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『前世が過労死秘書だった元王太子妃、有給休暇を使って隣国の路地裏に現地調査に来た結果』 ~出会うべくして出会った、という話~ ep-18

掲載日:2026/05/30

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです

「とんかつ」

 その一言が、シルヴィアの手を止めた。

 領地の小さなオフィス。麦の収穫予測を確認していた万年筆が、羊皮紙の上で静止した。

 報告してきたのは、国境の村から戻ったばかりの使用人だった。


「隣国の王都の路地裏に、見たことのない料理を出す店が最近できたそうで。揚げた豚肉を、これまた揚げた衣で包んで、刻んだ葉野菜と甘辛い汁と一緒に食べるのだとか」


 使用人は続けた。

「店主は隣国の言葉がうまくない外国人らしく、食べた人が全員泣くと評判で」


 シルヴィアは万年筆を置いた。

(とんかつだ)

 間違いなく、とんかつだ。

 あのサクサクとした衣の食感。じゅわりと広がる肉汁。千切りキャベツの清涼感。ソースの甘みと酸味。前世で終電後に一人で食べた、あの深夜のとんかつ定食。

 胃袋が、前世の記憶と一緒に叫んでいる。

 だがそれだけではなかった。

(……食べた人が全員泣く)

 シルヴィアの脳内が、静かに回転し始めた。

 揚げた豚肉。外国人の店主。隣国の言葉がうまくない。食べた人が全員泣く。

(……転移者、あるいは転生者か)

 前世が日本の過労死秘書だったシルヴィアには、この世界に日本人がいる可能性が、ゼロではないとわかっていた。

 だがこれほど直接的な形で噂が届くとは、思っていなかった。


 シルヴィアは手帳を開いた。

 来月の欄に一行書き込んだ。


「隣国王都、とんかつ現地調査。休暇を利用して」

 いつかの自分への、業務命令だ。


 ◇


 一ヶ月後。

 シルヴィアは馬車の中にいた。

 今日は休暇だ。

 本当の意味での、休暇。

 書類もない。依頼もない。ルーカスからの報告もない。

 ただ、現地調査に来た。

 念のため手帳は持ってきた。調査報告書を書く必要があるかもしれないので。


 マリアに「お休みなのに手帳を持っていくんですか」と言われた。

「現地調査です」と答えたら、マリアが「かしこまりました……」と困惑した顔をした。

 馬車の窓から、隣国の街並みを見た。

 前世の記憶が、じわりと動いている。

 あの頃も、終電で揺れる電車の窓から、夜の街を見ていた。明日もまた残業だと思いながら、それでも悪くないと思っていた。

 過労死するとは、思っていなかった。

(……でも、今は定時で終われる)

 シルヴィアは窓の外を見ながら、静かに思った。

 前世より、ぜんぜんましかもしれない。


 ◇


 路地裏の暖簾は、噂通りだった。

 煤けていて、字が汚くて、小さい。

 シルヴィアは暖簾の前で立ち止まった。

 手帳を開いた。


「現地視察、開始。対象店舗外観、特記事項なし。暖簾、煤けている。看板、字が汚い」


 書き込んだ。

 暖簾をくぐった。

 カウンターの奥で、男が振り向いた。


「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」

 シルヴィアは席に着いた。

 手帳を開いたまま、店内を観察し始めた。

 狭い。カウンターが六席。厨房は一人で回している。清潔。食材の状態、良好。料理人の所作、無駄がない。


「定食を一つ」


「わかった」


 シルヴィアは手帳にペンを走らせながら、男の手元を観察した。

 包丁の入れ方。衣のつけ方。油の温度管理。

 全部、理にかなっている。

 油が鍋に注がれた瞬間、匂いが来た。

 シルヴィアの手が、止まった。

(……本物だ)

 前世の深夜のとんかつ屋と、同じ匂いがした。

 肉が油に沈んだ。


 ジュワァァァ……ゴボゴボゴボ……。

 シルヴィアは手帳を持ったまま、その音を聞いていた。

 この音を最後に聞いたのは、前世だった。

 残業を終えて、終電ギリギリで滑り込んだ駅前のとんかつ屋。

 カウンターに一人で座って、この音を聞きながら、明日もまた頑張れると思っていた。


 ◇


 皿が出てきた。

 黄金色の衣。湯気。

 シルヴィアは手帳を持ったまま、箸を取った。

 一口、食べた。

 ザクゥゥゥッ。

 手帳が、膝の上に落ちた。

 シルヴィアは気づかなかった。

 ただ、食べた。

 二口目。三口目。

 目の奥が、じわりと熱くなった。

 前世の深夜のとんかつ定食と、同じ味がした。

 いや、もっとうまかった。

 シルヴィアは皿が空になってから、床に落ちた手帳に気づいた。

 拾った。


 ペンを取った。

「現地視察報告」と書きかけて、止まった。

 何を書けばいいのか、わからなかった。

 数字で表せない何かが、胃の底にある。

 揚太郎が振り向かずに言った。

「どうだ」


「……うまかったです」


「そうか」


「一つ聞いていいですか」


「なんだ」


「なぜ銀貨三枚なんですか」


 揚太郎は少し間を置いた。

「日本にいた頃、千円のとんかつを食うためだけに三時間残業した夜がある」


 シルヴィアの手が、止まった。

(……日本)

