとんかつ屋。
カウンターに一人で座って、この音を聞きながら、明日もまた頑張れると思っていた。
◇
皿が出てきた。
黄金色の衣。湯気。
シルヴィアは手帳を持ったまま、箸を取った。
一口、食べた。
ザクゥゥゥッ。
手帳が、膝の上に落ちた。
シルヴィアは気づかなかった。
ただ、食べた。
二口目。三口目。
目の奥が、じわりと熱くなった。
前世の深夜のとんかつ定食と、同じ味がした。
いや、もっとうまかった。
シルヴィアは皿が空になってから、床に落ちた手帳に気づいた。
拾った。
ペンを取った。
「現地視察報告」と書きかけて、止まった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
数字で表せない何かが、胃の底にある。
揚太郎が振り向かずに言った。
「どうだ」
「……うまかったです」
「そうか」
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「なぜ銀貨三枚なんですか」
揚太郎は少し間を置いた。
「日本にいた頃、千円のとんかつを食うためだけに三時間残業した夜がある」
シルヴィアの手が、止まった。
(……日本)
(……千円)
(……残業)
「……千円というのは」
「この世界の銀貨三枚くらいの値段だ」
「……残業というのは」
「定時を過ぎても仕事をすることだ」
「……日本というのは」
揚太郎が振り向いた。
目が、細くなった。
「……お前」
シルヴィアが眼鏡を押し上げた。
「……貴方」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「……日本人か」と揚太郎が言った。
「……前世が、そうです」と シルヴィアが言った。
「前世?」
「転生です。この世界の地方領主の令嬢に生まれ変わりました。六歳の時に前世の記憶が戻って」
「俺は転移だ。パン粉を握りしめたら飛ばされた」
「……パン粉」
「半額のやつだ」
シルヴィアはしばらく揚太郎を見た。
「……半額のパン粉で転移できるんですね」
「俺も意味はわからない」
また沈黙。
今度は全然違う種類の沈黙だった。
シルヴィアが先に口を開いた。
「……前世の職業は」
「会社員。営業だ。手取り二十二万」
「私は秘書です。過労死しました」
「……過労死か」
「睡眠時間三時間、上司の機嫌ひとつで休日が消える職場でした」
「……それはきつい」
「貴方は」
「残業は多かったが、過労死はしていない。パン粉で飛ばされた」
シルヴィアは少し考えた。
「……どちらがましかわかりません」
「俺もわからない」
二人は同時に、少し笑った。
この世界に来てから初めて、同じ場所から来た人間と笑った気がした。
◇
揚太郎が鍋に向き直った。
「過労死秘書が、なぜ王太子妃になった」
「転生先の家柄が必要とされていました。私は王宮の財務を引き受けて、六年後に請求書を叩きつけて離婚しました」
「請求書?」
「六年間の残業代です。王国年間国家予算の約五割でした」
揚太郎は手を止めた。
「……王国予算の五割」
「監査済みです」
「……そうか」
「離婚した日、実家の領地に帰りました。三ヶ月後、使用人から隣国にとんかつらしき料理があると聞いて、今日来ました」
「調査か」
「現地調査です」
揚太郎は少し口の端を上げた。
「手帳を持ってきたのか」
「念のため」
「今、使っているか」
シルヴィアは膝の上の手帳を見た。
最後に書いたのは「現地視察報告」の途中だった。
「……使っていません」
「そうか」
シルヴィアは手帳を閉じた。
「前世で過労死して、この世界でも六年間残業して、やっと定時に帰れるようになりました」
「そうか」
「貴方は日本でも残業していた。この世界でも毎日揚げている」
「そうだな」
「懲りないんですね、二人とも」
「そうかもしれない」
しばらく、油の音だけが響いた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
シルヴィアが言った。
「貴方の銀貨三枚の話、教えてください」
「さっき言った。千円で幸せが手に入った。それが正解だったから、この値段にした」
「誰のための値段ですか」
「一日働いた人間が、その金で来られる。そういう値段だ」
シルヴィアはその言葉を、しばらく手帳のない手の中で転がした。
「……私の前世の千円のとんかつも、同じでした」
「何が」
「残業をして、やっと食べられた千円のとんかつが、その日一番正しいものでした。誰かのための値段ではなく、自分のための値段でしたが」
「それでいい」
「……そうですか」
「届ける側と届けられる側、どちらも銀貨三枚だ。方向が逆でも、同じ値段でいい」
シルヴィアは銀貨を三枚、カウンターに置いた。
立ち上がった。
暖簾に手をかけて、止まった。
「一つだけ」
「なんだ」
「この店に来て、よかったです」
揚太郎は鍋に向き直ったまま言った。
「また来い」
「来ます。次も現地調査の名目で」
「名目でいい」
シルヴィアは暖簾をくぐった。
路地裏の夕暮れが、石畳をオレンジに染めていた。
日本の夕暮れに、少し似ていた。
(……出会うべくして、出会った)
シルヴィアは静かに思った。
前世で過労死して、この世界に転生して、六年間王宮で働いて、やっと自由になって、隣国の路地裏まで現地調査に来た。
その全部が、この暖簾に繋がっていた。
馬車に乗り込んで、領地への帰り道、窓から空を見た。
手帳を取り出さなかった。
ただ、空を見ていた。
明日は、領地の水路補修の見積もりがある。
だが今日の夕暮れだけは、数字にしなくていい。
定時を告げる隣国の鐘の音が、遠くから聞こえてきた。
(完)
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