(……千円)

(……残業)

「……千円というのは」


「この世界の銀貨三枚くらいの値段だ」


「……残業というのは」


「定時を過ぎても仕事をすることだ」


「……日本というのは」


 揚太郎が振り向いた。

 目が、細くなった。

「……お前」


 シルヴィアが眼鏡を押し上げた。

「……貴方」


 沈黙。

 一秒。

 二秒。

 三秒。


「……日本人か」と揚太郎が言った。


「……前世が、そうです」と シルヴィアが言った。


「前世?」


「転生です。この世界の地方領主の令嬢に生まれ変わりました。六歳の時に前世の記憶が戻って」


「俺は転移だ。パン粉を握りしめたら飛ばされた」


「……パン粉」


「半額のやつだ」


 シルヴィアはしばらく揚太郎を見た。

「……半額のパン粉で転移できるんですね」


「俺も意味はわからない」

 また沈黙。

 今度は全然違う種類の沈黙だった。

 シルヴィアが先に口を開いた。


「……前世の職業は」


「会社員。営業だ。手取り二十二万」


「私は秘書です。過労死しました」


「……過労死か」


「睡眠時間三時間、上司の機嫌ひとつで休日が消える職場でした」


「……それはきつい」


「貴方は」


「残業は多かったが、過労死はしていない。パン粉で飛ばされた」


 シルヴィアは少し考えた。

「……どちらがましかわかりません」


「俺もわからない」

 二人は同時に、少し笑った。

 この世界に来てから初めて、同じ場所から来た人間と笑った気がした。


 ◇


 揚太郎が鍋に向き直った。

「過労死秘書が、なぜ王太子妃になった」


「転生先の家柄が必要とされていました。私は王宮の財務を引き受けて、六年後に請求書を叩きつけて離婚しました」


「請求書?」


「六年間の残業代です。王国年間国家予算の約五割でした」


 揚太郎は手を止めた。

「……王国予算の五割」


「監査済みです」


「……そうか」


「離婚した日、実家の領地に帰りました。三ヶ月後、使用人から隣国にとんかつらしき料理があると聞いて、今日来ました」


「調査か」


「現地調査です」


 揚太郎は少し口の端を上げた。

「手帳を持ってきたのか」


「念のため」


「今、使っているか」


 シルヴィアは膝の上の手帳を見た。

 最後に書いたのは「現地視察報告」の途中だった。

「……使っていません」


「そうか」

 シルヴィアは手帳を閉じた。

「前世で過労死して、この世界でも六年間残業して、やっと定時に帰れるようになりました」


「そうか」


「貴方は日本でも残業していた。この世界でも毎日揚げている」


「そうだな」


「懲りないんですね、二人とも」


「そうかもしれない」

 しばらく、油の音だけが響いた。


 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 シルヴィアが言った。

「貴方の銀貨三枚の話、教えてください」


「さっき言った。千円で幸せが手に入った。それが正解だったから、この値段にした」


「誰のための値段ですか」


「一日働いた人間が、その金で来られる。そういう値段だ」


 シルヴィアはその言葉を、しばらく手帳のない手の中で転がした。

「……私の前世の千円のとんかつも、同じでした」


「何が」


「残業をして、やっと食べられた千円のとんかつが、その日一番正しいものでした。誰かのための値段ではなく、自分のための値段でしたが」


「それでいい」


「……そうですか」


「届ける側と届けられる側、どちらも銀貨三枚だ。方向が逆でも、同じ値段でいい」

 シルヴィアは銀貨を三枚、カウンターに置いた。

 立ち上がった。

 暖簾に手をかけて、止まった。


「一つだけ」


「なんだ」


「この店に来て、よかったです」


 揚太郎は鍋に向き直ったまま言った。

「また来い」


「来ます。次も現地調査の名目で」


「名目でいい」

 シルヴィアは暖簾をくぐった。

 路地裏の夕暮れが、石畳をオレンジに染めていた。

 日本の夕暮れに、少し似ていた。

(……出会うべくして、出会った)

 シルヴィアは静かに思った。

 前世で過労死して、この世界に転生して、六年間王宮で働いて、やっと自由になって、隣国の路地裏まで現地調査に来た。

 その全部が、この暖簾に繋がっていた。


 馬車に乗り込んで、領地への帰り道、窓から空を見た。

 手帳を取り出さなかった。

 ただ、空を見ていた。

 明日は、領地の水路補修の見積もりがある。

 だが今日の夕暮れだけは、数字にしなくていい。

 定時を告げる隣国の鐘の音が、遠くから聞こえてきた。


(完)


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